•  両手いっぱいの幸せを君に  
    11 






     研究上を出てから今日まで、表面上は穏やかな日々が続いていた。
     そんなある日。
     ここ二三日、ずっとあたためていた計画を打ちあけようと、わくわくしながらバスルームから出てきた崎谷を、珍しく硬い顔をした怜がリビングで待ち構えていた。
     濡れた髪を拭う腕を引いて「ちょっとさ、話があるんだけど」と真顔で切り出してくる。
    「何? 怜さん。どうしたの?」
    「うん。あのさ」
     言いかけるものの、いつになく歯切れの悪い言い方に、崎谷が首をかしげる。
    「?」
    「……うん。考えたんだけど。俺もさ、何かしようと思うんだけど」
    「何かって、何を?」
    「シゴト」
    「――――!」
     言いたかったその一言を口にして弾みがついたのか、怜なりに懸命に考えたであろう言葉を続ける。
    「世間のことって、俺、いまでもよくわかってないけど、でも、何か、俺にでもできることってあると思うんだよね。だってさ、稼がないと、人って暮らしていけないんだろう?」
    「怜さん……」
     少しずつ、だが着実に知識を蓄え始めた怜は、解き放たれた世界で自分なりにどうやって生きていけばいいのかを、懸命に思案していた。
     より厳密に言うならば、崎谷と共に生きていくためには、何をしたらいいのか、を。
     決して楽な暮らしではなかった。
     アパートを借りるための費用を捻出し、この先、何かあったときに身軽に動くための資金を確保した後に残った金では、必要最低限の生活必需品と家財道具を揃えるのですら難儀した。
     さて、どうしたものかと口では言いながらも、あまりにも脳天気に笑う二人を見かねた倉光は、己が所有するもので使用していないものを譲ってくれ、それでも足りないものは、知人から不要なものを譲り受けてきてくれたりと、なにかと力を貸してくれた。
     そんな引越しのドタバタも抜けきらないうちに、ふたりで生活していくために必要な収入を得るために崎谷が選んだ仕事は、研究所に居た頃のような頭脳労働ではなく、身体を酷使する肉体労働だった。
     院まで大学に席を置き、卒業したあともそのまま研究職に就いた崎谷にとっては肉体的にかなりな負担を強いられる仕事ではあったが、キツイと思ったのは最初のうちだけで、それもすぐに慣れた。
     働く動機が動機であった為、それが崎谷にとって苦になるはずもなかったのだ。実質的な収入具合は、ふたり、食べていくので精一杯ではあったが、気持は満たされていた。
     それでも、筋肉がつき、浅黒く日焼けし、日ごとに精悍さを増していく崎谷の変化は、毎日彼と向き合って過ごす怜に何らかの刺激を与えていたのかもしれない。何をするために崎谷が毎日決まった時間に外に出て行くのかを知ってからは、尚更、怜の中で思うところがあったのかもしれない。
     そんなふうに、怜が世間に目を向け、考えをめぐらせていくことは、それは喜ぶべき変化ではあるに違いないのだけれども。
    「まだ早い」と。
     明確な理由もなく胸を過ぎった己の思いをはっきりと自覚する前に飲み下した崎谷は、かすかに緊張の色を滲ませながら、彼の言葉を待つ怜の額に落ちかかる前髪をかきあげてやると、静かに微笑んだ。
    「大丈夫。俺、こう見えても結構甲斐性あるんだって。いまのままだって俺と怜さん、ちゃんとやってけるよ。それとも、怜さんはいまの暮らしで何か不自由ある?」
    「ないよ。ないけど……」
    「だったら問題ないじゃないですか」
     そう結論付けた崎谷に怜は素直に頷くことが出来ず、懸命に言葉を捜す。
    「うん。でも、なんか俺、おまえにばっかり寄りかかってるみたいで……」
     そんなことないよ、と、引き寄せた怜の額に唇を落として崎谷が囁いた。
    「俺はいまのままで十分楽しくて、幸せだけど?」
    「シアワセ?」
     片言のように反芻しながら見上げてくる怜ににっこりと笑ってみせる。
    「うん。幸せ。怜さんと一緒にいられるから。だからそれだけで幸せ」
    「――――」
    「怜さんは?」
    「俺?」
    「うん」
     穏やかな眸に促され、怜は思案するように眸を動かしたのだが。
     それも一瞬。
     すぐに見つけた答えを大切そうに口にする。
    「俺も……うん。俺も幸せ。おまえに出会えたから。だから幸せ」
     さり気なく話が反らされた事に気付かぬまま、怜は崎谷と同じような微笑みを浮かべ、その肉厚な唇に伸び上がるように口吻ける。
     熱い吐息を絡め、うっとりと吐息を零す怜を腕に抱きながら、崎谷は密かにあたためていた計画を怜に告げる。日頃、ひとりではほとんど外に出ることのない怜と一緒に広い世界を見て廻ろうと、倉光にも頼み込んで協力してもらったその計画を。
