目的地に近づくにつれ緊張感が増していく崎谷の背中を桐嶋は軽く叩いた。
「そんなに固くなるなって。右手と右足、同時に出てるぞ!」
「マジっスか?」
まったく自覚のない崎谷に、桐嶋は微苦笑を浮かべた。
「おまえ、データには一通り目を通したんだろう? 別に危害を加えられるわけじゃないし、命に関わるような危険な任務でもないんだから、普通にしてよろ、普通に」
「桐嶋さんはその人のこと、知ってるからそう言えるんですよ! 俺、夕べなんか超緊張して大変だったんスから」
「おまえ、どんな化け物想像してるんだ? それは何でもアイツに対して失礼だぞ」
呆れる桐嶋に崎谷は憮然として言った。
「だったら映像くらい、見せてくれたっていいじゃないですか。打ち出し不可とかマル秘とか書かれた文字と数字とグラフばっかりの資料なんかじゃ、全然イメージわかないですよ」
「そう簡単に引き出せるモンじゃないの。それに、俺は、ありのままのアイツを見て欲しかったんだよ」
本音を言えば、桐嶋の迷いはこの期に及んでも消えない。
二人をこのまま会わせてしまって、本当に良いのか、と。
今回の任務の最終的な目的を考えれば、絶対に会わせたくはないに決まっている。
だが、これは、最初から決められていたことなのだ。
崎谷がこの研究所に配属されたその日から。
端的に言えば、崎谷はそのために配属されたのだから。
所詮、自分は従うしかない身だ。
己の意向などどこにも反映されはしない。
しかも、抗う気力はとうに尽きていた。
一度全力で抗い、そして牙を抜かれたあの日から。
桐嶋の胸の内に秘められた憂いには気づかないまま、崎谷がようやくたどり着いた目的地に目をやって、感心したように呟いた。
「ここって、実はこんな建物があったんですね」
表面上は樹木の間に分け入っていくようにしか見えない入り口をくぐって崎谷が見上げているのは、天井が半球体のドームとなっている、四方を取り囲む高い壁だった。その場所は精巧なホログラムで樹木を装われ、外観からはそこに建物が建てられていることなどわからないように完全にカモフラージュされていたのだ。
「なんだかずいぶん仰々しいんですね」
日ごろ彼らが出入りしている研究棟や居住施設のある場所からここまでは結構な距離があるうえに、携帯するIDカードを翳して本人確認のチェックを受けるポイントを2箇所通過しなければならない。
すべてのチェックをパスしてここまでたどり着いたところで、建物の存在を知らなければ、立ち入り禁止の柵の向こうには緑豊かな樹木が茂っているようにしか見えない。
初めてこの場所を訪れる崎谷が思わずこぼした言葉は間違ってはいない。そんな崎谷に、何をいまさら、と、桐嶋は諭すように言葉を紡ぐ。
「言ったろう? 国家機密だって。いくら人里離れてるとは言え、みんながひょいひょい出入り出来たら問題だろうが」
「それはそうですけど……でも、ここまで通う方も大変じゃないですか?」
馬鹿正直に述べた崎谷に桐嶋が胡乱そうな目を向ける。
「危機感あるのかないのか、全然読めないヤツだよなぁ。おまえは」
「そんなことないですよ!」
「厳守事項、頭に叩き込んできたか?」
「当たり前じゃないですか!」
からかうように笑う桐嶋に、ムキになった崎谷が噛みついた。
おざなりな仕事をしてるつもりはない。
この特殊な任務に就くにあたって、事前に細かい制約と注意事項をいくつも言い渡されている。中でも、前任の柴山、そして桐嶋、三倉らから何度も念押しされ、徹底して気を配るように注意されている事項があった。
『外界の情報や知恵を一切与えないこと』
『?』
最初にそれを言われた時は意味を掴みあぐねて不思議そうな顔をした崎谷に、つまり、と桐嶋が噛み砕いて説明を施した。
『つまり、生まれた直後からずっとこの場所しか知らない彼にとって、この研究所の彼の住まう空間だけが唯一存在する世界のすべてだってことだよ。彼は俺たち以外の人間を知らないし、ましてや、外により広い世界が存在することも知らない。だから、『外』を匂わせるものの一切を排除しなければいけないんだ』
そんな桐嶋の言葉を三倉が端的にまとめてみせる。
『要するに、アダムとイブに知恵のみを食べさせた蛇になるなってことだよ』
限定された空間の中で、限定された人間だけと接し、そして、一切の外界の情報を与えられることなく育てられた、ある意味、純粋培養の人間。
けれども…………
無菌室の中の犯罪者。
−−−−どんな人だろう?
