•  両手いっぱいの幸せを君に  
    02 






     そして、それから半年ほどの歳月が過ぎた。崎谷が一連の仕事の流れも大方把握し、桐嶋のサポートがなくても自分の判断で手際よくスムーズに仕事をこなすことが出来るようになった頃………
    「おまえ、『先天性犯罪因子論』って知っているよな?」
     問い掛けは質問ではなく確認。
     桐嶋と共に三倉の研究室に呼ばれた崎谷は、前置きもなく言われた言葉に戸惑いながらも頷いた。
    「……はい」
     遺伝子をメインで扱う研究所に配属になった崎谷の大学での専攻は、「遺伝生態機能学」。当然ながら遺伝子の分野に関しての知識は大学で一通り修めていた。
     かつて、過去に例を見ないほど、凶悪な犯罪が多発した年が何年か続いた時があった。
     それを期に行われた法の改正や刑罰の見直しと同時に、学者たちの間では犯罪心理の分析や、人間の善悪の概念に関する研究が数多く行われてきた。
    『何故人間は罪を犯すのか』
     一概に『犯罪』と言ってもそれは多岐にわたり、あまりにも簡潔なこの問いに対する絶対的な解答は、おそらく、永遠に得ることはできないだろう。それでも、法学・哲学・心理学・医学・生物学等々のさまざまな分野の研究者たちが、その謎を紐解こうと、これまでに蓄積された膨大なデータをもとに各々の研究を進めてきたのである。
     そういった一連の流れの中で、一般にはまだ深く浸透していないけれども、ここ十数年の間に学会では大きな注目を浴びている理論が打ち出された。それが、三倉曰くの『先天性犯罪因子論』である。
     この理論の提唱者であるジャクソンは、犯罪を犯す要因となる因子が先天的に『遺伝情報』として遺伝子の中に組み込まれている人間は、後に必ず、常識では考えられないような事件を引き起こす、と、定義付けたのである。人間を犯罪行動へと駆りたてる要因を遺伝子の配列とリンクさせて理論付けた研究であった。
     彼の研究チームでは、世間を震撼させるような事件を引き起こしながらも、その犯罪を犯すに至る動機や環境的要因等がまったく見当たらず、また、精神鑑定でもとくに異常が見うけられなかった者たちの遺伝子の配列パターンを徹底的に分析し、あらゆるデータを解析した。
     その結果、彼らだけが保有し、これまでに一度も逮捕暦のない者は保有しない特殊な配列をした因子の存在をつきとめたのである。細胞分裂の際に配列パターンが僅かに変異し、特殊な螺旋を描くその因子は、便宜上以後『S級』の因子と呼ばれることになる。
     前述の犯罪者たちの実に7割以上の者からその因子は検出された。
     同時に、ジャクソンは無作為に選出した生後一年以内の子供たちのメディカルチェックを行った。数十万人にものぼる気の遠くなるような数のデータの中で、『S級』の因子を保有すると確定できたのは僅か3名。(この数字からも、先の7割以上という数字がいかに高い確立のものであるかが理解できるであろう)本人および家族にはそのことを知らせず、秘密裏に彼らの成長過程を定期的に観察していった結果、驚くべき事実が明らかになった。
     年齢の差こそあれ、後に、3人が3人とも発作的、あるいは突発的とも言えるような凶行に及んだのである。
     こうして、自らの説に確信を得たジャクソンは、その論を学会へと提唱したのである。
     必ず犯罪を犯す要素を持っている者。
     それが『S級』の因子を有する者の定義である。
     彼のその理論は、学会にセンセーショナルな波紋を投げかけた。
     犯罪と遺伝子を結びつける学説は、これまでにもいくつか例はあった。だが、従来、身体の物質的な部分(内臓や筋肉、骨、血液等々)を形作ると考えられていた遺伝子が、犯罪行動という物質を凌駕した領域にまで影響を及ぼしていることを膨大なデータを基に理論付けたことが、大きな話題を読んだ。
    「だったら、その理論はあまりにもサンプルデータが少ないため、学会の方針としてはまだ仮説の域に留められていることも知ってるな」
    「はい」
     崎谷が今携わっている研究とは関わりのない突然の話題の提示に、三倉の意図するところが汲めなくい。
    「ここからは国家機密に関する話になるから、そのつもりで聞いてくれ。情報が外部に漏れた場合は規則に則った処罰が下るから、機密保持の原則は遵守してくれな」
     聞きなれない言葉を耳にした途端、これはただ事ではないと居住まいを正した崎谷を見て、三倉が苦笑した。
    「そう堅苦しくする必要はないよ」
     はぁ、と言って息を吐いた崎谷だったが、続けられた言葉に驚愕して目を剥いた。
    「実は、ウチの研究所では、生まれながらにしてS級の犯罪因子を持った人物を預かっているんだ」
     S級の因子保有者。