    「怜さん、明日俺、仕事休みなんですよ。だいから、どっか遊びに行きましょう」
    「どっか?」
    「うん。どっか。のんびりぼーっとできそうなところでも、思いっきり騒いで遊べそうなところでも」
    「…………」
    「車は倉光くんに借りたから。ドライブしながら怜さんの行きたい場所で下りて、そこで遊ぼう。怜さんの見たいものを見に行こう」
     懸命に語りかける崎谷の広い胸に頭を預けて怜が小さく頷いた。
    「行きたい場所とか、見たいものとか―――どこでもいいよ。俺、おまえがいれば、どこでもいい」
     本当に、どこでもいいのだ。
     傍らに崎谷がいれば、ただそれだけで。
     行きたいところと問われれば、崎谷がいるところと答える以外の言葉が見つからない。
     それ以外の世界なんて知らない。
     今の怜にとって、崎谷こそが世界のすべてなのだ。
     ただその世界を守るために何ができるのかを思い、そして、自分がいることで少しでも崎谷の助けになれる手段を思いめぐらせ、懸命に考えた結果が働くことだったのだけれども。
     今のままで十分に幸せだと、崎谷は言うのだ。
     ならば自分は何も考えることなく、この場所にいていいのだろうか?
     ただそれだけで、この平穏を守りつづけることができるのだろうか?
     本当に?
     螺旋を描く怜の胸のうちに気付かぬまま、崎谷は明日に思いを馳せる。
    「晴れるといいね、明日」
    「でも俺、雨でも全然いいよ? 雨見てるの、メチャメチャおもしろいもん」
     天井を覆っていた半球体のドームを、崎谷はいまさらながらに思い出す。あの空間の中では天候すら管理され尽くしたものだったのだ。初めて遭遇した叩きつけるような激しい雨の中、全身を雨にさらしてはしゃぎつづけた怜の姿がチクリと胸を刺す。沈みそうになった気分を振り払うように、崎谷は殊更明るく声を弾ませた。
    「ま、車だからね。雨でも晴れでも問題ないか」
    「なんかすっごく楽しみになってきた」
     ようやく目を輝かせた怜に、崎谷はほっと安堵する。
    「でしょ? じゃ、今日は早寝ですね」
    「え? そうなの」
     密かに楽しみにしていた深夜番組があるんだけど、と怜が言い出す前に、崎谷が偉そうに薀蓄をたれる。
    「そう。遊びに行く前の日は早寝するって、世間では決まってるんです」
    「何で?」
    「――――」
    「何でだよ?」
    「何でも! 昔からそう言う決まりなの」
    「なんか胡散臭いから、その意見は却下! 俺はテレビ見るの」
     どう考えても納得のいく説明が出来そうにない崎谷ではあったけれども、おとなしく引くのも面白くなく、余計な一言を言い添える。
    「わかりましたよ。そのかわり、助手席で居眠りしたら、あんこ早食いのバツゲームですからね」
    「えーー! 絶対却下!」
     倉光が差し入れてくれた薄皮まんじゅうを口にした瞬間、ものすごい形相をした怜は、結局口の中のあんこを飲み下すことはせずに流しに向かってダッシュした。
     口に合わないどころの話ではなかったようで、口をゆすいで戻ってきた怜は、「あんこは一生食べない」と何度も崎谷に宣言していた。
    「いいんだよ、運転手は俺なんだから」
     ルールは俺が決めます!と言う崎谷に、さも名案を思い付いたと言わんばかりの表情で例が言った。
    「わかった!じゃあさ、俺が運転してれば、俺は眠くならないんじゃないの?」
     そんな怜に、崎谷が不用意な言葉をうっかりと漏らす。
    「ムリです怜さん、免許ないんだから」
    「え〜〜。じゃ俺もソレを持っていればいいんだろう? どうやって手に入れるのさ? その免許ってヤツ」
    「―――――!」
     問われ、器用にかわすことも出来ずに言葉に詰った崎谷に、怜は地雷を踏んでしまったことに気付いて慌てて己の言葉を撤回する。
     和やかにほどけていた時が、瞬時にして凍る。
    「あ、いいよ。別に俺、免許欲しいわけじゃないし………その―――――」
    「―――――ごめん」
     消え入りそうな声で呟いた崎谷を慰めるように、怜は力なく項垂れたその肩を抱いた。
    「謝るなよ。おまえのせいじゃないじゃん?」
    「でも……」
    「おまえのせいじゃないの」
    「…………」
    「な?」
     肩口で小さく頷いた崎谷に、二三度、小さな呼吸を繰り返した怜が遠慮がちではあるものの、意を決したように口を開いた。
    「ひとつ、聞いていいかな?」
    「うん」
    「俺が免許をもらえないのは、研究所にいたことと、何か関係ある?」
     声に出さずとも、硬く強張った崎谷の背中が答えを語っている。
