•  両手いっぱいの幸せを君に  
    05 






    「ねぇ、桐嶋さん」
    「ん?」
    「怜さんにギターを教えてあげてもいいかな」
    「ギター?」
    「うん。歌とかは歌わないでメロディーを弾くだけ。だったら問題ないですよね? 余計な情報を与えてはいけないっていう規約にはひっかからないですよね?」
     真剣に訴える崎谷を見て桐嶋は少し考える素振りを見せたが、結局、その申し出を了承することにした。
     手持ち無沙汰になるとお気に入りの巨木の根元に座って何時間でも空を見上げている怜の姿を目にするたびに、胸が痛んでいたのは桐嶋も同じだった。
     本や雑誌はもちろん、ネットやテレビやラジオ等の一切の娯楽の排除。
     ましてや怜はこの空間から出られない。
     草花の種や苗を渡したり、簡単な工作などは教えはしたけれども、それ以外、自分にはどうしてやることも出来なかったし、どうしてやればいいのかもわからなかった。
     自分には思いつきもしなかった崎谷の提案。
     少しでも怜の生活を彩ることが出来るなら、と、容認したのだった。
     早速、花をもらったお礼に……といって崎谷はアコースティックギターを手渡し、見たこともない形をした物体を興味深げに見つめる怜に、それがなんであるのか簡単に説明しようとした。
     けれども、生まれてこの方、ギターを見たことも触ったこともない怜には到底理解できない。
    「……ぎたー? おんがく??」
     言葉で説明するよりも実際に弾いて見せた方が手っ取り早いと、耳慣れない単語に不可解な表情を浮かべた怜の手からギターを借り受けた崎谷は、簡単なメロディーを鳴らしてみせた。
     崎谷の器用な指先がピンと張られた弦に触れると、これまで聞いたこともない音が耳を打つ。
     優しく響く音色に怜は即座に魅了された。
    「すごいッ! なにコレ。 本当にすげごいよ!」
     他に言葉を失ってしまったかのように感嘆の言葉を繰り返す怜にせがまれるまま、崎谷は次々と曲を奏でていった。
     テンポのいい軽快なメロディ。スローなバラード。古典的なクラッシック。即興で爪弾くオリジナル曲。耳を傾け、引き込まれるようにうっとりと聞き入る怜に微笑んだ崎谷は、手を止めてギターを怜に差し出した。
    「怜さんも弾いてみますか?」
    「え? いいの?」
    「もちろんですよ。そのために持ってきたんだから」
     目を輝かせながらも壊れ物を扱うかのように恐る恐るギターに手を伸ばした怜だったが、指先が弦に触れ、弾いた瞬間に響いた音に最初は驚いたような顔をしていたが、すぐに花がほころぶように破顔した。
     太さによって音色の違う弦を一本ずつ確かめるように何度も何度も丁寧に弾き、指に伝わる振動にいちいち驚いてその感動を崎谷に訴える。
     手放しで喜ぶ怜を見て、崎谷にも嬉しさがこみ上げた。
     生まれて初めて触った楽器に怜はすぐにのめりこんだ。
     簡単なコードを教わり、一日中ギターを手放すことなく夢中になって爪弾き、うまくいかない部分は納得するまで崎谷に教えを請い、見る間に腕を上げていった。
     数曲、なんとかつっかえずに弾けるようになるまで練習し、二人は示し合わせて桐嶋の訪れを待った。
    「なんだよなんだよ。おまえら、不気味な顔して笑いやがってさ」
     良からぬ気配に半歩下がった桐嶋の腕を引いて座るように促した怜がもったいぶってギターを取り出した。
    「お披露目。ちゃんと聴いててよ。桐嶋くん」
     そう言って、一転して真剣な顔でギターを抱えた怜は、唇をキュッと引き結んで、慎重に曲を奏で始めた。
     透明でとても綺麗な音が、弾かれる弦から奏でられる。
     生まれ持った音感が優れているのか、或いは、この特殊な環境に培われた感性なのか。
     崎谷の腕には当然ながら及ばないまでも、あの短期間でここまで弾けるようになっているとは、正直言って桐嶋は驚いた。
    「すごいな。いつの間にこんなに腕を磨いたんだ?」
     一曲を弾き終え、初めて受けた大きな拍手と、賛辞の言葉に、怜は上機嫌で「まだあるんだから」と言ってギターを抱えなおした。
     最初の二曲は怜がひとりで演じ、三曲目は必死にコードを追う怜にリズムを合わせて崎谷が音をかぶせていく。
     ギターを鳴らしながら、いとおしむような瞳で怜を見つめる崎谷の姿を目の当たりにした桐嶋の胸中は複雑だった。
     二人は日に日に親密さを増している。
     そのことが、桐嶋を不安にさせる。
     杞憂に終わればいい。
     何もかもが。
     この平和な一時が永遠に続けばいい。
     そう、願ってしまう自分を叱責するように、桐嶋は首を振った。