     すなわち、生まれついての犯罪者の烙印を押された社会不適合者。
     実際に接したことのないその人物がいったいどういう人となりの者なのか、崎谷には想像もつかない。だが、かつて因子保有者たちが引き起こした事件の数々を思えば、薄ら寒いものが背中を走る。
     緊張のみなぎった崎谷の心中を察した三倉は、いつものようにやわらかく微笑んだ。
    「そんなに構えなくても、『ブランカ』の中にいる限りは大丈夫だ。危険なことも警戒することもなにもないよ」
    「…………」
     そんなことを言われても、と、崎谷は思う。
     初めて聞かされる話ばかりで、頭の中は飽和寸前、パニックの半歩手前だ。
     かまわずに三倉は続ける。
    「ここでは……というより、国から選抜された数名の所員たちはその理論の証明に関するプロジェクトの一端を担っている。ま、言い方は悪いけど、わかりやすく説明するなら、俺たちは『彼』を国から『サンプル』として預かっている形になる」
    「サンプル、ですか?」
    「そうだ。この理論はその論旨の正しさが100%証明されない限り、扱いは非常に難しい。まだ犯罪を犯していない者を、まるで実際に重大な犯罪を犯した者であるかのようにみなしてしまうわけだからな。人権的にも問題が多いし、もちろん、実際に罪を犯さない限り、現行の法的な処罰は適応されない。だけど、割合的にはごく僅かとはいえ、実際にS級の因子を持つ者たちが引き起こした事件のことを考えると、彼らを普通の日常の中に埋没させて野放しにしておくのもかなりのリスクを伴うことは間違いないんだ」
    「………………」
    「だからいま、政府もなんとか理に叶った対策を必死で模索している状態だ。やっていることは人間の生態観察に近いものがあるから結果を出すまでには時間もかかる。現状は、監視をつけて社会に住まわせたり、世間と隔離して経過を見たり、数少ないサンプルをいくつかのパターンに分けてのデータ採りの段階だ。その結果如何で彼らの扱いもどうなるか決まってくるんだろうけど、そこまでは多分、俺たちの関与する範疇じゃない」
    「………………」
     なんと返答していいのかもはやわからず、置物のように押し黙ってしまった崎谷に、ようやく三倉は、ここに彼を呼んだ主旨を口にした。
    「で、本題だ。正式な通達はもう少し後になるけど、崎谷にもこのプロジェクトに関わってもらうことになる」
    「俺が……ですか?」
     困惑の色も露な崎谷に、三倉ははっきりと頷いた。
    「そうや。彼の生態の観察と細かいデータ採り。他の研究機関で記録された因子保有者のデータとの比較。そういったことはいままでは柴山さんと桐嶋の仕事だったけど、柴山さんには今度新たな極秘プロジェクトを率いてもらうことになったんだ。兼任するのは物理的に難しい。だから、柴山さんの分担していた部分をおまえにひきついでもらいたい」
    「…………」
     難しい顔をして黙り込んでしまった崎谷に、三倉は少し困ったように笑った。
    「さっきも言った通り、特に構える必要はなにもないんだ。遊び相手みたいなものだと思えば、気楽なモンだろう?」
     と、三倉は言うけれども。
     そんなにお気楽なものだろうか?
     仮にもS級の因子保有者と?
     思考停止している崎谷の内面を汲んだのか、これまで黙っていた桐嶋がはじめて口を開いた。
    「俺たちと何も変わらないよ。特別に強暴なわけでも、奇行に及ぶわけでもない。意志疎通だって十分に出来るし、俺たちと同じように呼吸をして、同じように笑える、普通の人間だよ」
    「はぁ………」
     だったら、こんなところに隔離する必要があるのだろうか? とふと思った崎谷だが、いま聞かされたばかりの話を実感として認識できなくて、間の抜けた返事をしてしまう。
     そんな様子に三倉と桐嶋の二人は、顔を見合わせて苦笑すると、三倉が言葉を継いだ。
    「詳しい打ち合わせや資料の提示は、後でまた、順を追って説明する。まだそんなふうに構える必要は全然ないんだぞ? まぁ、予め読んでおきたい文献も出てくるだろうから、早めに言っておこうと思ってな。いつ引き継がれても差し障りのないように、一応、その心積もりだけはしておいてくれ」
     桐嶋も続ける。
    「難しく考えなくていいよ。俺との共同作業になるだろうし、今までの仕事と一緒で慣れれば簡単なことだから」
    「……はい」
     首を縦に振る以外の選択肢がない崎谷は、了解の意を伝える返事を述べる。
     だが、疑問は募る。先ほどから感じていた違和感は、彼らの冷静さと何気なさだ。
     腑に落ちないことだらけだ。
     仮にも……だ。
     世間から隔離する必要があるような人間相手に、そんなにお気楽でいいのだろうか?
