•  両手いっぱいの幸せを君に  
    12 





    「倉光くん! 倉光くん!!」
    「くーらみーつくーーん」
    「聞こえてるって。人の名前、変なふうに区切って呼ぶなよ」
     夕暮れ時。
     洗濯物を取り込もうとして出たベランダで、見事な茜色に染まった空に思わず見入っていた倉光だったが、その真下と思しき場所から近所中に響き渡るような大声で名前を連呼され、勘弁してくれと眉を寄せた。
     声のする方を覗き込むように見下ろせば、ぶんぶんと手を振るご機嫌な二人組がいる。
     その笑顔につられるように、微苦笑を浮かべた倉光が手を振り返せば、さらに威勢のいい声があがった。
    「ただいまー」
    「車、ありがとね。マジ感謝」
    「ありがとー! すっごく楽しかったよ」
     駐車スペースに停められた愛車は、その日一日の汚れをすっきりと洗い落とされて夕日を浴びている。パールホワイトの車体が赤く染まる様を目を細めて眺めながら、倉光は感心したように口笛を吹いた。
    「すっげぇ……よく無事で戻ってきたよ、俺の車」
     傷も凹みもなさそうな様子にとりあえず安堵する。
    「ちょっと?」
    「貸すって言ったのはいいけど、実はさ、どっかキズモノにされるのは覚悟の上だったんだよね」
     俺ってすっげぇいいやつじゃん、と、人の悪い笑みを浮かべた倉光に、心外だと崎谷が頬を膨らませる。
    「ちょっとちょっと、倉光くん!」
     大学を出てからはほとんどハンドルを握っていないとはいえ、他人の車を借りるのだからそれなりに運転の腕には自信があった。時には会社の車を動かしたりもしている。それを、高らかにヘタクソ呼ばわりされるのは、どうしたって納得がいくものではない。
    「何失礼なこと言ってんだよ!」
    「冗談だって、冗談!」
     一人憤慨する崎谷を笑ってあしらいながら、そんな二人のやり取りを聞いているのかいないのか、始終、にこにことした笑顔を浮かべている怜に倉光は視線を向けた。
    「二人でどこ行ってきたの?」
     喜色満面の怜が弾むように答える。
    「海!」
    「どうだった?」
     問われ、怜の眸が輝きを増す。
    「すごかった! とにかくすごいの! 俺、海ってはじめて見たよ」
     道沿いに並んでいた堤防が途切れ、にわかに出現した眩しいきらめき。
     光をはじいてキラキラと揺らめく一面の大海原に、怜は瞬時にして心を奪われた。
     降り注ぐ光。
     どこまでも続く大海原。
     緩やかな弧を描く水平線。
     押し寄せる波。巻かれる渦。風に舞うカモメ。青い……どこまでも青く続く海。
     果てなく広がる水の大地は、怜が26年間生活してきた空間には決して存在しなかった光景だ。
    「すごい……」
     夢にすら思い描くことのなかった未知の世界を目の当たりにして、薄い唇からこぼれたつぶやきはたった一言。あとはただ、発する言葉すら持たないまま息を殺している。
     時折感嘆の声をこぼしながら、ナビシートの窓にしがみついて食い入るように眼前の光景を見つめ続ける怜を、崎谷はさまざまな感情の入り混じった思いで見つめていた。
     開け放した窓から車内に流れ込んでくる潮の香り。
     見晴らしの良い場所に設けられた駐車場に車を停めると、海に魅せられたまま頬を高潮させている怜に崎谷は誘いかける。
    「もっと海の近くまで行ってみましょうか?」
     うなずいた子供のような笑顔から、喜びが伝わってくる。なだらかな石段を下り、砂浜に降り立った怜は、初めてその足で踏みしめた砂の感触にバランスを崩しかけて声をあげた。
    「うわっ! 何これ!? すっごい歩きにくい」
     踏み出すたびに足の裏から柔らかな砂にはまり込んでいく初めての感覚におぼつかない足取りで進む怜に、崎谷が笑いながら腕を伸ばす。
    「手貸そうか? なんならおぶってあげる?」
    「いい! 自分で歩くから」
     無造作に歩を進める崎谷とは対照的に、歩き慣れていない砂に足をとられながらも、怜は一歩一歩大切に踏みしめるように砂浜を歩く。
     重みをかけるたびに、足元で崩れる砂。
     その感触をどうしても自身の手で確かめたくて。
     しゃがみこんだ怜は指先で砂をかき混ぜながら、足を止めた崎谷を見上げた。
    「あったかい…」
     太陽の光をふんだんに吸収した砂は、あたたかな熱を帯びている。手のひらですくいあげた砂が指の隙間からサラサラと零れ落ちる感覚をいとおしむように、怜は何度も何度もすくいあげては砂を振り撒きつづける。
     同じ目線まで腰を屈めた崎谷は、怜の動作を真似てすくいあげた砂を風に飛ばしながら、言った。
    「どうせだったら、靴脱いじゃおうよ。気持ちいいから」
    「うん」
     靴下と靴を放り、裸足で砂浜を踏みしめる。
     同じように裸足になった崎谷に誘われるまま恐る恐る波の中に分け入り、寄せては返す波の息吹きを、その肌で存分に感じ取った。

