•  両手いっぱいの幸せを君に  
    13 






     キッチンとリビングを行き来していた倉光が腰を落ち着けたタイミングを見計らって怜が大切そうに取り出したものは、その日、砂浜で拾った貝殻だった。汚れを丁寧に拭い落とされたその貝は、灯された蛍光灯の明かりを受け、怜の手のひらの上で真珠色に輝いている。
    「もっとたくさん拾えたらよかったんだけど、この形の貝はこれひとつしかみつけられなかったんだ」
    「そんな大事なもの、もらっちゃっていいの?」
    「うん。これ、耳に当てると海の音が聞こえるって、崎谷に教えてもらったんだ。だから、倉光くんにあげる。倉光くんも、せめて海に行ったみたいな気分になれるといいなーって思って」
     差し出された貝を慎重な手つきで受け取り、倉光はそれを耳に当てた。
    「――――――――」
     忘れていた懐かしい感覚がよみがえる。
     怜の優しい気持ちが伝わってくる。
    「なんか、最高のプレゼントだな。ありがと。すっげぇ嬉しいよ」
     日中の興奮冷めやらぬ怜の話は尽きない。
     初めてのドライブ。初めての海。楽しかったこと。感動したこと。驚いたこと。嬉しかったこと。
     三人で食事の支度をし、テーブルを整え、食卓を囲んでも尚、怜は楽しそうに話しつづけていた。その日一日に見聞したことすべてを倉光に伝えようと、拙いながらも溢れる言葉はとどまることはなかった。
     そして―――――
     食後の片づけをすべて終えた倉光が、アイスペールとロックグラスを手にリビングに戻り、目にした怜の様子に思わず笑いをこぼした。
    「怜さん、よっぽど楽しかったんだなぁ」
     言いたいことを言い尽くしたとでもいうかのように、ダイニングテーブルに突っ伏して寝息を立てている怜を見やる倉光の眸は、まるで小さな子供を見守るようなあたたかさと穏やかさを覗かせている。口元に笑いを残したまま、幸せそうな顔で眠りの中にいる怜を見つめる崎谷の表情も、柔らかく緩んでいる。
    「はしゃぎ疲れた子供みたいになってるよ」
    「そうだね」
    「おまえもさ、あそこまで喜んでもらえると、エスコートした甲斐があるってもんだな。俺も車を貸した甲斐があるってゆーか……」
    「そう言ってもらえると、なんか安心する。でもさ、俺と怜さんがこうやっていられるのも、半分は倉光くんのおかげだよ」
     うつむき加減で複雑な微笑を浮かべた崎谷の胸を、さまざまな思いが過ぎる。
    「俺、ホント、倉光くんにはどんなに感謝してもしきれない」
     家族でもない男の二人暮らし。
     しかも、怜からは、成人男子ならばこれまでの人生の過程において身につけているべきはずの知識が欠落してしまっている。
     明らかに異質な自分たちを、倉光は何の詮索をすることもなく、ありのままに受け入れてくれた。
     そんな彼の存在によって、自分たちはどれだけ救われたのだろう。
    「ここじゃないどこに落ち着いてたとしても、どんな状況にあったとしても、俺たちはふたりで何とかするしかなかった。だから、多分なんとかしてたとは思うけど―――でも、ちがうところでいまみたいに笑ってられるか-って聞かれたら、ちょっと自信ないかも、俺」
     思わずこぼれた弱音を飲み込んだ崎谷は、自嘲気味に笑って言った。
    「ごめん。いまの、聞かなかったことにしといて」
     そんな崎谷に慰めの言葉をかける代わりに、倉光は黙って琥珀色のアルコールを注いだロックグラスを差し出した。
     聞きたいことはいろいろとあるだろうに、何も聞かぬまま、与えうる限りの助力を惜しまずに差し出してくれる倉光と怜は同じ種類の人間だ。見返りも打算も何もなく、ただ、相手のためだけにその手を、あるいは大切なものを差し出すのだ。
     そう。
     怜はいつでもそうだった。
     大切に育てた花を惜しみなく崎谷に与えようとしたように、いま、自分が与えられる最上のものを、思いを寄せる相手に差し出すのだ。
     そんな彼が、犯罪者扱いされる謂れはない。絶対に。
     両親とのいさかいの果てに人を殺める寸前まで荒んでいた自分の方が、はるかに罰せられるべき犯罪者の側に近い。深い孤独の果てにこの世のすべてに絶望し、何もかもを叩き壊そうとしていた自分の方が。
    「倉光くん」
    「なんだよ」
    「いろいろありがとう」
     まっすぐな視線を向けた崎谷にストレートに言われ、照れくさそうな表情を浮かべて居心地悪げに身をよじった倉光は、「おまえなぁ…」とうめくように言った。
    「いまさら水くさいこと言ってると、たたき出すぞ」
    「それは困る」
