滞ることなく進行したミーティングを終え、自室へと戻った桐嶋は、燻りつづけるやりきれなさをぶつけるかのように、羽織っていた白衣を乱暴に脱ぎ捨てた。
バサリ、と宙に浮いた白衣の袖が立てかけられたギターを掠めて落ちる。
――――怜………
ふらりと歩み寄ったギターの弦を指先でそっと弾けば、ピンと張られた弦が震えて高い音を響かせる。思い出すのは、このギターを抱えて嬉しそうに桐嶋の腕を引いた怜の表情と、ギターを爪弾く真剣なまなざし。そして、そんな彼を見守る崎谷の眸。
いま、そのふたりはここにはいない。
むなしい空虚さに、桐嶋は深いため息をついた。
ふたりが研究所を去ってから、半年が過ぎようとしている。だが、そのことが研究所内で殊更大きな問題になることもなく、表面上は何事もなかったかのように、時は流れつづけていた。
そもそも、この研究所に在籍する所員であっても、何らかの形で怜との係わりを持っている所員は、極僅かの者に限られている。
そして、「極秘任務遂行中」として処理されている崎谷の不在も、この研究所の性質上、所員が仲間内にも明かすことのできない任務に長期にわたって携わることは珍しいものではないため、特別に訝しがる者はいない。
しかし、桐嶋は精神をチクチクと刻まれるような言いようのない思いを日々噛みしめ続け、彼らに手を差し伸べることの出来ない自分自身に、苛立っていた。
ふたりがここを去った後、その思いは薄れるどころか、日増しに強く膨らんでいく。
それなのに動けないでいるのは、己の過去の行為に対する激しい後悔と自責の念を拭うことができないまま、いまなお捕われ、そして畏れているからだ。命令に背き、客観性を欠いた己の感情のままに暴走した結果、一人の少女を死に追いやってしまった過去に。
極秘任務遂行中。
それは、名目だけの言葉ではなく、実質的に崎谷がその任に当たっていることを、知る者は知っている。
たとえ、当の本人にその自覚はなくとも。
新生児に対する政府のメディカルチェックによって怜がS級の因子を有すると判断されたときから、彼は両親の手元からブランカへとその身を移された。そして、六歳の誕生日を迎えた時に、怜の身体には発信機が埋め込まれている。当時の最先端の技術を駆使して作られたその発信機の精度はいまだ衰えてはいない。この地球上にいる限り、怜の所在を見失うことはないだろう。実際、研究所を出た後の二人の足取りは正確に追跡され、彼らが居を構えたアパートの周辺には監視カメラが設置されている。おそらく、その近隣には何人かの人員も配されているのだろう。
わかってはいたことだけれども。
いざそれを目の当たりにして、研究規模の大きさに改めて驚かされる。それと共に強烈な嫌悪感を覚え、桐嶋は眉をひそめた。
いったい何人の人間がS級の因子の研究に関与しているのか。
いまいる研究所員の中では前任者に次いで、最も怜に近いところで関わってきた桐嶋ですら、把握しているわけではないのだ。
監視カメラでは室内の様子までをうかがうことはできないが、時折送信されてくる映像には怜の姿が映されている。
そのたびに桐嶋は、変わらぬ笑顔を浮かべている怜の姿に安堵し、と同時に、その笑顔はもう、自分に向けられることはないという現実に胸を痛めるのだ。
ゆかりの一件で処罰を下される代わりに桐嶋に命じられたものは、怜の生活の一切の管理とデータの収集だった。その辞令を積極的に受け入れたわけではない。だが、いまではそのことに感謝してすらいる。怜との出会いが桐嶋の呼吸を楽にしてくれた。楽園の中で微笑む怜の純真な笑顔に、傷を負った心はずいぶんと癒された。怜の存在そのものが、桐嶋の救いであったと言っても過言ではない。
怜がいてこそ、意味のあった世界。
怜がいてこそ、色のあった生活。
怜がいてこそ、癒されていた心。
怜がいてこそ…………
だからこそ、彼の幸福な未来を守ることこそが自分の使命だと、そう、信じていた。
そんな思いを柔らかな笑顔で包み、怜とは毎日のように言葉を交わし、多くの時を共有し、生涯この檻の中で共に在り続けるものだと思い続けてきたけれども。
仕組まれた出会いが歯車を狂わせていく。
結局、崎谷に向けられるような眸で怜が桐嶋を見ることはなかった。
信頼と、情愛と、敬意と。
他者に向けられるありとあらゆるプラスの想いが集約されているかのような眸で見ることは、ついになかった。
どうしても超えることができなかった境界線。
怜を想う気持ちに違いがあったとは思わない。
籠の中から広い世界へと怜を連れ出した崎谷と、あの場所での幸福な暮らしを生涯守りつづけることを心に誓った自分と。
相違点はこれに尽きるだろう。
あの日見送った、監視カメラの映像の中のふたりの背が、脳裏から離れない。
決して地上にはあり得ない楽園を求め、迷いのない足取りで、最も楽園に近い場所を後にしていった、ふたりの背が。
すべてを、納得していたわけではない。
だが、研究方針は最初から決められていた。それこそ、崎谷が赴任してくるその前から。
だからこそ、その背を見送ることが桐嶋の任務であると言い含められ、怜を手放したのだ。
『俺たち研究者は、客観性をなくしてしまったらダメなんだ。たとえ、何があっても』
まるで、己自身に言い聞かせるように何度も何度も繰り返されていた三倉の言葉が、桐嶋を縛りつける。
けれども。
いまになって桐嶋は激しく己に自問する。
何のための研究なのか。
何のための、そして、誰のための客観性なのか。
それは国のための研究であり、決して怜にプラスに働きはしない客観性だ。むしろ、怜を犠牲にしかねない研究なのではないのだろうか?
