「ウッス」
「あ、おはよう、倉光くん。久しぶり」
ポンッと肩を叩かれた崎谷が振り返ったその先には、少し斜めに傾いだような独特の姿勢で、アパートの隣人が立っていた。共に歩き出しながら、崎谷が口を開く。
「一週間くらいみかけなかったけど、仕事?」
「まぁね。二三日で片付くと思ったんだけど、なんか立て込んじゃってさ。結局出先で泊り込み。まいったよ」
「それはお疲れ様」
「そっちはどうよ? 最近」
「ん。なんとか」
「怜さんは?」
「うん。いい感じに相変わらず。最近、倉光くんの気配がしないって、心配してたよ」
「気配って……おいおい、何だよ?ソレ」
「言葉通りなんじゃない? 倉光くんの部屋、妙に静かだったモン」
「これでもひっそりと暮らしてるつもりなんだけどなぁ」
「あははは。それ嘘だって」
たとえ、部屋の中から物音がしなくとも、出入りした時に階段を上り下りする音や玄関の鍵を開く音、ボイラーの作動する音等、その部屋に人が生活していることを知らせる音はいくつもある。そもそも、崎谷と同い年のこの隣人は、アパートの住人たちと顔を合わせれば、始終陽気に話をしている。そんな、ひっそりとは無縁の男が、物音一つさせないまま、一週間近く暮らしつけづけることは不可能だ。
しばらく顔を合わせることのなかった陽気な隣人のことを何かと案じていた怜を思い、崎谷は「よかったらさ」と誘いをかけた。
「今日の夜、来ない? たまにはウチで一緒に晩メシでもどう? ご馳走するよ」
「あ、なんかソレ久々。いいね」
二つ返事でのった倉光に崎谷は破顔する。
「じゃ、仕事終わったらってことで」
「オッケー。俺もなんか適当に持っていくから」
「ラッキー。楽しみにしてるよ」
声を弾ませる崎谷に、倉光は思い出したように「ひとつ、確認しておきたいんだけど…」と恐る恐る口にする。
「ご馳走になるの、久々なんだけどさ。おたくら、料理の腕、ちょっとは上達した?」
良くぞきいてくれました、という顔で、崎谷は得意げに笑った。
「倉光くん、びっくりするよ? 今日だって怜さん、何か作って待っててくれるって言ってたからさ。倉光くんの分もって電話しておくね」
「マジかよ。それは楽しみでもあり、恐ろしくもあり……ってとこか」
「ちょっと! ソレ、失礼だって」
「悪い悪い」
越してきたばかりの頃のふたりの台所事情を知る倉光は、「いや、ホント、楽しみにしてるって」とカラカラと笑った。何度も食卓を共にしているが、そのほとんどが倉光の部屋で彼が手料理を振舞っていた。どうせ一緒に食べるなら、美味しいものを……というのが、三人一致した見解だったのだ。
「じゃ、またあとでね」
「おう、じゃあな」
分かれ道に差し掛かり、ヒラヒラと手を振りながら肩を揺らして歩いていく独特の後ろ姿を見送った崎谷も、彼とは逆の方向へ足を踏み出した。
繋ぎあった互いの手のぬくもりのほかには何も持たずに研究所を飛び出し、ようやく静かなこの町に腰を落ち着けることを決めたばかりの頃。
生活環境の整わない崎谷と怜を何かと気にかけてくれたのが、借りたアパートの隣室に住んでいた倉光だった。部屋が偶然隣り合わせたことが出会いのきっかけだったが、知人が皆無のこの町で人一倍面倒見の良い倉光に、特に崎谷は、生活が安定するまでの間、実質的な面でも精神的な面でも助けられた。
そんな倉光と接する際に、たったひとつ、崎谷が懸念したのは、当然のことながら怜のことだった。
世間から隔絶された空間で与えられる情報は極端に制限され、限られた人間としか接することのなかった怜の研究所を出てからの学習能力には目覚しいものがあった。己の五感で体感したこと、或いは、様々な媒介を通して見聞したことのすべてから得た情報を取り込んで吸収し、乾いたスポンジが水を吸い上げるような勢いで、多くの知識を身に付けていった。とは言っても、20代も後半に差し掛かる青年が本来会得しているはずの知識量には程遠い。それは、ドーム型の球体で覆われたあの場所にいる限りは感じることのなかった不自然さでもあった。
「ヨロシク」と右手を差し出した倉光に、人見知りせず、人懐っこく打ち解けた怜。歳相応の知識が明らかに欠落している彼を倉光がどう思っているのかは、実際のところ崎谷にはわからない。けれども、余計な詮索をせずにあるがままの彼を受け入れてくれた倉光の存在は、研究所でのことを説明できる言葉を持たない崎谷にとってはありがたかった。
約一年を過ごした研究所での生活が、いまははるかに遠い。
あの研究所で赴任の挨拶を交わしたときは、まさか、こんな人生を歩むことになろうとは、思ってもいなかった。
―――――桐嶋さん、どうしてるかなァ……
なにかと崎谷を気にかけてくれ、なにより、怜のことをずっと見守りつづけた桐嶋は、飛び出してきたふたりのことを心底案じているに違いない。今になってこみ上げる彼に対する申し訳なさを、改めて噛みしめたその時。
背後で派手なクラクションを鳴らされ、迷惑そうに振り向いた崎谷に、職場の上司が咥え煙草でにやりと笑ってみせた。見知った顔を見つけて、崎谷の貌から険しさが消える。
「よぉ、崎谷」
「あ、陣内さん、おはようございます」
「事務所まですぐそこだけど、乗ってくか?」
「もちろん! よろしくお願いします」
言いながらドアに手をかけた崎谷が完全に助手席に乗り込むのを待って、陣内は些か乱暴にアクセルを踏んだ。
「相変わらず毎日毎日歩きかよ」
「ええ、まぁ」
「チャリくらい買ったらどうだ?」
「金ないっスよ」
屈託なく笑った崎谷に、目を細めて紫煙を吐き出しながら陣内は言った。
「若いヤツらはみんなそう言うんだよ。で、歳食ったヤツらも言うことは同じ……と」
「そんなモンっスかね」
「そんなモンだよ。――――けど、まぁ、俺も歳相応に満足してるつもりだったんだけど、近頃さ、若いっていいなって、おまえ見てるとふと思う瞬間ってあるんだよなぁ。悔しいけどさ」
「そうですか?」
取り立てて羨まれるようなものは何も持ってはいない。
自分の何処がそんなふうに見えているのかと、崎谷はきょとんと陣内を見やる。
だが、陣内はこう言うのだ。
「前途に光ありってね。いい顔してるよ、おまえ。毎日楽しくて仕方ないだろう」
それは、怜が楽しそうに職場の話を聞きたがるからだと、崎谷は思う。自分が見たこと、聞いたこと、感じたこと。それらを話してくれるように盛んにねだり、語り出した崎谷の話に目を輝かせて真剣に耳を傾けてくれる怜がいるからこそ、日々の生活が彩りを増すのだ。
独りきりでやり過ごす時の重さと息苦しさを知っている。
だからこそ。
誰かとともに過ごす時の充足感と安らぎを知り得るのだ。
傍らに在る大切な人を。
今のこの満ち足りた時間を。
崎谷はなんとしても守りたかった。
|