「もっと右によせられる?」
「こうっスか?」
「う〜ん。もうちょっと」
怜の細かい指示通りに崎谷は手にした吊り棚を動かしては具合を伺う。
「これでいい?」
「ちょっと行きすぎ」
「これは?」
「う〜ん」
「怜さん!!」
中途半端にずっと上げっぱなしだった腕が痛くて、もう勘弁してくれ、と訴える崎谷を怜は笑って解放してやることにする。
「オッケー。上出来だよ」
「ふぅ……」
プランターを置く吊り棚をつけてくれと頼まれ、腕をまくって作業に勤しんだ崎谷は、ようやく得た了解の言葉に額の汗を拭った。思わず安堵の吐息の零れた崎谷に怜は労うように言葉をかける。
「ありがとう。ホント助かったよ。俺の高さだとそこまで手が届かないんだもんなー」
小柄な怜の身長は165センチそこそこといったところだろうか?
どういたしまして、と、返した崎谷は、嬉しそうな怜と視線を合わせて満足そうに笑った。
崎谷に対して怜には最初から警戒心というものがまったくなかった。人見知りをしない性質なのかと思ったが、その心の奥底ではもっと複雑な心理が働いているような気がしないでもない。
崎谷がこの秘められた空間に足を踏み入れるたびに、怜は無邪気に駆けて来る。
いや、崎谷に限らず、誰かが来るたびに、怜は弾かれるように駆け寄ってくる。その訪れを心待ちにしていたと、まるで全身で訴えているかのように。
それを目にするたびに、崎谷は切なくなるのだ。
1日と空けることなく崎谷たち所員の出入りはあるとはいえ、この建物の中でひとりぼっちで過ごす彼のことを思うと胸が痛む。
実際に出会い、そしてつきあう人間を怜は選べない。こうしてここを訪れる限られた所員だけが、怜の知る人間のすべてなのだ。
だから……だろうか?
崎谷に限らず、彼は訪れる人間を無条件で受け入れ、誰に対しても同じような態度で接している。下手に世間ずれしていないせいか、怜のものの見方は驚くほど公平だった。
怜の世界はこの狭い囲いの中に終始しているから、話題もごく限られる。
最初に桐嶋らに釘を刺され、前任の柴山から手渡された詳細なマニュアルを纏めたデータを頭に叩き込んだ崎谷は、口にのせる話題には気を使い、細心の注意を払った。それでも、どちらかというと聞き役に徹している桐嶋とは違い、いろいろな話をしたと、崎谷は思う。
怜と話をしていると心が和む。仕事ということを忘れてしまいそうなほど、崎谷にとってはここで過ごす時間が楽しくて仕方のないものだった。けれども、その時間は規定によって限られているし、他の業務も兼務しているから一日中入り浸っているわけにはいかない。そして、彼が去った後、怜は独り、ここに取り残されてしまうのだ。
誰もいない空間に、たった独りで。
自我が芽生えたときにはすでにこの状況下におかれており、他の生き方を知らない怜は、それが当たり前だと思っているからこそ、現状への疑問も不満も漏らすことは一切なかった。
桐嶋らもまた、そのことを当然のこととみなしている。
だが、逆にれそれが崎谷を惑わせる。
怜は感じることがないのだろうか?
孤独感や寂寥感を。
それらは崎谷が最も苦手とする感情だった。
その中に身を置けば置くほど、慣れるどころか、息苦しくて押しつぶされそうになる。
何故、外出許可を申請しないのか、と以前桐嶋に問われたことを思い出す。
それは、孤独を畏れ、そして厭う崎谷には必要のないものだったからだ。
身の回りの品はすべて、購買やネットで買い揃えることが出来る。不自由はなかった。
逆に、街へ降りたところで、そこには崎谷の、そして崎谷を必要とするものは何もないのだ。
自分には帰る家がない。母親は存命しているが、彼女のもとへは二度と帰ることができない。唯一、自分を気にかけてくれた祖母も、既に他界している。友人は少なく、そして、自分の訪れを待つ恋人も友人もいない。
だが、ここには仲間がいる。同じ環境で、同じような時間を過ごす仲間が。
だから、崎谷には外出許可など必要なかった。
この研究所、『ブランカ』にいる限り、独りきりの孤独に耐える必要はない。
独りで取り残されることの淋しさと怖さは、もう二度と味わいたくはなかった。
記憶にあるのは、暗闇の中で膝を抱え、ひたすらに声を殺してうずくまっていた日々。
誰かがいても独りで、そして誰もいなくて独りだった。
あの当時の自分は、笑い方すらわからなくなっていた。
自分が何故ここに存在しているのかを見失い、向けられる敵意と内に生じた憎しみで神経が焼き切れそうになっていた。
『明るくて、自分の感情に素直で元気』