この半年の間漠然とした不安として感じていたその事実を、今日のミーティングの席での話題によって、まざまざと突きつけられた。
自分はなぜ、今まで何も気づけないまま、何もできずにいたのか。
奥歯をかみ締めた桐嶋は己を詰る。
何故、止めなかったのかと。
何故、黙ってその背を見送ってしまったのかと。
たとえ、どれだけ反発されたとしても、或いは、どんな手段を行使してでも、何故崎谷を止めなかったのかと。
たとえ、怜に恨まれたとしても。なぜ、止めなかったのかと…………
重い過去を背負っている自分だからこそ、何かできることがあるはずなのだ。それなのに自分は、何もせずにここにいる。「仕方ない」と、すべてを諦めてここにいる。
そのことが、どうしても我慢が出来なくて。そんな自分が歯痒くて。
桐嶋は握りしめた拳を振り下ろした。
デスクが激しく揺らぐ。
「くそッ!」
――――彼は少しずつ外の世界との接触を持ち始めたようだ。
――――あの部屋の中だけでの生活は、言ってみればここでの生活を縮小したような
ものですから。
――――だが、同じ箱の中でもそこで得られる情報は比較にならないだろう。
――――それがプラスに働くか、マイナスに働くか。
――――プラスに働く要素は?
――――どうでしょうか?
――――ここにいたとき、彼はいわゆる純粋培養だったわけですよ。ほぼ同じように、
あの部屋の中だけでストレスのない生活を送っていた彼が外界と接触すること
でどこまで負荷がかかるのか。観察すべきはその一点に尽きるかと思いますが。
――――負の要因を少しずつ蓄積させていき、負荷が最大限まで達したときに彼がとる
行動ですね。
――――ほんの些細なことが引き金になって暴走する事例だってあるだろう。
――――肝心なのはその引き金となる外的要因とそこから生み出される結果です。
その因果関係が明確になれば…………
ちょっと待ってください、と、口にしかけ、チラリとこちらを伺うように向けられた視線に、ここから先は自分が立ち入ることの出来ない領域での話題であることを桐嶋は悟る。
気分が悪い。
どうしようもなく。
――――それにしても……26年の時間をすべてリセットされてしまいましたね。
――――また純粋培養の子供を一から育てるところから始まるのか?
――――いや、今回のことで結果が出れば、無駄な時間にはならないだろう。
――――その件に関しては後日またあらためて議題にかけることにします
――――では、今日はこれまでということで。よろしいでしょうか?
淡々と進行していくミーティングの中にあって、あくまでも怜をサンプルとしてしか見ていない彼らの口調に憤る自分を、桐嶋は必死でなだめつづけた。そして、その言葉の中に隠された真実を必死で探る。
彼らの意図はどこにある?
ひっきりなしに煙草をくわえたまま、自室で開いたパソコンのモニター画面上に次々と切り替えられていく文字やデータを険しい表情で見つめるていた桐嶋は、やがてあきらめたようにマウスから手を放した。
当然のことながら、桐嶋の管理者権限で引き出せるあらゆる情報を探ったところで、あの時彼らが呑み込んだ言葉の断片ですら見つけ出すことは出来なかった。
「気に入らないな」
腕を組んで深い息を吐く。
彼らが欲しいのは結果だ。
S級の因子を持つ怜が行動を起こしたその結果を、不気味な沈黙の中で待っている。
ふたりが暮らすあの場所を包囲して。
では、彼らはどんな結果を望んでいるのだろう?
そして怜は。
怜は一体どうなってしまうのだろう?
悪寒に似たゾワリとした何かが、桐嶋の背を這い上がった。
同時に、自分はこの場所で何をしているのかと、自問する。
水面下で進行している忌まわしい何かを止めることが出来るのは、もはや自分ひとりしかいない。
それなのに、ここで何をしているのか。
守るべきものを間違えてはいけない。
壊したくないものは怜の笑顔。
怜の幸せ。
まだ走れる。
まだ闘える。
そう。
これ以上この箱の中で考えたところで仕方がないのだ。
状況を打開するためには動くしかない。政府の連中が彼らの思惑の範疇で動いているならば、自分は自分の意思で行動を起こすまでだ。彼らと自分との間にあるのは、あくまでも雇用契約であるはずだ。鎖でつながれていない自分は、怜のようにこの檻の中から出るすべを持たないわけではない。戦うだけの牙もある。
ならば、考えられ得る最善の方法を。
できることのすべてを。
全力を出し尽くしてこそ、悔やむ権利がある。
だから、行こう。
怜を迎えに行くために。
崎谷はS級の因子の因果を真っ向から否定したけれども、自分は知っている。
それは、ある日突然暴走する狂気だ。スイッチが入った瞬間に、彼らは迷いなく、人を殺め、傷つけるための刃を振り下ろすだろう。
それは、政府の研究者たちが待ち望んでいる瞬間に違いない。
その瞬間を迎えてしまったら最後だ。
怜の未来は闇に閉ざされてしまう。
だから――――――
何かが起きてしまう前に。
取り返しのつかないことになってしまう前に。
この場所へ、怜を連れ戻すのだ。
怜が怜で在りつづけるために。
この楽園の中に。
けれども。
楽園の中で永遠に止まり続けるかと思われた怜の時は、すでに流れ始めているのだ。
そのことに桐嶋は気づかない。
気づけない。
彼の保護下にいた怜と離れていた時間の隔たりの重さに、気づくことができないまま、歯車は廻りつづける。
静かに、ひっそりと、だが確実に。
廻り続けるのだ…………
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