•  夏の行方  
    13





     その日から一ヶ月と少し。
     紺野とは音信不通のまま今日までを過ごした。
     鬱々とした日を過ごす辻村は、込み上げる衝動的な苛立ちのままに殴りに行きたくなったり、かと思えば、たまらなく会いたくて泣きたくなったり。
     情緒的に安定しない日々が続いていた。
     紺野に対して本気で腹をたてていた。だから、どれだけ会いたいと思っても自分の方から会いに行くつもりは微塵もなかった。とはいえ、このままフェードアウトするつもりも、ましてや別れるつもりもまったくなかった。
     紺野が連絡をよこすまで、こっちからは死んでもするもんかと、頑なに思っていたのは、もはや凝り固まった意地のようなものだったのかもしれない。
     そう。
     最初は意地。
     そして憤り。
     だが、紺野からの音沙汰がないままの状態が続くと、今度は不安に苛まれて連絡することができなくなってしまっていた。
     電話をしても無視されること。
     そっけなくあしらわれること。
     着信拒否にされていること。
     どれもこれも仮定でしかないことを思っては腹を立てたり、傷ついたりして、どっぷりと落ち込んだりもした。
     以前にも連絡が取れなくなったことはあったけれども、こんなにも追い立てられるような気持ちに駆られることはなかった。それはまだ、恋情が絡まない関係だったからなのだろうか?
     あの時とは、自分と紺野との関係は決定的に変わってしまっている。
     肌の熱さを知り、心を通わせあい、結びつきはより強く深くなっているはずなのに。
     一度壊れてしまったら、二度と修復が叶わないような危うさが感じられて仕方がないのは、一体何故なのだろう?
    「誕生日を祝うはずだったのに。なんでこんなことになってるんだか……」
     馬鹿みたいだと、冷めた眸で自分自身を嘲笑う。
     わくわくと計画を立てていたころは、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。
     渡すつもりだったプレゼントも結局は渡せずにいる。
     7月の下旬からは専門学校が休みに入り、無為に日々が過ぎていっている。
     時々上田が電話をくれるけれども、胸を弾ませて報告できるようなことはなにもなかった。あの後、自分と紺野がつきあっていることを告げても、彼の自分に対する態度が変わらなかったことが、辻村にとっては救いだった。
     8月に入ってからは連日の熱帯夜に悩まされる日々が続いている。
     当然、日中の暑さは夜の比ではなく、気の狂ったような暑さだけでもげんなりするのに、今日は不愉快な電車に乗り合わせてしまって、気分は本当に最悪だった
     やっぱりあの男、ぶん殴っておけばよかったかと、不穏なことを考えながら、辻村は真夏の炎天下を歩き続ける。
     しばらくツェッペリンは聴く気にならないだろう。
    「あっちぃ……」
     滴る汗が止まらない。
      ミーンミンミンミン………
     囃したてるように響く蝉の音。
    「うるせぇっつーの」
     忙しなく羽を振るわせる蝉に悪態をついて、そういえば、電車に乗るときにマナーモードにしたままだったと思い出し、鞄の中に放り込んであった携帯電話を取り出した。
     見るともなしに見た液晶画面に示された着信ありの表示。
     「?」
     着信履歴を呼び出した辻村は、自分のあまりのタイミングの悪さに愕然とした。
     ――――なんで平日の昼間になんか、連絡よこすんだよ!?
     待って、待って。そうやって待ち焦がれていた紺野からの着信。
     勢いで発信ボタンを押しかけて、留守電が残されていることに気がついた。
     とくん、と。
     鼓動が跳ねる。
     吉事か、凶事か。
     情けないことに、指が小さく震えている。
     首を捻りながらも、逸る気持ちが抑えきれずに、辻村はメッセージを再生した。
     ―――――一件の伝言を預かっています
     無機的な機会音の後に微かなノイズ。
     そして…………
    『………ぁ、』
     らしくなく言いよどみ、言葉の変わりにこぼれ落ちる吐息。
     だけど。
     だけど、それは、間違いなく紺野のもので。
     辻村の鼓動が激しく乱れた。
    『―――あ、俺だけど……』
     僅かの沈黙の後、流れてくるぶっきらぼうな声。
     いや、緊張しているのか?
     微かに声が震えている。
     久しぶりに聞く紺野の声に、辻村もまた、極限まで緊張していた。
     心臓だけではなく、こめかみまでがどくどくと脈打っている。
     情けないことに身体中が小刻みに震え出し、自分がどれだけ紺野に餓えていたのかを思い知らされた。
    『――――――あぁ、やっぱ用件はメールで入れとくから。じゃ…』
    「何?」
     震える指でメールボックスを開く。
     そこに書かれてある文面に、暑さも忘れて辻村は照り返しの厳しいアスファルトの上に立ち尽くした。
    『8月13日。9時に羽田。
     全日空国内線の発券機の前。
     拒否権なし。質問不可。
     泊まり用具一式持参。
     遅れんなよ?話はその時に。
     追伸―――――』
    「?」
    『追伸』の文字の下はただの空白。
     どういうつもりだ?と、首を傾げながら画面をスクロールさせたその先に現れた言葉は…………
    『愛してる』
    「は?何考えてるんだよ?」
     思わずこぼれる声。
     電話に向かって問いかけたところで、応えはない。
     全身から力が抜ける。
     指定された日付は明後日。
     相変わらず俺の予定はどうでもいいのかよ、と、なんだかおかしくなった。
    「質問不可って……」
     意図するところは不明だし、何より急すぎる。
     からかわれているのかとも思ったけれども。
     何度も何度も聞きなおした紺野の口調は、真剣になにかを伝えようとしているようで、かわいそうになるくらい必死だった。
     そして、『愛してる』の言葉。
     繰り返し繰り返し眺めているうちに、辻村の表情が緩んでくる。
    『俺も』と返すのは簡単だけれども。
     会ってから直接言葉で伝えようと、そう思う。
     気持ちはとっくに決まっていた。
     この馬鹿げた茶番にのってみるのも悪くない。
    『了解』
     たった二文字の簡単なメールを返信した辻村は、バイトのシフトを替わってもらう算段をしながら、先刻までとは打って変わった軽い足取りで歩き出した。




