「だから、絶対ムリですってば!」
「馬鹿か、おまえ。この業界の営業マンだったら、ムリです、できませんは通用しないの」
バシッ、と書類で机を叩かれて、紺野はぐっと奥歯を噛んだ。
正論を唱えているのは相手の方で、理に適っていないのは自分の方だ。
だが、ここで怯むわけにはいかない。
「それはわかってますけど……」
「だったらなんでできないんだ?先方からはお前に現場見てもらいたいって、ご指名なんだぞ? ーぺーのお前に」
「それはありがたいと思いますけど!」
「けど何?」
自分よりもはるかに身長の高い同じ課の先輩社員である大沢にギロリと睨まれ、無言の圧力で続きを強要された紺野は、しかし、負けじと背筋を伸ばして見つめ返した。
どれだけ生意気なことを言っているのかはわかっている。
社会人として無責任なことかも。
だが、いまさらの日程の変更は不可能で、ならば、今回だけは大沢の方に納得してもらうしかない。
いや、納得してもらえなかったとしても、引くつもりはなかった。
奢った言い方かもしれないが、仕事のマイナスは挽回することが出来る。
けれども、今、自分が必死で手に入れようとしているものは、そういうわけにはいかないのだ。
今でなければ、手遅れになってしまうかもしれない。
今でなければ、歩み寄ることができないかもしれない。
もしも手に入れることが出来なければ、自分がここに在る意味が、なくなってしまう。
だから、今回だけは絶対に折れることはできない。
先輩たちには及ばないけれども、自分なりの精一杯の仕事を――――その権利を主張できるだけのことをしてきたつもりだ。
ぐっと拳を握った紺野は、眸を逸らすことなく真摯な思いを拙い言葉で口にする。
「本当に申し訳ないとは思います! も、今回だけはホント、マジ勘弁してください。俺の人生かかってるんです!埋め合わせは死ぬ気でやりますから……」
深々と頭を下げた紺野を見下ろして、大沢が小さなため息をついた。
「顔上げろ」
「はい……」
「夏季休暇、フルに使ってどこに行く気なんだ?」
「ちょっと南の方に」
真剣な表情にはそぐわない間の抜けた返答に、大沢が眉を寄せる。
「誰と?」
「えっと……それは………」
即答できず、うろたえるように視線を泳がせる紺野の頭を手のひらではたいた大沢は、何を察したのか、にやりと笑って親指を立てた。
「貸し、10個分に相当するからな」
「え?」
すぐに意味が汲み取れず、ぽかん、とした顔で見返した紺野に、大沢は「ばーか」と、笑った。
「その現場、俺が代わりにいってやるよ。埋め合わせは10倍返しってことでヨロシク。休み明けたら馬車馬以上に働かせるからな」
「大沢さん……」
口は悪いけれども、細やかな気配りのできる彼のやさしさに、今まで何度助けられたかわからない。この男ほどマメな性格をしていたら、辻村ともこんなふうにこじれることがなかったのだろうか?と、ふいに思う。
だが、それは意味のないことだ。
自分は自分でしかありえない。
だからこそ、こうやって自分なりのスタンスでなんとかしようと、足掻いているのだ。
「おまえ、この休暇をちゃんと取るために必死だったんだろ?」
その言葉に、大沢が日々の自分の姿を見ていてくれた、という嬉しさがじわりとこみあげる。
要求だけを押し通す子共のような真似は、絶対にするまいと思った。
だから、必死で働いた。
現場をうまくおさめるために。
与えられたノルマの数字に少しでも近づくために。
すべては、ギクシャクしてしまった辻村との関係をなんとかするために。
成果を伴った上でなければ、どんな権利も主張できないと思ったからこそ、がむしゃらに頑張った。
原則的にはGW、夏季休暇、年末年始休暇が設けられている会社だけれども、顧客の要望如何によってはその期間に発生する仕事にも対応しなければならないことを、紺野は身をもって知っていた。
