「今日からこちらに配属になります、崎谷櫂李です。よろしくお願いします」
真新しい白衣に身を包んだ崎谷が元気よく頭を下げる。そんな初々しい仕草に、まだ学生らしさの残る彼を迎え入れた所員の面々からは、思わず穏やかな笑みがこぼれた。
「よろしく」
「よろしくお願いします」
「よろしくな」
あちこちからあがる声は、どれも好意的なものばかりだ。
この研究所に新しいメンバーを迎え入れるのは、実に三年ぶりだった。
時折訪れる新しい風は、ともするとマンネリに淀みがちな空気を活性化させ、わきたたせる。
所員たちにとっても、大学を出たばかりの崎谷の配属は、歓迎すべき出来事だった。
NDR―03。通称「ブランカ」
それが、この春から崎谷が配属された研究所の名称だった。
国家機関直轄の研究所であるNDRは、現在国内15ヶ所に分散しており、それぞれが専門とする研究活動に従事している。ここ、NDR−03では、主に、遺伝子に関する研究がすすめられていた。
「ブランカ」は、街の喧騒から遠く離れた静かな郊外 そこから更に車で30分ほど走ったところにある広大な敷地の中に建てられていた。
一般社会からは完全に隔絶された緑に囲まれた大地。そこに、最先端の科学技術を駆使した機材が備え付けられた3棟の研究棟、そして食堂と所員寮からなる5つの施設が併設されている。
ここまで人里離れた場所にこの建物が建てられたのは、その任務の特殊性に起因する機密保持を意図したものであるところが大きいのだが、それを知る者は内部でも限られている。通いでは勤まらないほど辺鄙な場所に位置するため、所員達はみな、「ブランカ」の中で生活することを当たり前のように受け入れていた。
場所は辺鄙でも、必要なものはネットでオーダーすれば簡単に届けられる時代だ。
物理的な面で特に不自由を感じることはなにもなかった。
これまでとは一新する生活環境。
軽い緊張に包まれて姿勢良く立つ崎谷に歩み寄ったのは、彼が所属することになる研究チームのリーダーである三倉だった。硬さの抜けない崎谷にやわらかな口調で微笑みかける。
「うちのチームは細かい仕事が多いから、一度に全部は覚えきれないと思うけど、焦らないでやっていこうな。よろしく」
「はいっ!よろしくお願いします」
引き込まれるように、崎谷も爽やかな笑顔で返答する。
新しい環境での、新しい生活の始まりだった。
* * * * *
「10時間後に加える試薬はコンマ2ミリ。そこで反応が出なかったら更に10時間後に同量。反応が出た場合は今度は5時間後にコンマ1ミリ」
スポイトに吸い込んだ液体を慎重に容器に落としながら、桐嶋は崎谷にこの実験の主旨と手順を伝えていた。
「経過を見るのは交代だから、このシフトに入ったら一番最初にパソコンの記録データと容器の中のサンプルの状態を確認すること。一応交代する際にそれまでの経過の説明はあるし、記録データもあるから大丈夫だと思うけど、うっかり確認し忘れたら一からやり直しだからな。メンバーからは恨まれるぞ。やることは単純なんだけど、いちいち時間かかってるだけにめんどくさいことになるからさ」
真剣に頷きながらメモをとる崎谷に、桐嶋は軽口を交えながら丁寧に説明する。
崎谷の一生懸命さは、見ていて実に気持ちのよいものだった。言われたことを素直に受け止め、わからない箇所をうやむやにせずに理解しようと努めるので、仕事の飲み込みが速い。崎谷の直接の指導員である桐嶋は、そんな彼を何かと気に掛け、世話をやいていた。
一通り書き込み終わった崎谷に桐嶋が休憩の意を込めてコーヒーを注いだカップを手渡してやる。
「ありがとうございます」
「この職場にもずいぶん慣れたみたいだな」
「そうですか? もう、毎日必死ですよ。頭こんがらがりそうで」
真剣に訴える崎谷の難しい顔を見ていると、思わず笑いがこぼれてしまう。
崎谷の表情は何事に対しても懸命で、実に屈託がない。笑った顔はもちろんだが、その他のどんな表情でもこれほど他人に好意的に受け止められることのできる人間は、そうはいないだろうと、桐嶋は思う。
「確かに、大学とはずいぶん勝手が違うからな」
「そうですよ」
そう言って、崎谷は組んだ手を頭上高く上げ、思いきり上体を伸ばした。そのまま軽く身体を左右に揺らすと、骨の鳴る音が小さく聞こえてくる。
「身体なまってるなぁ、おまえ」
「そりゃあ、神経使ってますから。俺がミスしたらこれまでみんなが積み重ねてきたものが全部パーになるって思ったら、メッチャこわいっスよ」
そう言って肩をすくめた崎谷に、桐嶋は柔らかな口調で言った。
「まったく気にしないのは問題だけど、あんまり神経質になるなよ? ここにいる連中は、誰だって一回はなにかしらやらかしてると思うぜ?」
