この期に及んですっぽかされるとは思いもしなかった。
窓の外の青空にはまったくそぐわない沈んだ気持ちで、辻村はぼんやりと視線を彷徨わせる。
紺野からメールが送られてきてからここに来るまでの間に抱いていた舞い上がるような気持ちや、ふわふわとした幸福感。久しぶりに会うことへの緊張感。そういったものはすべて消し飛んでしまっていた。
いまは、虚しさだけが胸の中にぺったりと張り付いている。
空っぽになってしまった。
そんな気がする。
――――もう、終わりってことかよ?
どこかで期待していた。
また以前のように笑いあえると。
思いを通わせ、抱き合うことが出来ると。
だが、それは自分だけが見ていた都合の良い夢物語だったということだろうか?
―――――何考えてるんだよ?拓哉。
これ以上待ったところで、余計にみじめになるだけだ。
打ちのめされた思いで帰ろうとした、その時。
握り締めた携帯電話が鳴りだした。
RRRRRR RRRRRR
「?」
公衆電話からの着信に眉を顰めながらも、通話ボタンを押す。
「――――」
『……大樹くん?』
無言の辻村に呼びかけてくるのは掠れて聞き取りにくい女性の声だった。
誰なのか、判別はつかない。
だが、確実に自分を知っている誰か。
「……誰?」
尖る口調で問われ、そうして始めて自分の非礼に気付いた相手は、素直に詫びの言葉を口にした。
『ああ、ごめんなさい。紺野よ。拓哉の母の……』
普段の快活な口調とはあまりにも異なっていたため、誰なのか識別することが出来なかった。
とはいえ、見知った相手に対してあまりにも不躾な自分の態度を詫びる言葉を辻村も口にする。
「あ、すいません、俺。あの……ご無沙汰してます」
『謝るのはこっちよ。大樹くん、今どこにいるの? 』
「……え? あの、俺……」
言いよどむ辻村に、彼女は言葉を変えて問いかける。
『もしかして、まだ空港?』
「え?」
スラリと出てきた「空港」という言葉に、何故知っているのかと首を傾げてみたものの、親子なのだから知っていてあたりまえかと、改めて思い直す。
「あ、はい……」
『………ずっと待ってたの?』
震え出した声に、辻村の鼓動が不安を訴えるように乱れはじめる。
何故、紺野の母親からの電話なのだろう?
何故、彼女はこんなにも苦しそうに話すのだろう?
『約束してたのに……旅行、台無しにしちゃってごめんね。すぐに連絡してあげられなくて……ごめんなさい……』
途切れがちな言葉。
押し殺しているのは……嗚咽?
辻村の胸を不吉な思いが過ぎる。
どういうことだろう?
これはいったい―――
「あの、おばさん、拓哉は?」
『…………』
「おばさん?」
揺さぶるような強い口調で再度問われ、彼女は数時間前の出来事を口にする。
『空港に向かう途中、首都高で事故に巻き込まれて……』
「――――――――!?」
『いま、手術してる。でも、かなりあぶない状態だって……あの子――――――』
堪えきれずに泣き出した紺野の母親の声が、頭の中でハウリングするようにこだましている。
膝がガクガクと震え出し、蒼白な顔で立ち尽くす辻村を奇異な視線で見やりながら人々が通り過ぎていった。
「ウソ、だろう………?」
感情が彼女の吐き出した言葉を理解することを拒絶する。
『ウソじゃないのよ。大樹くん………ウソじゃ………』
行き交う人のざわめきが遠い。
自分の属する世界だけが、足元から凍り付いていく。
崩れそうになる自分を必死で叱責しながら、辻村は必死で身体を支えていた。
駆けつけた病院では、紺野の両親と弟が、憔悴しきった様子で集中治療室の前の長椅子に座り込んでいた。
「おばさん! 拓哉はっ!?」
「さっき手術が終わったわ」
「それで、容態は?」
「まだなんとも………」
相当なスピードで追い越し車線を走っていた車が、ハンドル操作を誤って分離帯に激突し、スピンして跳ね返ってきた瞬間、隣の車線を走っていた紺野の車と接触して多重クラッシュを巻き起こした。
一瞬の出来事だった。
接触した車は6台。重軽傷者が11名。事故を引き起こした運転手は死亡したと、紺野の母親は泣きはらした眸で辻村に説明をする。
「なんで……」
「運が悪かったとしか、言いようがないんだ」
呆然と呟く辻村に、父親が首を振った。
「拓哉……」
「本当にごめんなさい。せっかく沖縄に行く計画たててたのに、こんなことになっちゃって………」
「沖縄?」
驚いたように問い返した辻村に、紺野の母親も驚いたように顔をあげた。
「え、だって……一緒に行くつもりだったんでしょう?」
知らなかったことが罪であるかのような心許なさに震えながら、言葉を探す。
「計画したの、拓哉なんです。俺、行き先とか全然教えてもらってなくて。待ち合わせ場所に来ればわかるからって……」
消え入るような声で呟いた辻村に、紺野の母親がバックの中から取り出したしわくちゃの紙を、辻村の手に握らせる。
「大樹くん、これ、拓哉が握り締めていたの。あの子ってば、瀕死の重傷を負って飛行機なんて乗れるはずないのに、握り締めて離さなかったの………」
「―――――!!」
それは、確かに沖縄行きの二枚のチケットだった。
―――ご搭乗券
10時45分羽田発 沖縄行
コンノタクヤ様
ツジムラダイキ様
血で汚れたチケットを持つ手の震えが止まらない。
「拓哉……」
ファミレスでの他愛ない会話が脳裏に浮かぶ。
覚えていてくれた。
『沖縄! 沖縄行きたい! 俺、行ったことないし? 行ったことないもの同士、一緒に行こうよ』
無邪気にはしゃぐ辻村に、紺野はなんと応えただろうか?
