•  両手いっぱいの幸せを君に  
    16 





    「何だよ、これ」
    「休暇届」
    「一週間もまとめて?」
    「うん」
     何か支障ある? と、挑むような視線を受け、三倉はどこか悲しそうに眉をひそめた。
    「――――」
    「仕事は差し障りがないように、ちゃんとチームのみんなに引き継いだよ。所長からも許可もらってきたし、大丈夫。迷惑はかけないから」
      本来であれば先に許可を伺うべきなのは同じチームの主任である三倉だ。その彼を飛ばしての万全の根回し。穏便な雰囲気はそこには見出せなかった。
    「本当に外に出る気でいるのか?」
    「何で? 普通の有給休暇だよ? 俺がしばらくいなくたって、問題はないはずだろう?だいたい、怜はもう、ここにはいないんだから」
     その迷いのない澄んだ眸に、桐嶋が敢えて口にはしなかった思いまで、三倉は理解してしまった。と同時に、鈍い痛みを発して軋み出した内面をその表情には一切浮かべないまま、絶望的な思いを飲み下した。
     唯一、自分と思いを共にする戦友だと思っていた。
     唯一、背負った痛みと罪の重さを共有し得る戦友だと。
     それなのに――――――
    「どこに、行くつもりなんだ?」
     そして、何をしに。
    「……………」
     答えない桐嶋に、三倉はどこか切羽詰ったような声で呟きをこぼす。今、桐嶋のしようとしていることは、決して最善の結果を生み出しはしない。
     だから。だから、考え直してくれ、と。
    「同じことの繰り返しになるとは、思わないのか?」
     あの少女のときと。
     けれども。
     桐嶋はゆるぎない決意を秘めた眸で応じるのだ。
    「逆だよ。同じことを繰り返さないために俺は行くんだ。俺はゆかりを守れなかった。だからこそ、怜を守りたい」
    「桐嶋」
     言いかけた三倉の言葉を遮って、桐嶋は続ける。
    「怜は実験動物なんかじゃない。人間なんだ。だから、そうは思ってないやつらの好き勝手には、絶対にさせない」
    「ゆかりのときも、俺たちはそう叫んだはずだ。ゆかりは人間なんだって」
     その結果を思い出せと、言外に訴える三倉に、桐嶋は険しい眸を向ける。
    「でも、あの時の俺たちは何も知らなかった。今回とは違う。そうだろう?」
     含みのある桐嶋の口調が三倉の胸に刺さる。
    「何のことだ」
    「三倉さん、俺に黙ってること、あるよね? ま、上からの命令だからって言われたらもう、仕方ないんだけど。でも、知らなかったってことはないはずだよね?」
     仕方ない、という言葉とは裏腹に、決して納得はしていないと桐嶋の眸が、声が、全身が訴えている。
     静かな怒りがそこにはあった。静かで、そして根の深い怒りが。
    「怜を外に出すとき、三倉さん、言ったよね。これは、怜が外の世界で上手くやっていけるかどうかの試験期間みたいなものだって。これが上手くいけば、S級の因子保有者でも社会に適応できる方法が見つかもしれない。法に保護されて普通の日常生活を送ることができるかもしれないって。怜が担うのはそのための先駆者の役割で、崎谷の存在は一般社会の知識が何もない怜を守るために必要なんだって、そう言ったよね。今も同じ事、俺に誓える?」
    「………………」
     詰るような口調に言葉を捜しあぐねた三倉にあからさまなため息を零した桐嶋は、「これはあくまで俺の推測だけど…」と、さらに険しい眼差しを向ける。
    「本当は逆なんじゃないかな? 怜を窮地に追い込むための実験に俺たちは加担しているんじゃないのか? 政府が模索しているのは、S級の因子を持った人間の凶悪性のコントロール。違う?」
    「――――――」