     口にすることこそなかったが、そんな疑問が崎谷の胸に浮かび、そして消えた。
     いずれわかることだ。
     話はそこで打ちきりになり、軽い雑談に転じた後、「失礼しました」と崎谷は礼儀正しく研究室を後にした。これは、もういちど『先天性犯罪因子論』について勉強をしなおす必要があると、ぐったりとした身体を引きずるように退室する崎谷をにっこりと笑って送り出した二人だったが、扉が完全に閉じられた瞬間、一転して険しい表情で目線を交し合った。
     感情の読めない三倉にかける言葉を捜しあぐねて唇を噛んだ桐嶋だが、沈黙を嫌って口を開く。
    「いいんだな?」
    「聞くなよ」
     どうしようもないことだろう、と、どこか咎めるような容赦のない三倉の声に、桐嶋は小さな吐息をひとつ、落とす。
    「仕方ないってことか」
    「そう。いまさらだ」
    「上からの命令だもんな」
     皮肉に笑った桐嶋に答えるかわりに煙草を取り出した三倉だったが、この部屋……というよりこの研究棟すべてが禁煙だったことを今更のように思い出し、再びポケットに落としこんで窓の外に視線を向けた。
    『痛みを知る』彼だからこそ、平静でなどいられるわけがない。
     そのことを『わかっている』桐嶋は、そんな彼の仕草を目にして眉を顰めた。
     すべては最初から仕組まれていたことだ。
    「きっかけを与えるのが上からの指示だとしても、最後に決めるのは崎谷だ」
     事実だけを端的に言い表した言葉の重みを知るのは、かつて、同じ痛みを共有した彼ら二人だけだ。
     定められた運命に抗おうとして結局は手ひどいしっぺ返しをくらった痛みを。
    「俺たちにできることは、彼が道を間違えないように、ただ祈ることだけだ。そうだろう?」
    「ああ、その通りだ」
     無力感に打ちのめされた桐嶋の呟きはどこまでも重い。
     過去は消せない。
     どれほど悲痛な思いで念じたとしても。
     たった一度の過ちでは許されない過去が確かにある。
     二度と取り返しのつかない過去が。
     それは、二人がまだ、別の研究機関にいたころの話だ。
     彼らが最初に接し、そして結果的には殺してしまったS級の因子保有者。
     客観的に物を見る目を無くし、暴走した自分たちが払った代償は、とてつもなく大きなものだった。
     今回の件に関しては作為のないデータを必要とする、という上からの要請で、過去の事例を崎谷に話すことは許可されなかった。
     もしも今回も同じような事態を引き起こしてしまったとしたら…………?
     険しい顔をした桐嶋に、わずかに眉をよせて悲しげな顔をした三倉は、ため息とともに言葉を吐き出した。
    「やりきれないのはおまえだけじゃないんだぞ?俺だって研究者であり、国の職員である前に、一人の人間でありたいと、本当は思ってるんだ。でもな、その自分の思いが正しいと信じて突っ走って、結局はひとりよがりの思いこみに過ぎない場合もあるってことは………俺たちは誰よりもわかっているだろう?」
    「ああ」
     窓に映る三倉の視線に捕らわれて、桐嶋は自嘲気味に応じる。
     研究者として必要且つ不可欠なのは客観性。
     そして、経過を見守る傍観者に徹すること。
     決して主観で手を加えてはならない。
     そんなことはわかっている。
     それでも、割り切ることなどできないのは自分。
     だから、この場所から出ていくことができない。
     自分にできることは、せいぜいこの部屋から出て行くことだと、肩をすくめた桐嶋はいささか乱暴に部屋を後にした。その扉をじっと見つめていた三倉は、遠ざかる足音に向けて静かに呟いた。
    「出来ることなら……だけどな。俺は彼らに希望を託したい。所詮、儚い夢かもしれないけどな。それでも、俺は彼らを信じたい」
     誰にも聞き取られることのない小さな呟きは、微かに震えて、そして消えた。





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