考えに考えた結果思い至った今回の計画を実行に移すにあたっての最大の懸念は、予定通りの休みの確保だった。その時点ではお盆期間中に稼動する担当現場はなかったけれども、どう転ぶかはわからない。だが、あまりにもギリギリまで様子を伺っていては、宿泊先や飛行機の手配が難しくなってしまう。
他の場所に変更することは想定外だった。
そう。その場所でなければ意味がないのだ。
日が迫っていたこともあって、帰省や旅行で日本中の人々が移動するその時期の飛行機と宿の確保には若干苦労したものの、ほぼ、思ったとおりの手配ができたことに紺野は胸をなでおろした。
ところが。
懸念していたお盆期間中の急な仕事の依頼が舞い込んできたのだ。
上司の指示を仰ぎながら、紺野がはじめて一人で最後まで管理した現場の所長からの依頼だった。
自分の仕事を評価してくれたことは素直に嬉しい。
だが、今の自分の最優先事項が何かを考えれば、今回ばかりはその依頼に応えることはできなかった。
意を決して大沢にその旨を伝えにいったのが先刻。
そして、今に至る。
「材料とか業者の手配は前日までにおまえがやれよ?段取りが全部整ってるのが前提だからな。俺は当日行くだけだぞ」
「はい!」
「おまえの人生、うまくいくといいな」
ニヒルに笑って紺野の肩を叩いた大沢は、ポケットに片手を突っ込んだ、どこか気障な仕草でフロアを横切って行った。
「ありがとうございます!」
その背中に向けて折り目正しく頭を下げながら、紺野は拳を握った。
カッとなって口論をし、辻村に背を向けて歩み去ったあの日から、胸の中にどうすることもできない重いしこりのようなものがわだかまっている。
後悔と、自責と、苛立ちと。
会いたさと、寂しさと、恋しさと。
そういった諸々の感情がない交ぜになった重い塊。
吐き出すことも、飲み下すことも出来ないその塊を抱えたまま、自分自身と向き合い、何度も何度も考えた。
どうしたいのか。
何を望んでいるのか。
それこそ、いままでにないくらいに。
そして、何度問い直しても、結局は自分の胸の中にある確たる想いを突きつけられるのだ。
原点に立ち返ったかのような、たったひとつの想い。
辻村が好きだという、ただ、その想いだけが、紺野の中にある、純然たる想いだった。
すれ違い、空回って傷つけあい、いまのこの状況にぶち当たってようやく、辻村の存在が自分にとっていかに大きいものかを気付かされた。
彼なくしての未来なんて、考えられないほどに。
あたりまえのように傍にいたことが、どれだけすごいことだったのかを、いまさらながらに実感する。
――――ホント、馬鹿だな、俺。
あまりにも簡単なことに気付くことができなかった。
それでも、いま、と言う瞬間に気付くことができたのだ。
まだ手遅れにはなっていない。
ならば、紺野のやるべきことはひとつしかない。
大切な存在を失ってしまわないために。
一からやり直すつもりで辻村と向き合おうと。
そう、思った。
旅行代理店に一人で赴くのは初めてで、案内されたカウンターで妙な緊張を味わいながらも、はじめてもらった夏のボーナスをつぎ込み、宿の手配と飛行機のチケット、レンタカーの手配を行った。
ルートはガイドブックを眺めながら脳内でいろいろとシュミレーションを繰り返した。
あとはカーナビに頼りながらの行き当たりばったりでなんとでもなるはずだ。
自分の方の準備は万全。
問題は――――――辻村が首を縦に振るかどうかだ。
喧嘩別れしたあの日から、一度も連絡をとりあってはいなかった。
辻村の携帯の番号を何度も呼び出しながらも、とうとう発信ボタンを押すことができなかった。
自分なりに、きっちりとしたケジメをつけなければ会いにいけないという思いがあったせいだろうか?