    「崎谷を怜に近づけたのは、崎谷が真の孤独を知る者だからだ。孤独の中で窒息しそうになっていた過去を持つ崎谷だからこそ、あの中での暮らしを余儀なくされている怜を放っておくことは出来なかった。当然だよな。崎谷は孤独に耐え切ることが出来なかったんだから。自分が逃れたいと嫌悪し、恐怖し続けたその状況の中に在ることが怜にとっては一番幸せなんだってことに気づくことが出来なかった。しかも、崎谷は怜を外に連れ出すことを実行に移すだけの行動力を持っている。たとえ崎谷に三倉さんたちに協力しているつもりはなかったとしても、でも、結局、なにもかもが都合が良かったんだ」
     三年ぶりの新規採用でブランカに赴任してきた崎谷は、過去の影を感じさせることのない屈託のない笑顔で笑っていた。彼がそんなふうに笑えるようになるまで、どれだけの修羅をくぐってきたのか。突き詰めて問うことはしなかったけれども許かは耳に挟んで聞いている。就職時に過去の履歴のすべてが洗い出されるのは、崎谷に限らず、国家機関に属する者の宿命だ。
    「冗談じゃない! こんなことなら俺は最初から怜を行かせはしなかった。どんなことをしたって、あのまま、あの楽園の中に閉じ込めておいたよ」
    「桐嶋!」
     それは違うと。
     荒げられた三倉の声は、桐嶋の一瞥に叩き落される。
    「言っとくけど。止めたって無駄だから。変な小細工なんかしたら、軽蔑するよ」
    「それは、勘弁してくれないかな。おまえに軽蔑されるのは、正直、誰にどんな悪口言われるよりキツイわ」
    「三倉さん次第だね」
    「……………」
     引かれてしまった境界線。
     何故、こんなことになってしまったのだろう?
     何故…………
     じゃ、と、踵を返しかけた桐嶋の肩を、三倉は咄嗟に掴んでいた。
    「あと少し。あと少しだけでも現状を見守ることはできないか?」
    「やつらがこの先ずっと、怜には絶対に手を出さないっていう保障を、いまここでもらえるなら」
    「――――――」
    「この実験の結果が上手く分析できれば、人間兵器の開発へと応用できんだろう? だったらやつら、怜の起爆スイッチ押しかねないぜ?」
     今、国が最も力を入れて開発に取り組んでいる分野のひとつが生物兵器だ。一発で国どころか世界を消滅させてしまいかねない核はどれだけ開発に心血を注いだとしても、扱いが非常に難しい。切り札にはなり得るが、実践の場ではそのスイッチを容易に押すわけにはいかない。だから、核よりも手軽に扱えて、且、相手により強大な損害を与えることができる兵器の開発にどこの国でも力を注いでいた。レーザー、ミサイル、爆発物、細菌やウィルス等、核以外の兵器の開発に。そしてとうとう、「人間」までもが兵器として注目されるに至る。相手の懐深くに入り込んで致命的な「損害」を与えるのに、最適な「武器」。
     それを、政府が水面下で本格的に模索し始めた時に提唱されたのが、S級の犯罪因子論だった。
     ジャクソンの定義を逆手に取った正当性。
     怜が犠牲になることだけは――――
    「それだけは絶対に許さない」
    「桐嶋……」
    「三倉さんは傍観者に徹するんだろう? だったら、俺のことは放っておいてくれ」
     言い捨てた桐嶋は、後ろ手に扉を閉め、そして、二度と振り返ることなく立ち去っていった。
     待ってくれ、と。
     視界から消えた背中に叫びたくなる。
     頼むから、と。
     けれども。
     彼を引き止めることもまた叶わぬことなのだと、三倉は知っている。
     どうすることもできないのは、自分自身の性分だ。生き方は、変えられない。
    「もう、遅い。遅いんだ、桐嶋……」
     手のひらで覆われた三倉の貌には、苦悩の表情が浮かんでいる。
     祈りは。そして、願いは。
     誰に叫べば聞き届けてもらえるのだろう?
     何と引き換えれば、叶うのだろうか?
     重く閉ざしたまぶたの下で。
     三倉が抱いた希望の光が、小さく、とても儚げに揺らぐ様を見たような気がした。
     それはまるで、最後の喘ぎでもあるかのような微かな瞬きだった。





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