     ザザァァァ………

    「すごい……水が動いてるよ」
     水の中に浸かった足に寄せる波が飛沫をあげ、足裏の砂を削るように崩していく。
     潮風が緩やかに頬を撫で、髪を浚い、やさしい息吹を吹きかける。
     これが、海の音。海の呼吸。海の匂い。
     降り注ぐ光に彩られた水面のまぶしさに、怜は眸を細めた。
    「こんな世界があったんだ」
     箱庭の中で無限の世界が広がることを知らないまま笑っていた自分。
     色とりどりの花たちに慰められ、日ごとに訪れる「誰か」と言葉を交わす毎日の繰り返し。ひとり、身体を丸めて眠る夜。そしてまた、迎える朝。それが世界のすべてだと信じていた。
     なんて狭くてちっぽけな世界だったのだろう。
     自分が生きてきた世界は。
     なんて――――――

     ザザァァァ………
       ザザァァァァ……… 

     沈黙の中、寄せては返す波の音だけが静かに鼓膜を揺らしつづける。
    「キレイだ………」
     注ぐ陽光をキラキラと弾いて揺れる海面を飽くことなく見つめていた怜は、波間に小さなつぶやきを落とした。
    「はじめてみる景色なのに……、なんでこんなに落ち着くんだろう。なんでこんなに切ないんだろう。なんで――――――」
     ふいに。
     滲んだ涙が怜の視界を潤ませた。
     頬を伝った透明のしずくが、波の揺らぎに呑み込まれていく。
     怜の背中からそっと腕を廻した崎谷は、その薄い身体を包み込むように抱きしめた。
    「俺、涙腺ぶっ壊れたみたい。なんかヤバイ」
     廻した腕を抱え込み、その腕の中に頬をうずめた怜のクセのある柔らかな髪に唇を寄せ、崎谷は優しくささやきかける。
    「あのね。波の音は、お母さんのおなかの中で聞く音なんだって。だから、落ち着くの」
    「おかあ……さん?」
    「そう」
    「この音が? お母さんの音?」
    「うん。だから、なつかしくて、やさしくて、あったかくて。でも――――――」
    「でも?」
    「でも俺たちはその場所には戻れない。どんなに帰りたいと願っても。だから切ないの」
     静かなその言葉に、怜は仰のいて背後の崎谷を見やる。
    「崎谷は? 崎谷はその場所に戻りたいって思ってる?」
     そんな怜に、崎谷は心からの言葉を返す。それは、唯一にして絶対の願い。
    「いや、俺はどこにいても、何があっても、怜さんのところに帰るよ。絶対に」
     憎みあい、傷つけあうしかなかった母の元への回帰を願う日は、永遠に来ない。
     そして、母を知らない怜もまた、己の帰るべき場所はひとつしか持ち得ない。
    「俺も………俺も崎谷のところに帰る! 崎谷のところから離れないよ。俺、ほかに居場所ないもん」
    「………怜さん――――」
    「ずっと一緒にいれば、寂しくなんかならない。ずっと、ずっと―――――」
     言葉は、狂おしいまでの口吻けの合間に呑まれていく。

       ザザァァァァ……… 

     それは、波の音が聞き届けた二人だけの誓い。
     世界でふたりだけ。
     たったふたりだけ。
     それで十分だった。
     満ち足りた思いを胸に抱き、時の経過とともに表情を変えていく海を見つめ続けたふたりは、結局、その海岸沿いからまっすぐに彼らの隣人の元へと帰還したのである。
    「倉光くんにお土産あるんだよ、お土産」
     ベランダの下で際限なくしゃべり続けていそうな二人に部屋の中を指し示すと、倉光は笑って言った。
    「ふたりとも、あがって来いよ。ちょうどコーヒーでも煎れようかと思ってたとこだったんだ。楽しい話はどうせなら落ち着いて聞かせてもらいたいしさ」
     その誘いに二つ返事でうなずき、表に回って階段を駆け上がってくる二人のために玄関の扉を開け放した倉光は、サイフォンで丁寧にコーヒーを煎れて、香り豊かなカップをテーブルにならべるのだった。







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