•  両手いっぱいの幸せを君に  
    08 







     それは、月の綺麗な夜だった。
     自室の窓から煌々と輝く満月を見上げていた崎谷だったが、じっとしていることがどうしても出来なくて、所員寮の自室を抜け出し、月に導かれるように怜のもとへと足を運んだ。多分、怜も見上げていると思うのだ。星が瞬く夜空を彩る、見事な月を。
     最も、怜の見上げる月は、ドーム型の天井に映し出されたホログラムの月だけれども。
     こんな夜中に怜のもとを訪れるのは崎谷にしてみても初めてで、門限破りをする子供のような昂揚感がわきあがってくる。
     青白い月の光の下。
     崎谷の予測した通り、いつのも木の下に腰を下ろした怜は、ぼんやりと空を見上げていた。月明かりに照らされたその横顔は、なぜか、いまにも消えてしまいそうなほど儚げに見え、いままで見たことのなかった怜の夜の貌を垣間見せられたような気がして瞬時に崎谷を不安にさせる。
     気づかれないようにそっと歩み寄ろうとした崎谷だったが、来訪者に敏感な怜に即座に気配を悟られてしまった。目が合った瞬間、照れたような、バツが悪そうな表情の崎谷に向かっていつもの笑顔を浮かべた怜は、しかし、今日に限っては駆け寄ってくることなく巨木にゆったりと身を預けたまま綺麗に微笑んだ。崎谷の惹かれた、あの、邪気のない笑顔で。
     その笑顔を見た瞬間、崎谷は怜のもとへ駆け出していた。
     いつもとは逆のシチュエーション。
     駆け寄った崎谷を怜は嬉しそうに見上げた。
    「すごいじゃん、おまえ。何で俺の気持ちがわかったんだ?」
    「……え?」
    「俺も懲りてないなって思うんだけどさ。こんなに綺麗な月はひとりじゃなくて、おまえと一緒に見たいなって思ってたところだったんだぜ?」
     空を見上げる怜の横に、崎谷も並んで腰を下ろす。
    「太陽の光は、あったかくてやわらかいのに、月明かりは、冷たくてかたいじゃん。おまえと一緒だったら、月の光もあったかく感じるのかなーって、思ってたんだ」
    「……………」
     言いようのない想いに胸をつかれた崎谷の肩に、怜はコツン、と頭を乗せた。
    「なぁ?」
    「ん?」
    「この空の向こうには、 何があるんだろう? この空はどこまで続いているんだろう?」
     胸を突かれる問いかけだった。
     怜は無意識のうちに感じ取っている。ここから見える、切り取られた空の向こうに、果てしない世界が広がっていることを。
     トクン、と、崎谷の心臓が大きく脈を刻んだ。
     ここに来た瞬間、気持ちは完全に固まった。
     蒼い月に照らされた怜の心細げな横顔を見た時、迷いも揺らぎもきれいに消えていた。
     とっさの思いつきではない。以前から考えていたことだ。
     あとは踏み出すだけでいい。
    「……怜さん」
    「なに?」
     冷たい汗が崎谷の背中を伝った。
     何を、口にしようとしているのだろうか?
     いや、自分のしようとしていることはわかっている。
     今、自分は禁を破ろうとしている。
     何もかもをぶち壊そうとしている。
     三倉や桐嶋たちが築いてきたものすべてを。
     だけど、どうしても納得できなかったのだ。
     どんなに考えたって、何故この人を、こんなところに閉じ込めておかないといけないのかがわからなかった。せっかくこの世に生まれてきたのに、どうしてこんな扱いを受けなければならないのだろう?
     檻の中に閉じ込められ、すべての自由を奪われたような、そんな扱いを。
     怜は何もしていないのに。
     誰もそれを疑問に思わないことの方が、崎谷には理解できなかった。
     研究所の仲間たちはみな、気の合う良い人たちばかりだったけれども。
     もう、怜をこんなところには置いておけない。
     そんな思いを抑えることはできなかった。

     ――――ごめんね。みんな。

     そして、心の中で決別の言葉を口にする。

     ――――そもそもの発端は、『先天性犯罪因子論』。
         この理論は不条理だし、人権的にだって明らかに問題があるよ。
         そんなものの証明は意味がない。
         だから………
         俺は行くよ。
         怜さんと一緒に。
         誰にだって普通に暮らす権利はあるんだ。
         それを奪うことは絶対に許されないはずだ。
         こんな理論、間違っている。馬鹿げている。
         俺と怜さんと一緒にそれを証明してみせる。
         そしたらもう、誰にもこんな想いさせなくてすむんだよね?
         怜さんだって、自由に暮らせるんだよね?