いや、怖かったのかもしれない。
電話をしても、無視されることが。
冷たくそっけなく切り返されることが。
自分だけに想いが残っていることを突きつけられることが怖かった。
そして、連絡を取ろうと決めていた8月11日。
朝から紺野はただならない緊張の中にいた。
今日、自分の運命が決まる。
そう思うといてもたってもいられなくなり、結局、この緊張を夜まで引きずっていては仕事にならないという結論に達し、日中、外に出た時に、意を決して携帯電話を握り締めた。
辻村の通う学校は夏休みに入っている。
バイト中でもなければ電話に出ることができるだろうと、いまだかつてないほどの緊張を味わいながら、紺野は辻村の携帯の短縮ナンバーを押した。
ドキドキしながらコール音に耳を立てる。
その音が途切れ、繋がったと思った瞬間、マックスに跳ね上がった緊張で眩暈がしそうになった。
けれども―――――
機械的な留守番電話の応答メッセージに切り替わった瞬間、肩透かしを食らったような気分で息を吐いた。
「留守電かよ」
力が抜ける。
『…………ピーっという発信音のあとにメッセージをお話しください』
だが、この言葉が流れた瞬間、別の緊張が込み上げた。
このまま黙って通話を切ったところで着信の履歴は残る。
以前はそんなこと、気にもしなかったけれども、1ヶ月ぶりに電話をかけたこの状況下において何も残さずに切ることはさすがにできないと思った。
「…………ぁ、俺だけど――――――」
だが、その後が続かない。
「あぁ、やっぱ用件はメールで入れておくから。じゃ…」
上手い言葉を引き出すことができずに、結局、すべてをメールに託すことにした。
メールの作成画面を呼び出し、アドレス帳から辻村のメールアドレスを拾い出す。
そして紺野は、己を笑った。
「情けねぇ。指が震えてやがる」
たった数行の短いメールを打つのにずいぶんと時間がかかった。
二度、読み返し、三度目に読み返したときに、改行を繰り返して最後の一行を付け加えた。
そして、祈るような思いを込めて送信ボタンを押す。
送信成功の文字に息を吐きながら、祈るような思いで眺めていた携帯電話。
辻村は、いつこのメールをみてくれるのだろう?
どんな返事を返してくれるのだろう?
そもそも、返事をくれるのだろうか?
「やべ、マジ、緊張する」
どう転んでも、今日一日はこの緊張感に苛まれるのか、と思った瞬間、メールの受信音が鳴る。
リターンはすぐに来た。
「どっちだ?」
緊張で激しく鼓動が脈打っている。
メールボックスを開くまでの時間が、恐ろしく長く感じられた。
恐る恐る眺めた液晶画面。
そこに記されていたのは、たった二文字。
『了解』
簡潔な文だけれども、ひどく辻村らしい気がした。
「やったぁ!」
思わず叫び、ガッツポーズをする。
繋がっている。
糸はまだ、切れてはいない。
大丈夫。
俺たちはやり直せる。
そんな希望に溢れた思いが紺野を満たす。
この約束に、すべてを賭けよう。
俺たちのこれからのすべてを。
刻むように胸のうちで繰り返す紺野の貌には、最近では見ることのなかった晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
翌日。
「土産買って来い」だの「彼女の写真見せろ」だの、折に触れて絡んできていた大沢の扱いに困りながらも、夏季休暇前の最後の仕事を終えた紺野は、まっすぐに帰宅して簡単な荷造りを済ませると、咥えた煙草に火をつけた。
明日。
辻村に会える。
期待と不安の入り混じった想いに、大きく息を吐く。
羽田まで車で1時間と少し。約束の時間の2時間近く前に家を出れば、相当なゆとりを持って空港につくことができるだろう。
今までは何かと待たせることの多かった辻村を、今度は自分が待っていようと、紺野は思う。
先に待つ自分を見つけ、戸惑ったような表情を見せながら近づいてくる辻村に、笑って声をかけるのだ。
「久しぶり」と。
その先は想像できる。
少しはにかんだような、戸惑ったような表情を見せながら、辻村も同じ言葉を返すだろう。
「久しぶり」と。
その瞬間が待ち遠しくてたまらない。
「早く会いてぇ……」
かつてないほどに夜を長く感じながら、浅い眠りのまま朝を迎えた。
良く晴れた、夏の朝だった。
その日、紺野は晴れやかな気持ちでハンドルを握っていた。
会いたくて、会いたくて、たまらない。
後から後からこみ上げる想いが紺野を満たす。
辻村が紺野からの呼び出しに応じた時点で、賭けには勝ったようなものだった。
会って話をすれば、必ず関係は修復できると、信じて疑ってはいなかった。
帰りは土産物をたくさん積んで、馬鹿話をしながら、この車の助手席に辻村を乗せて帰ってこよう。
燦々と輝く太陽がその背を押し、澄み渡る青い空が、紺野の前途を祝福してくれている。
そんな気がした。
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