    「だったらもう他人行儀なこと言うな」
    「うん」
     グラスの中で融けはじめた氷をまわしながら、静かな寝息を立てる怜を横目で見やって倉光が表情を引き締めた。崎谷に話すタイミングをはかっていたことがある。今がその時だと、グラスをタバコに持ち替え、一本を取り出して唇に咥えた。
    「口止めされてるんだけど……、さすがにおまえに黙っておくわけにはいかないことだからさ」
     キンッ、という小気味の良い金属音を鳴らしてジッポの蓋を起こした倉光は、咥えたタバコに火を灯してゆっくりと息を吐いた。立ち上る紫煙を追っていた眸を次の瞬間まっすぐに向けられ、崎谷も背を正す。
    「実は俺、この間怜さんにちょっと相談持ちかけられてさ」
    「相談?」
    「うん。何か、できる仕事があったら紹介して欲しいって言うんだ。かなり真剣な感じだったし、ほかならぬ怜さんの頼みだし、適当にあしらうのはちょっとできないかなぁと思ってさ」
     その言葉に、胸を突かれたように崎谷は眸を見開いた。
     怜が崎谷にそのことを持ちかけたのはただ一度。
     その後、崎谷のまえでは怜はそのことに触れてはいない。
     けれども。
     あきらめていなかった怜の思い。それは、倉光にぶつけられていた。
     まだ早いと。
     そう思った自分のあのときの気持ちが怜に伝わってしまったのだろうかと、考え込むようにこわばった崎谷の表情を捉えた倉光は、静かに続ける。
    「さすがにね、詮索するつもりはないけど、ふたりには何か事情があるんだろうってことはわかるし、今の怜さん、外に出て働けるかって言われたら、俺だって素直にうなずけないわけだから、崎谷が躊躇する気持ちはわからなくはないけど」
     さすがに倉光は鋭い。
     完全にとはいかないまでも、状況の一端を把握している。
     実社会で働くにあたって、一般常識が欠落している部分には目をつぶったとしても、読み書きが満足にできないことは致命的だ。そして、いかに人懐っこくて人当たりがよいといっても、極めて限られた人としか接してこなかった怜が、集団の中でうまくやっていけるかどうかは未知数だ。不安要素は数知れない。
     けれども。
    「でも、怜さん、ホント必死だったし、できれば何とかしてやりたいかなってのが俺の本音。一応仕事のあては、なくはないんだけど、最終的にどうするかはおまえの判断に任せた方が良いだろうからさ」
    「………………」
     それは、ひとつの起点になるかもしれない。
     より広い世界へ踏み出すための。
     心のどこかでは思っていた。
     アパートの部屋の中に閉じ込めてしまっているだけでは、研究所の中で暮らしていたころと変わらないと。
     けれども。
     どうしても、次の一歩を踏み出すことができなかった自分。
     もしも、万が一――――という思いがどうしてもぬぐいきれていなかったからに他ならない。
     それは、完全否定したはずの理論を肯定することにもなりかねないのではないのかと、己自身に問いただしながら。
     本能的な部分で漠然とそのことを感じ取っていたからこそ、怜は崎谷に思いをぶつけるのではなく、倉光に相談を持ちかけたのだと思う。
     どこかで踏み出さなければならないのだ。
     それは、どこかで感じていた。
     それが、今なのかもしれない。
    「このままじゃいけないってことはわかってたんだ」
     そう。このままでは、何も変わらない。
     あの、白い檻の中で暮らしていたあのころと。
     いま、倉光がその先へと導いてくれるというのなら。
     委ねてみるのはよい機会なのかもしれない。
     今の崎谷と怜をもっとも良く把握している倉光が「あてがある」といっているのだ。
    「倉光くんが怜さんにやれるって判断した仕事なら、それを始めてみるのはいい機会なのかもしれない。俺だったらどうしても過保護になっちゃうから、だから怜さんも倉光くんに相談しに行ったんだと思う」
    「……………」
    「ホント、甘えっぱなしで申し訳ない感じなんだけど、よろしくお願いします!」
     頭を下げた崎谷に倉光はあわてたように両手を振った。
    「だ〜か〜ら〜! いちいちかしこまるなって言ってんだろうが! 本気でたたき出すぞ!?」
    「いまだけだから、言わせといてよ。俺、倉光くんにはマジで感謝してるんだ」
     倉光と隣りあわせることができた自分たちは、幸せだったと。
     崎谷は心の底から思わずにはいられなかった。






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