記憶が、あふれるように蘇る。
震える唇から、呻くように言葉が零れた。
「金ねぇよ、って、おまえ、言ってたじゃん。何、ムリして一人でこんなの手配してんだよ?」
振り仰いだ扉の向こうに紺野がいる。
けれども。
ぴったりと閉ざされた扉が紺野のもとへ駆け寄ることを許さない。
どうして、こんなことになってしまったのだろう?
どうして…………
それは、衝動的な行為だった。
集中治療室へと続く扉をガン、と、力いっぱい殴りつけた辻村に紺野の家族は驚いたように目を見張った。
「大樹くん!?」
「拓哉! 目ェ覚ませよっ!! 紺野拓哉!」
振り上げた拳で扉を叩き続ける。
「大樹くん! 落ち着いて!!」
「拓哉! 拓哉ッッ!」
喧嘩別れをしたまま、まだ何も話してはいない。
棘だらけの言葉をぶつけあったあの日の会話が最後の会話だなんて、絶対に認めない。
俺たちは、やり直すはずじゃなかったのか?
それ以外の言葉を失ってしまったかのように、紺野の名を叫びながら扉を叩き続ける辻村を止めようと、紺野の家族が必死で押さえつける。
「拓哉!たくや―――――っっ!!」
めちゃくちゃに暴れた辻村の意識がぶつりと途絶えた。
気付いたときには、病院のベッドの上に横たえられていた。
身体を起こした瞬間、右手に鈍い痛みが走る。見れば、拳には包帯が巻かれていた。打ちつけた際に切ったか何かしたのだろう。
だが、そんなことは問題ではなかった。
起き上がった辻村はそろえられていた靴に足を通し、周囲に視線をめぐらせる。
そのとき、タイミングよく入ってきた看護師に声をかけられた。
「気がついたみたいね」
「………あ、はい」
「自分のしたこと、ちゃんと覚えてる?」
咎められるような響はなかったけれども。
諭すように問いかけられて、辻村はうつむいた。
「はい」
「気持ちはわかるけど、ご家族の前であんなことするのは感心しないわよ」
「すみませんでした」
母親と同じくらいの年齢の看護師に穏やかな眸でたしなめられ、素直に頭を下げた。
「謝らなくていいわ。気持ちはわかるって言ったでしょう?」
「…………」
「彼は今、生きるために一生懸命闘ってるの。だからあなたも祈っててあげて。大丈夫だって、ちゃんと祈っててあげて」
「…………はい」
「しっかりね。あなたが取り乱してる場合じゃないのよ」
励ますように肩を叩かれ、教えられた集中治療室のある方へと足を向ける。
廊下には、辻村が来たときと同じように、紺野の家族が寄り添うように長椅子に座っていた。
「大樹くん…」
辻村に気付いた彼らに歩み寄り、深く頭を下げる。
「あの、俺……ご迷惑おかけして本当にすみませんでした」
「落ち着いた?」
心配そうに自分を見つめる紺野の母親の視線が辻村には痛い。
「はい」
「ついててあげられなくて、ごめんね」
「いえ、そんな………」
迷惑をかけたのは自分の方だ。
そんなふうに謝られるといたたまれない。
「あなたのお母さん、迎えに来てくれるって。今こっちに向かってるから、もう少しだけ、ここで待ってて」
「本当にすみませんでした」
辛いのは自分だけではない。
紺野の家族の不安そうな表情を見て、あまりにも衝動的だった自分の行為を悔いる。
だが、そんな辻村に、紺野の母親が力なく笑った。
「謝らないで。大樹くんの声、ちゃんと届いてたと思うのよ? ダメかもしれないって言われてたけど、手術は何とか乗り切ったわ。今夜がヤマだって先生は言ってた。だから、拓哉の名前、何度でも呼んであげて。この子がちゃんとこっちに戻ってこれるように。手招きされてあっち側に行っちゃわないように呼んであげて。この子、バカだから、どこに戻ってくればいいのかわかってないのよ」
滲む涙を拭い、嗚咽を噛み殺した声が震えている。
我が子を思い、悲嘆にくれるその声を聞きながら、辻村もまた、恋しい人を思って、拳を握り、奥歯を噛み締めるのだった。
こんなとき、人はあまりにも無力だ。
だから、必死で祈った。
紺野が眸を覚ますことを。
いつものように話しかけてくれることを。
それっきり、誰も口を開こうとはしなかった。
刻まれる一分一秒が重い。
程なくして迎えにきてくれた母の運転する車のナビシートに納まり、辻村はぼんやりと窓の外を見上げていた。
空は、まるで何事もなかったかのように、青く穏やかに澄み渡っている。
沖縄の空も、同じような青さで広がっているのだろうか?
『あーゆー夏のスポットは、暑い夏に行くのが一番なんだよ』
紺野は、そんなふうに言っていた。
いまがその、夏の盛りの時期だった。
羽田待ち合わせなんてめんどくさいことなんてせずに、一緒に連れて行ってくれればよかったんだ。車で拾っていってくれれば、事故になんてあわずに済んだのかもしれない。
いや、そもそも、最初から意地なんて張らなければよかった。
夜の街に消えた紺野の背中をなりふりかまわずに追いかけていたならば。
そうしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
悔やんでも悔やみきれない思いが後から後から込み上げてくる。
――――死ぬなよ、拓哉。俺たちはまだ、仲直りさえしてないんだから。
不安で押しつぶされそうな想いを飲み下せば、胸がズキリ、と痛む。
―――−拓哉………
非力な人間である自分は、ただひたすらに、祈ることしか出来なかった。
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