     すでに最悪の結果を想定していることに気づいたからだ。
     何もないにこしたことはないのだ。
     崎谷が不憫がって愁いている怜の置かれた状況。
     だが、それが彼にとっては至上の幸せであることを桐嶋は知っている。
     生まれ持った遺伝子を改竄することは現段階では不可能だ。
     たとえ、S級の因子を保有していても、この場所にいる限りは、怜は思い通りに生きていける。
     誰に何を規制されることも、枠にはめられることもないまま、この箱の中での自由を謳歌できるのだ。
     社会に出ればそうはいかない。自らの意に添わないことは少なくないし、理不尽に耐えなければならない場面にも数多く出くわすだろう。
     けれども、因子保有者にはそれが出来ない。
     我を抑えることができない。
     そして、結局はその我を通すために『暴走』してしまうのだ。
     外に出てしまえば、S級の因子は、いずれ間違いなく、怜に何らかの影響を及ぼすに違いない。それが、数ヶ月先の話でも、何年先の話でも。
     何かが起こり、法的に処罰されれば、ここで暮らすような自由は利かないし、あくまでもサンプルとして研究機関に預かり置くとしたら、それは双方にとって苦痛にしかならないだろう。外界を知った上でここに閉じ込められなければならないことが、怜の最大の不幸だと、桐嶋は知っている。
     だから怜は、こおままでいなければならない。
     ここにいる限り、怜の幸せは守られている。
     だが、崎谷の心理的な推移もまた、痛いほどに良く理解できたのだ。
     自分も同じ心理を辿ってきたからだ。
     そして過ちを犯した。
     今の崎谷は、まるでかつての自分を見ているようで、辛い。
     桐嶋の胸に苦い思いがこみ上げる。
     −−−−ゆかり……
     外を恋しがって泣きつづけた一人の少女の姿が脳裏に浮かぶ。
    『出して。お願いだから、外に行かせて』
     細い肩を震わせて、切実に訴え続けた少女の姿が。
     まだ16歳の子供だった。
    『もう、気が狂いそうになるくらい、ここにいるよ?』
     桐嶋の立場的としては、ちょうど崎谷と同じような状況にあったと思う。
     赴任して間もなく一年が過ぎようという頃の出来事だった。
     1年先輩の三倉とともに引き合わされた、病的なまでに青白い頬をした少女。
     あらかじめ、彼女がS級の因子保有者であることは聞いていたが、実際に彼女と対面して、彼らは我が目を疑った。
    『何でこの子が……』
     二人が抱いた想いは、同じだった。
     泣いてばかりいる彼女は日に日に痩せ細り、次第に居たたまれないような容姿になっていった。そんな彼女を見るにつけ、三倉と桐嶋は、胸がつぶれるような思いを味わいつづけたのだ。
    『一度だけでいいから、外に出して。……お願い。あたし、もう、長くない。ねぇ、死んじゃうまえに外に出たいの』
     とても16の少女とは思えないほどの疲れた声。
     死期を悟ったかのような彼女の最期の願いを叶えようと、外へ連れ出したのは、三倉と桐嶋の若さであり、そして甘さだった。
     情に流され、彼女を外に出してしまったばっかりに、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまうことになる。研究者としての己の立場を忘れた彼らへの手痛い制裁であるかのように。
     そんな経緯があったからこそ、最初に怜と対面した時の衝撃を桐嶋は忘れられない。
     快活に笑い、のびのびと呼吸をする怜を目にして、なんという幸せな因子保有者だろうと、思ったのだ。
     まるで、楽園の中を自由に飛びまわる蝶のようだ……と。
     そして桐嶋は思い知らされたのだ。
     ひとつの世界しか知らなければ、自分の置かれた状況と他を比較出来ようはずもなく、そうであればこそ、無邪気に笑っていられるのだ、と。
     不満も、疑念も抱くことなく、ただ満たされて。
     だから桐嶋は必死だった。怜の生活を守るために。決して彼を傷つけないために。ゆかりの二の舞を踏ませないために。
     彼の生活を守ることが、自分の使命であると思っていた。
     けれども、いま、自分たちがやろうとしていることは、怜を追い込むことなのではないのだろうか?
     このままでいいのだろうか?
     本当に………?
     自問に対して浮かぶ解答は否定的な言葉ばかりで、組織に対する疑念が増すばかりだ。
     胸に淀む重いしこりを吐き出すかのように、桐嶋は深い溜息を落とした。







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