    「崎谷?」
     何かを言いかけたまま唇を引き結んだ崎谷のわき腹をつついて、怜が先を催促する。
     自分よりもずいぶんと細い肩を両手で掴んだ崎谷は、黒目がちな瞳を覗きこむようにして、一語一語をかみ締めるように言葉を紡いだ。
     偽りの月が、背中を押してくれる。
     外では本物の月が、待っていると。
    「もっとたくさんのものを、見に行こう」
    「たくさんのもの?」
    「そう。星とか、月とか朝焼けとか。花とか木とかそんなものだけじゃなくて、もっとたくさんのものを。空は果てしなく広がっている。その空の下には、怜くんが見たこともないような、びっくりするような世界があるんだ」
     ひどく抽象的な崎谷の言葉が怜にどこまで理解できているのかわからない。
     だが、いつになく真剣なその言葉を一言でも聞き逃すまいと、怜は真剣に耳を傾けていた。
    「俺は、そんな世界を怜さんに見せてあげたいんだ。だから、俺と一緒に行こう」
    「一緒に?」
    「そう。一緒に」
     決死の想いで告げる崎谷に、いいよ、と怜は答えたのだ。
     気負うことも、思い惑うこともなく、とても簡単にあっさりと。
    「いいよ。俺。崎谷と一緒だったらなんだっていい。こうやってまた一緒に月を見て傍にいられるなら、どこだっていいよ」
     何故……とは、怜は問わなかった。
     いつもと変わらない笑顔で迷いなく言いきった怜を崎谷はたまらずに抱きしめた。
     寄せられる全幅の信頼を痛いくらいに感じて、噴きあがる想いを抑えることなど出来なかった。
    「……怜さん――――」
     抱きしめる、と言うよりも、しがみつく、と言った方がよほどしっくりくるような、必死の面持ちの崎谷の背に、怜が優しく腕をまわした。
    「どうした?」
     あくまで優しい声音。
     ぬくもりが、切ない。
     いとしすぎて………
     月明りの下、しばらくそのまま互いの鼓動を感じていたふたりだったが、やがて崎谷がそっと身体を離した。朝がくる前に出来るだけ遠くまで行かなければならない。
     26年間、身を置いて来た空間を後にする際に怜が持ち出そうとしたものは、崎谷のあげたギターだけだった。そんな怜を崎谷はやわらかく制した。
     嬉しいけれど、邪魔になるだけだ。
    「また別なギターをあげるから」
    「でも……」
    「それはきっと、桐嶋くんが大事にしてくれるよ」
     その言葉に、ようやく怜が納得したようにギターから手を離した。
    「そうだね」
    「さあ、行こう」
    「うん」
     そしてふたりは、楽園を後にする。
     すべての悪意と害意から切り離された楽園を。
     すべての煩悩と欲望からかけ離れた楽園を。
     この場所は、外の雑音に煩わされることも、雑菌のはびこることもない、実社会にはありえない穢れのない空間だった。
     ここにいる限りは、何に煩わされることなく暮らしていくことのできる楽園。
     その楽園を、ふたりは後にする。
     月は、どこまでも蒼く輝き、何もかもを闇の中に照らし出す。
     何故警備に引っかかることなく、すんなりと研究所を出ることが出来たのかにまで考えが至らなかった崎谷は、当然の事ながら、その訳を知る由もなかったのだ。



    *  *  *  *  *



    「行ったな」
    「ああ」
    「ここまでは予測した通りってわけだな」
    「ああ」
     最も回避したかった最悪の事態。
     けれども、傍観することしか出来ない自分たち。
    「俺たちは、本当に見ていることしか出来ないのか?」
     詰るような口調の桐嶋から目を逸らすことなく、三倉は静かな眸で毅然と返す。
    「愚問だ、桐嶋」
    「………………」
     ひとことで返されて黙りこんだ桐嶋の顔に浮かぶのは苦渋の色。
     かつて、感情のままに突っ走った時の自分たちは、先に待ちうけている結末を知らなかった。
     だが、今は知っている。
     知っているからこそ、今ここで、彼らを止めるべきなのではないのか?という思いが拭えない。
     今ならまだ、間に合うかもしれないのだ。
     釈然としない想いをかかえるのは崎谷ひとりですむ。
     あの楽園の中で、怜はいつまでも笑っていられるのだ。
     本当は、データもサンプルも、もう十分だと、桐嶋は叫びたかった。
     もう二度と誰も傷つかないように。
     誰も悲しむことのないように。
     ただそのためだけに行動したかった。
     けれども、それは許されないと、三倉は言うのだ。
    「俺たちは傍観者に徹することしか出来ないんだ」
     研究者とはそういうものなのだと、暗に述べている。
     だが、決められた結末へと歩むように仕組まれた事象でも、そう、言いきることができるのだろうか?
     ここで止めれば、何もかもを回避することが出来るのに。
     何故手をこまねいて見ているだけなのだろう?
     矛盾があるのではないか?
     どこかに大きな矛盾が。
     窓の外の闇を彩るのは蒼い月。
     寒々しい光の色は、まるで、二人の未来を暗示しているようだと思い、そして、不吉な予感を振り払うように、頭を振った。
     何も決め付けてしまうことはない。
     最後まで、希望は捨てたくなかった。
     慈しんだ者たちの幸せを願わない者など、どこにもいないはずだ。
     窓ガラスに映った険しい己の貌を、桐嶋はただじっと見つめ続けていた。





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