    ++++++++++




     8月13日。快晴。
     澄み渡る青空に一直線に描かれた飛行機雲を見上げながら、辻村は羽田についた。
     帰省ラッシュ真っ只中の空港は、人の群れでごったがえしている。
    「人多すぎだっつーの!」
     だが、社会人である紺野にとって、この日程は仕方のない選択肢だったのだろう。
     待ち合わせより少し早い時間に指定された場所についたけれども、紺野の姿はまだ見当たらなかった。
    「たまにはおまえが早く来いよ」
     呟いて、少しだけ緊張した面持ちで、視線をめぐらせる。
     一ヵ月半ぶりに会う紺野に、何と言って言葉をかけようか?
     いや、紺野から何か言ってくるのを待つべきなのか?
     いろいろとシュミレーションをしている自分が馬鹿みたいだと思いつつ、表情が緩む。
     あっという間に刻まれる時間。
     ところが――――――
     約束の時間になっても、約束の時間を過ぎても。
     紺野は姿を現さない。
    「どういうことだよ……?」
     いつかの誕生日の出来事を思い出し、気持ちが暗くなる。
     紺野の携帯に電話をかけてみても、コール音が鳴りっぱなしで応答がない。
     少し迷いながら自宅に電話をしてみたけれども、留守電に切り替わってしまって応答はなかった。
     何度かけてみても同じことで、結局、紺野とは連絡のつかないまま、約束の時間を二時間過ぎた。

     ――――俺をからかっただけなのか?

     認めたくはなかったけれども。
     胸の中で呟いた瞬間、やりきれない気持ちになった。
    「ばかみたいじゃん、俺………」
     鼻の奥がツキン、と痛む。
     本気で泣きたくなってきた。
     だが、泣くもんかと、歯を喰いしばる。
    「ちくしょう……」
     どれだけ紺野が好きなのか、いまさらながらに思い知らされる。
     そう。
     結局は自分はあの男がどうしようもないほど好きなのだ。
     メール一つで浮かれてこんなところまで来てしまうほどに。
     会えると思っただけで、気持ちが弾んで眠れなくなってしまうほどに。
     でも、もう終わり。コレでおしまい。
     こんなふうに泣く自分がかわいそうだから。
     もう、終わりにしようと、何度も何度も言い聞かせる。
     あんな勝手な男に振り回されるのはもうたくさんだと。
     そう思う傍らでそれでも紺野がいいと叫ぶ自分がいて。
     針で刺されたように、胸が軋む。
     バカみたいに忍ばせてきた泊まり用具。
     自分が道化だと言う証。
    「やってらんねぇ……」
     いつまで待っても、紺野は来ない。
     はしゃいでいた自分が馬鹿だったと、辻村は思う。
     結局三時間半。
     良くここまで待ったと、自分で自分を褒めてやりたい。
    「畜生……」
     今度こそ本当にぶん殴ってやる。
     鉛のように重い身体を起こし、重力に絡め取られたかのような足を引きずるように動かしたその時。
     握り締めていた携帯電話が鳴り出した。
     液晶の表示は公衆電話。
     ―――――誰?
     訝しげに首を傾げた辻村は、無言で通話ボタンを押す。
     それは、思いも寄らない人物からだった。





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