    「そっか……」
     ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの小さな怜の囁きが、崎谷の胸に刺さる。
     免許の件は一例に過ぎないのだ。
     今後、怜が外との交流を深めれば深めるほど、こういった事態に遭遇することは免れないだろう。そして、そのことに怜自身も気付いている。白紙の状態だった26年が、今の怜を縛り付けている。
     なのに、懸命に崎谷を案じる怜。
    「だ〜か〜ら〜!! そんな顔するなよ。な? おまえは何も悪くない。言ったろう? 俺は十分幸せだって。おまえがあそこから出してくれたんだよ? おまえが俺に世界をくれたんだ」
    「怜さん……」
    「だからさ、おまえのせいなんかじゃない。おまえのせいなんかじゃないんだ」
    「ありがとう」
     ぽんぽんと。
     丸められた背をあやすようになでながら、何度も何度も、まるで呪文を唱えるように「おまえのせいじゃない」と繰り返し言いつづけた怜は夜半過ぎになってようやく深い眠りについた。その一方で、安らかな寝顔を見守る崎谷は、今尚眠れぬ夜を過ごしている。
     見ないフリをしてきた現実と、今改めて気付かされた現実と。
     その双方が崎谷の肩に重く―――――重くのしかかる。
     少しずつ、だが、確実に。
     怜の視野が広がっている。
     そして、広がれば広がるほど、怜は己の存在にまつわる「真実」に近づいているのだと、いまさらながらに思い知らされた。かといってもう、怜の中で刻まれ始めたこちらの世界での時を止めることは不可能だ。
     そして、外の世界との接点を持ちたいと言った怜に、「まだ早い」と思ってしまった自分の狭量さが、崎谷に少なからずのショックを与えいていた。
     何が早いのか。
     自問してみる。
     それが、己の不安の表れだとは思いたくはない。かと言って、「これだ」という答えが得られずにイライラと己の髪をかきむしる。
     外の世界との接点が増え、怜がその色に染めかえられていくのが、怖かったのかもしれない。
     だが、それは崎谷の傲慢だ。
     怜をこの部屋の中だけにとどめている限り、籠が変わっただけで、怜の在り方そのものに大きな変化はないのではないかと。そんな思いが崎谷を責める。かつて、四方を取り囲んだあの壁の中が、怜にとって世界のすべてであったように、いまではこの部屋が怜の世界のすべてにすりかわっただけなのではないかと。
     それでは根本的に何の解決にもなっていないのではないかと。
     思わずにはいられないのだ。
     そして。
     常に頭の片隅で気にはなっていたものの、その日その日を必死で駆けていた頃には深く追求することもしなかった事実が、気持にゆとりが出てきた今だからこそ、崎谷の胸に重くのしかかってくる。
     あまりにも静かすぎる研究所の動向が崎谷を不安にさせる。
     研究所の方からは何の接触もないどころか、周囲に追っ手の気配すらない。確かに、すぐに足がついてしまうことを恐れて縁のない土地を選んできたけれども、崎谷は国家機密そのものを連れ出してきたのだ。遠く人里離れたあの場所で、外部にその仔細を漏らさぬよう慎重を来した26年間、国が手元に『保管』しつづけた、機密そのものを。
     それなのに、何故―――――――?
     そこには何か、意図が隠されているのだろうか?
     崎谷の預かり知らぬ、大きな意図が。
     隠されているとするならば、それが現実となって眼前に迫り来る日は一体いつなのか。
     この静けさが、その嵐の前兆だとするならば。
     背を駆けた冷たい感触にゾクリと身を震わせた崎谷だったが。
    「………ん…」
     寝返りをうった怜の小さな声に、ふと現実に引き戻された。
     微かに口角のつりあがった口元は静かな笑みを浮かべている。再び規則正しい呼吸を繰り返す怜の額にそっと口吻けた崎谷は、綺麗に爪の切りそろえられた手を両手で包み込むように握りしめた。
     そうだ。迷うことはない。
     たとえこの先何があろうとも。
     俺たちはもう、出会ってしまった。
     こうして手を繋ぎあってしまったのだ。
     そしていま、同じ時を刻みながら歩きはじめている。
     大丈夫。
     生きていける。
     ふたり、手を繋いだまま、惑うことなく。
     どこまでも歩いていける。
     だから。
     だからどうかと、崎谷は願う。
     腕の中の幸せをしっかりと抱きしめながら。
     この平穏がいつまでも続けばいいと。
     ただそれだけを願っていた。







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