•  両手いっぱいの幸せを君に  
    06 






     そんなある日。
     週に一度の簡単なメディカルチェックを行い、並んで地面に腰を下ろして他愛のない話で笑いあっていた二人だったけれども。
     ふと押し黙った怜が、何かを言いよどむように唇を噛んだ。
    「怜さん?」
     どうかした? と問う崎谷に、怜は躊躇いがちに口を開く。
    「おまえさ、もっと早い時間にここに来れないの?」
     めったに我を主張することのない怜からの要望に、何かあったのかと、崎谷が不安げにその訳を尋ねる。
    「たいしたことじゃないんだけど……」
     口篭もった怜だが、「何?」という崎谷の柔らかな口調に押されて遠慮がちに胸の内を口にする。
    「朝起きた時に、櫂李がいてくれたらいいなぁ、って思ったんだよね。起きた瞬間に櫂李におはよう、って言えたらいいなぁって。なんでかはわからないけど、そう思ったんだ」
     崎谷たち所員がここを訪れるのは、決まって日が昇ってからだ。しかも、決まった時間に訪れて、決まった時間に去っていく。そのサイクルが崩れたことはない。それを誰よりも知っている怜は、無理なんだよなーという小さなつぶやきを口の中に飲み込んで、溜息をついた。そして、自分以上に哀しそうな表情の崎谷に気づいて、いたずらが見つかった子供のように首をすくめて笑った。
    「ごめん。忘れて。今言ったこと」
    「……怜さん」
    「いいんだ。別に」
     ことさら明るく言い捨て、華奢な身体をめいっぱい伸ばして大きな深呼吸を繰り返し、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
    「なんだか不思議。櫂李といると、ホント楽しいんだよね。今までいろんな人がここに出入りして、いろんな話をしたけど、俺にギターを教えてくれたのも、俺が朝起きた瞬間に一緒にいたいって思ったのも、おまえだけなんだよ? これって、どういうことなんだろうね? 櫂李」
    「…………」
     不意をつかれた崎谷は何も答えることが出来ない。変わりに、ひどく曖昧な笑いを唇の端にのせた。
     自分の方こそ怜に癒されている。
     自分はまだ人を慈しむことが出来ると、怜は教えてくれた。
     こんなにも優しくて穏やかな気持ちになれると…………
     ささやかな願いが叶わず、内心の落胆を埋め合わせるかのように、怜が小さな子猫のようなしぐさで崎谷の肩に擦り寄った。
     そうすることで、崎谷の存在を確かめようとするかのように。
     そのぬくもりにすがるように。
     愛情の何たるかを知らずに育ってきた怜の本能的な行為に、崎谷は胸をつかれた。
     甘えることを知らない怜の、とても幼くてぎこちないそのしぐさに。
     朝起きてもひとり。
     夜眠るときもひとり。
     怜にとってはそれが当たり前で、でもそれが寂しいということを無意識ながら感じている。
     ――――怜さん………
     愛しさと、そして切なさが募る。
     こみ上げる思いのままに華奢な肩を引き寄せ、そして、ありったけの想いを込めて両腕で抱きしめた。
    「……崎谷?」
    「――――」
     ずいぶんと長い間黙ったまま怜の肩に顔を埋めた崎谷の腕の中におとなしく身を預けていた怜が、ポツリと小さく呟いた。
    「なんだろう?」
    「ん?」
    「こうしていると、安心する。あったかくて、気持ち良くって……」
     それは、抱きしめることも、抱きしめられることもなかった怜がはじめて触れる人肌のぬくもりだった。誰かの鼓動をこんなにも間近で感じることはこれまでに一度もなかった。
     その暖かさに触れることが、これほどまで心地よくて、心安らぐものだったとは…………
     いままで味わったことのない想いが怜の中にこみ上げてきた。
     胸が締め付けられるような苦しさにも似た想いが。
    「あれ?」
     静かに。
     とても静かに怜の瞳から涙が溢れて頬を伝った。
    「……何? 何これ?」
     止まらない涙に呆然とする。
     自分ではどうにもコントロールできない熱い涙に驚き、離れようとした怜の身体を、崎谷もまた、泣きたい想いでより強く掻き抱いた。
     その涙の意味が、崎谷にはわかる。
     かつて、同じような涙を流したことのある崎谷にはよくわかる。
     祖母だと名乗った初老の女性は、闇雲に暴れる崎谷に臆することなく歩みより、そしてそんな彼のすさんだ気持ちごと、その腕の中に抱きしめたのだ。
     悪意のない、包み込むような優しさに触れたのは、あの瞬間が初めてだったと思う。
     親にですら殴られこそすれ抱かれた記憶はなく、生きるために必死だった崎谷にとって、周囲の人間はみなすべて敵だった。
     信じられるものは何もなく、カラカラに渇いた心は完全に麻痺しかけ、寒さに震えることすら忘れていた。
     破綻をきたしかけていた精神は、ギリギリのところで救われたのだと思う。
     大切なものが欠けていることも知らず、独りぼっちで生きていけると思っていた。
     強張った心では、本当は寂しくて仕方がなかったことにすら、気づくことが出来なかった。
     だが、生まれてはじめて誰かの体温のあたたかさに触れた瞬間、自分がいかに孤独だったかを思い知らされたのだ。自分が何に餓えていたかに漠然と気づき、どうしようもないやるせなさが際限なくこみ上げてきた。
     その時崎谷は初めて涙したのだ。
     空っぽで何もない可哀想な自分に気づき、祖母の身体にしがみついて泣きつづけた。
     その瞬間から、崎谷の世界にようやく色彩が戻ってきたのだ。
     全身に染み入るような優しさに触れたその瞬間に。
     それと気づいていてもいなくても―――――
     多分、怜も同じだと、崎谷は思った。
     他人とこうして触れ合って初めて、いかに自分が独りだったのかを知ったのだ。
     ツキン……とした痛みが崎谷の胸に走る。
     己のシャツの胸元を掻き抱き、肩を震わせる怜を、崎谷はいつまでも抱きしめていた。







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