「桐嶋さんもですか?」
「もちろん」
上目遣いで視線をよこした崎谷にニヤリ、とふてぶてしく笑ってみせた桐嶋にも、チームで苦労を重ね、貴重な突然変異種のマウスからようやく摘出することに成功した遺伝子を分析前に駄目にしてしまった前科がある。
「あの瞬間の気まずさだけは、二度と体験したくないな」
「俺はそんな恐ろしい体験になんて、絶対したくないですよ」
激しく首を振る崎谷は、本気で嫌そうに眉を顰めた。
崎谷がここに勤務してから間もなく三ヶ月が経とうとしている。
覚えることの多さにいまだ悪戦苦闘の毎日ではあるものの、最初はただ指示された目先の仕事をこなすことに必死だった崎谷から、少しずつゆとりのようなものが感じられるようになってきた。
仕事以外のプライベートにも目を向けることができるようになり、同僚の職員と誘いあって軽くスポーツをしたり、持参してきたギターを手にして爪弾く姿も見受けられるようになった。
その様子からは環境が変わったことへのストレスや、閉塞的な空間での生活に対する苛立ちといったものは感じられない。新しい環境にすっかり打ち解けた生活を送っている崎谷に、桐嶋は思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、前にも言ったけど、おまえ、ここに来てから一度も外出許可もらってないんじゃないか?」
一定の時間に間隔を置いて経過を見る必要のある培養物やサンプル、結果が出るまでぶっ通しで行わなければならない実験等があるため、勤務時間は定時を定められておらず、その代わり、各人の受け持つ実験のサイクルに基づいて一ヶ月単位でのシフトが決まっている。空いた時間はオフとなり、外出許可を申請した者は家族や友人の待つ街に降り、そうでない者は所内で自分の時間を自由に過ごしていた。
「そんな余裕、なかったですからね。まぁ、ここで充分楽しいし、特に不自由はないし。待ってる人とかもいないし」
「恋人も?」
「はい」
「へぇ。おまえ、フリーなんだ」
「なんスか? その言い方」
「いや、意外だな、と思って」
「何言ってるんですか! 俺のことばっかり言うけど、桐嶋さんだって全然帰ってないじゃないですか」
「それこそ余計なお世話だよ」
自分に向いた矛先はするりと交わす。
「ずるいっスよ。自分ばっかりそう言って棚に上げて」
恨めしそうに言う崎谷を丸め込むように桐嶋は笑った。
「まぁ、俺だって別に家庭を持ってるわけじゃないし、親には忘れられない程度に顔を見せてればいいからな。ここにいるといちいち時間かけて街まで行くのも、なんかめんどくさくてさ」
実際、待っている家族のいる者はともかく、独り身で少なくとも片道3時間以上はかかる街へ貴重な休日を使ってわざわざ出向くには相当根性が要る。それをめんどくさがって、特別な用事がない限り街へ降りることを嫌う所員は少なくない。
「そうなんっスよね」と同意した崎谷は、もう一度身体を伸ばしながら、不思議そうに呟いた。
「何でこんな辺鄙なところに研究所なんて、作ったんでしょうね」
そんな崎谷に桐嶋は呆れたように言った。
「おまえ、ここに入ってくるときにサインした誓約書、読まずに名前書いただろう」
「そんなことないですよ!」
「いや、読んでないね」
「なんでそう言いきれるんですか」
「国家機密に関する研究を外に漏らした場合は、厳罰と処すって規則、知ってる?」
「知ってますよ! それくらい」
不満をあらわにする崎谷を、桐嶋は疑わしげに見やる。
「ホントか? どんな厳罰か説明できる?」
「………………」
言葉に詰まった崎谷に、ほら見ろ、と言いたげな視線を桐嶋が向けた。
「この場所には機密がいっぱいつまってるんだよ。出入りが簡単だったら大問題だろうが」
「でも、そんな仰々しい実験なんて、やってないじゃないですか!」
「馬鹿だねー。配属してきて間もないおまえに、いきなりそんな研究、預けるわけないだろうが」
もっともなことをあたりまえのように言われてしゅん、となってしまった崎谷が何だか気の毒になり、桐嶋は慰めるようにその肩を叩いた。
「落ち込むなよ。おまえにはこれから、まだまだ覚えていかないといけないことがたくさんあるんだからさ。仕事の量も内容も、この先どんどん変わっていくぞ。おまえの言う仰々しい実験も、おまえに任せられると上が判断したらイヤってほどやらされるさ」
真剣に耳を傾ける崎谷に、桐嶋は黒目がちな瞳でやさしく笑いかける。
「だから、今のうちにできることは着実に自分のモノにしとけ。いつ、何を言われても対応できるようにな」
「はい!」
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