•  両手いっぱいの幸せを君に  
    10 








     約束通り手土産を携えてやってきた隣人を交えての夕食は、とても賑やかな食卓となった。軽くアルコールを引っ掛けながら散々笑って騒いだ後、「じゃ」と腰を上げた隣人を送り出し、グラスと残った酒を下げに来た怜は、夕食後、倉光が片づけていったキッチンの有様に、感嘆の声をあげた。
    「すごいね! さすが倉光くん。シンクまでピカピカに磨いてくれてるよ」
     背後からのぞいた崎谷も感心したように口を開く。
    「マメだね、そういうとこ」
    「だめだなぁ。俺、完璧負けてるよ」
     少しだけ悔しさの滲む表情で言う怜に、崎谷は苦笑した。
    「張り合わなくていいですよ。倉光くんの家事能力は素人の域越えてるんだから」
    「そうかもしれないけど……」
     と言いながらも、思うところがあるのか、「俺があのレベルに達するのはとてもとても…」と怜は口の中でブツブツと唸っている。
     祖母が他界した後、ひとりで暮らした時期があるとはいえ、崎谷は料理が得意ではなかった。ましてや怜は料理などしたことがあるはずもなく、かといって、常に外食をする金銭的余裕もなく、これは当面、レトルトかインスタント食品かと腹を括ったふたりに包丁の持ち方から教えてくれたのが倉光だった。
     最近では怜が崎谷の帰宅時間にあわせて何かしらの料理を用意してくれている。
     基本的には煮るだけ、焼くだけの簡単なものだ。
     たとえ、倉光のように手の込んだものは作れなくとも、食事はすべて調理されて出されたものを口にするだけだった研究所時代のことを思えば、目をみはる速さでその腕をあげていった。
    「怜さん、器用だしさ。飲み込みも早いから意外とすぐ倉光くんに近づけるかもよ?」
     実際、当の倉光でさえ、怜の腕の上がりぶりにしきりに唸っていたのだ。
     けれども。
    「…………」
    「怜さん?」
     慰めるつもりで口にした言葉に、何かを考え込むような表情で黙り込んでしまった怜の沈黙に小さな不安を覚えて、崎谷がその名をそっと呼んだ。答える代わりに顔を上げた、怜の真摯な眸。
    「飲み込みが早く見えるのは、俺が本当に何も知らないからだよ。ホント、おまえが言った通り、世界ってとんでもなく広いところだったんだなァ。おまえがあの場所にきてくれなかったら、俺、ずっとなんにも知らないままだった。あのひとりっきりの部屋の中で死ぬまで馬鹿みたいにぼんやりと過ごしているだけだった」
    「―――――」
    「桐嶋くんも柴山さんも、その前に来てた人たちも、みんな、俺にはすっごく優しかったけど。でも、なにも教えてくれなかった。俺は、俺のいたあの場所が世界のすべてだと思っていた」
     美しく、穏やかで、快適な。
     そして、ひどく孤独な楽園。
    「でもさ、俺、今でもわかんないんだけど」
     後に続く言葉が容易に察せられて、崎谷の胸がツキン、と痛む。
     怜からのその問い掛けには、決して応えることができない自分を知っているから。
    「何でなんだろう? 何で俺は、あそこにいなきゃいけなかったんだろう? 俺ひとりだけ、世界のあんな片隅に閉じ込められてなければいけなかったんだろう? 本当はこんなに広い世界があるのに。みんな、自由に好きなところに行けるのに……」
     本当のことなど、言えるはずがなかった。
     一人の人間として扱われていたのではなく、データを取るためのサンプルとしてあの場所に収容されていたのだと。生まれながらにして犯罪者としての烙印を押され、犯してもいない罪のために、一生をあの場所に束縛されることを余儀なくされていたのだと。
     言えるはずがなかった。
     唐突に三倉の言葉が崎谷の脳裏に蘇る。
    『アイツにとっての一番の幸せは、この世界に守られて穏やかに暮らすことなんだ。一歩外に出た瞬間、その幸せは崩れてなくなってしまう』
     三倉のその言葉がどうしても納得できなかったから、自分は怜と共に、今、ここにいるのだ。
     その想いに今でも揺るぎはない。
     閉じ込められていた籠の中から飛び出した後、繰り返し胸の中で唱えつづけた疑問に対する答えを求めて、まっすぐに崎谷を見つめる黒目がちな眸。その眸から目を逸らさずにしっかりと受けとめた崎谷は、怜の背を抱き寄せて、にっこりと微笑みかけた。
    『その先は地獄だぞ?』
     そんなはずはない。
     断じてない。
     そのことを証明するために、自分たちは今、ここにいるのだから。
     自分たちに相応しい、本当の楽園を手にするために。
     華奢な身体を腕の中に呼び込んで、崎谷は静かに囁いた。
    「でも、出られたじゃないですか。あの場所から出て、俺と一緒にここにいるじゃないですか」
    「……うん」
     躊躇いがちに答える腕の中のぬくもりが、愛おしい。
    「大丈夫。俺がいるから。いつまでもちゃんと傍にいるから」
    「うん。わかってる。おまえだけだよ、崎谷。俺に世界をくれたのは、おまえだけだ」
     抱きしめる腕にも、抱き返す腕にも、力が篭る。
     互いのすべてを包み込もうとするかのような力が。
     崎谷の腕の中で穏やかに伝わってくる鼓動と体温を感じながら、怜は胸に溢れる想いを甘い喘ぎのように唇にのせた。
     それは、幾億の言葉が溢れるこの世界で、怜が大切に拾った言葉のひとつでもあった。
    「大好き……」
     少し舌ったらずのその囁きに込められた、果てのない想い。
     籠の中から連れ出してくれたこの人に。
     世界をくれたこの人に。
     ありったけの想いを。
     崎谷を見上げる眸に宿る、確たる想いの強さ。
     揺るぎない信頼と、情愛。
     あふれてくる。
     伝わってくる。
    「……怜さん」
     たまらず、懐深くに抱きしめて。
     ふわふわと揺れる、少しクセのある髪に崎谷は唇を寄せた。
    「俺も……好き。怜さんが――――大好きです」
    「良かった……」
     吐息のような囁き。
     つむぎ出される言葉と同時に綻ぶように広がったその笑顔は。
     それは、崎谷が怜に初めて出逢ったときに一目で心を奪われた笑顔とまったく同じ、とても綺麗な、純然たる笑みだった。
     変わらない。
     怜は何も変わらない。
     あの中にいても、こうして外の世界に出ても。
     崎谷がそう、信じたように。
    「崎谷?」
     押し黙った崎谷の髪に、怜の指が絡められる。
     透き通るような眸に引き寄せられるかのように。
     この日ふたりは、初めての口吻けを交わしあった。
     幼い子供のような、ひどく不器用な口吻けを。
     唇が触れ合った瞬間、その感触の柔らかさに慄きを走らせ、震える唇を離した瞬間、ふたりの間に入り込んだ空間が切なくて。
     ぬくもりを求めてもう一度唇を触れ合わせる。
     そんな口吻けを。
     次第に高鳴る胸の鼓動の甘さと切なさ。
     それは、怜が生まれて初めて味わった、胸が疼くような甘い動悸と痛みだった。
     そして、崎谷がかつて味わってきたどんな想いにも勝る、深く激しい情愛だった。
     自分以外の誰かの存在に、こんなにも心揺さぶられる瞬間があるのだということを、このときふたりは互いの体温を感じながら噛みしめていた。







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