初めてまみえる人物を思い、崎谷が微かに身震いした。
「ほら、行くぞ」
「はい」
慣れた手つきの桐嶋が厳重にかけられた電子ロックを解除した扉の向こう側には、まるで巨大な温室のような空間が広がっていた。
色とりどりに咲き乱れる花と緑豊かな木々。
どんな仕組みになっているのか、内側からは上空の空がくっきりと見えた。
壁の部分はさすがに如何ともしがたいが、ドームの向こうに広がる空だけはマジックミラーのように、内側からでも明確に見えるように設定されているらしい。
「すごい!めちゃめちゃ凝った造りになってるですね」
感嘆の声を漏らして周囲を見回した崎谷の肩の力が抜ける。
単純なヤツ……と小さく笑った桐嶋はそんな崎谷にはかまわず、巨木の根元に身体を預けて何かを見つめていた小柄な人物の名を、声をあげて呼んだ。
「怜」
「桐嶋さん!」
その声に即座に応じた怜、と呼ばれた人物は、スラリとした身体をバネのように起して手を振る桐嶋に向かって一直線に駆けて来る。
「ねぇ、聞いてよ! 今日さァ 」
勢いよく訴えながら桐嶋のすぐ目の前で止まった怜だったが、彼の隣に立つ見慣れない背の高い侵入者のところで視線が止まる。
「誰? 新しい人?」
「ああ。この間話しただろう? 柴山さんの代わりだよ。今度からここに来ることになったんだ」
「ふ〜ん」
180センチはある自分よりも頭一つ低いところから物怖じしない、好奇心も顕な大きな瞳でまっすぐに見据えられ、崎谷は予想とはあまりにもかけ離れたその姿に大きな衝撃と戸惑いを隠せなかった。
線が細くて華奢だけれども、元気良く撓る健康的な四肢。
濁りのない澄んだ黒目がちな眸は生き生きとした、人懐っこい表情を浮かべている。
これで24歳。
予め年齢は聞いていたが、どう見たって自分よりも年上とは思えない。
−−−−この人がS級の因子を持っているのか? 本当に?
必ず犯罪を犯す要素を持っている者。それが『S級』の因子を有する者の定義である。
抱いていた先入観が、大きな衝撃と共に打ち砕かれ、崎谷の内面が混乱を来す。
そんな内面を知る由もない怜の視線は、崎谷のもとから動かない。
居心地悪げに身動ぎしながらも、視線を外せないでいる崎谷に、怜は唐突に口を開いた。
「俺、怜。小田切怜」
「……あ、俺は崎谷。崎谷櫂李です」
「そう。よろしく、櫂李」
そう言って微笑んだ彼のあまりにも邪気のない無垢な笑みに、崎谷は心を奪われた。
どんな色にも染まっていない、純然たる笑み。
崎谷の抱いていた先入観も警戒心も、なにもかもを吹き飛ばすような、心からの笑顔。
こんなにも綺麗に笑う人に今まで出会ったことがなかった。
そう。
思えばこの日から、すべての歯車が廻り始めたのだ。
たとえ、それが必然だったとしても。
誰かの思惑によるものだったとしても。
いずれにしても、すべてはこの日から。
ふたりが出会ったこの日から動き出していた。
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