自分に対するそんな対外的な評価は、実は必死で装って作り上げてきたものだということを崎谷は知っている。
ようやく手に入れた平穏な日常を、決して失いたくはないという思いと、もう二度と独りにはなりたくないと、怯えにも似た恐慌が生み出した虚偽の自我。
偽りの仮面も被りつづければそれが真実になり、いつの間にか本来の自分を忘れ、それが表に出ることもなくなっていた。
怜はいつも幸せそうに笑っている。それなのに、そんな怜に相対するたびに、崎谷は過去の古傷を改めて想起させられるのだ。
自分の屈託のなさが作り物であるからこそ、怜がここでいかに伸びやかに育ってきたのかよく分かる。
誰に対しても、そして何に対しても怜は公平だ。裏表がなく、わけ隔てもない。まっすぐに物事を見つめ、感じたままを真摯に受け止める。
時折、怜の歪みのない視線が崎谷の胸を刺す。
何もかもを見透かされてしまいそうで、そして、封じたはずの過去の自分を呼び覚まされそうで、居たたまれなくなる。それと同時に、怜の純粋なあたたかさにすがってしまいたくなる。
そのあたたかさが、崎谷の抱えつづけてきた癒えない傷を癒してくるかもしれない。そんな都合のいい錯覚にとらわれてしまう。
嘘や偽り、裏切りとは無縁の世界で怜は生きている。
自分とは対極の世界で。
そう。
あの時、人を殺めることなくここまで来れたのは奇跡に近い。
芽生えた殺意は心の底からの叫びだった。
であれば……と崎谷は思うのだ。
であれば、閉じ込められるべきは自分の方なのではないのだろうか、と。
偽りで塗り固めた殻を破ることのできない自分。
かつて、暝い衝動を抱え、爆発させかけた自分。
過去に思いを巡らせて、暗い深みにはまりかけていた崎谷を、怜の声が現実に呼び戻した。
「これさ、育てるのがものすごく難しい花なんだけど、もうすぐ花が咲きそうなんだ。なんかワクワクするよね」
他愛のない話をしながら色とりどりに咲く花をゆっくりと眺めて散策していた二人だが、丁寧に作られた柵で囲った小さな花壇の前で足を止めた怜は、いまにもほころびそうな蕾をつけた数本の花を嬉しそうに指し示した。
この空間に咲き乱れる花々のすべては、一日の時間の大半を独りで過ごす怜が丹精をこめて育てたものだ。
規定によって本や雑誌の類は与えられないし、音楽も聴けない。パソコンやテレビ等の情報を拾えることができそうな電子機器もない。
独りでできる遊びは限られている。眠りつづけることも不可能だ。
この空間にいる限り、やれることはタカが知れているのだ。だから怜は、一日の時間の大半を使ってたくさんの花を咲かせていた。お気に入りの巨木の幹によりかかって花やスクリーンの空を流れる雲を見つめてた。そうやって自然と戯れて、穏やかに笑っていた。
語りかけても答える者のいない空間で。
そんな怜を目の当たりにするたびに、崎谷は口にしてしまいそうになる。
独りで寂しくないのか、と。
ここにいて、かつて自分が苦しんだ深淵に呑まれるような孤独感に苛まれることはないのか、と。
けれども、快活に笑う怜には翳りがなく、激しい感情の起伏を窺わせることもない。
どうしてそんなふうに笑っていられるのだろう?
とても眩しくて、正視できそうにもない笑顔で。
どうして歪んでしまうことがないのだろう?
捕らえられた籠の中で。
どうして…………
数歩、離れたところで怜の背中を痛ましげに見つめていた崎谷を、怜は無邪気な顔で振り返った。
「この花、綺麗に咲いたら櫂李に半分切ってあげるよ」
「半分もくれるんですか?」
見たところ全部で10本あるかないかといったところだ。
「櫂李だから特別。お礼だよ、お礼」
「俺、お礼されるようなことなんてなんにもしてないですよ」
「いいの。俺があげたいんだから」
なんでもないことのように言って笑う怜が、この花をどんなに大切に育てているのか崎谷は知っている。難しい栽培条件を満たすような土を造り、周囲に囲いをし、丹精をこめて丁寧に育て上げた花。
それを手折って崎谷にくれるという怜の無条件の好意。
与えられた任務のためにここに通っているはずの崎谷に対する優しさと思いやり。
何ができるだろう?
この人のために。
小さな籠の中しか知らないこの人のために。
こみ上げるのは、嬉しさではなく切なさ。
そして、己自身の無力さ。
なにかあるはずだ。
怜のために、せめてなにか、してあげるられることが。
必ず。
胸を掻き毟られるような想いに、崎谷は奥歯を噛みしめるのだった。
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