•  夏の行方  
    10






     やがて迎えた三月。
     桜の蕾がほんのりと色付き、穏やかな風のそよぐ良く晴れた日。
     澄み渡る青空の下、聞きなれた校歌の響き渡る学び舎で、彼らは旅立ちの時を迎えた。
     三年間、共に過ごした仲間たちとの別離の日は、それぞれが選択した新しい未来へと踏み出す日でもある。
     晴れ晴れしい笑顔は、みな希望に輝いていた。
     有賀と小田嶋は共にそれぞれが志望した大学に進学を決め、辻村もまた、ギリギリになって願書を提出した専門学校に通うことになっている。三年間、毎日のように顔をあわせていた三人だったけれども、これからは別々の道を歩むこととなる。
     後日、気のあう仲間内での打ち上げが予定されているけれども、着慣れた制服を着て通いなれたこの場所で顔を合わせるのは、今日が最後の一日だった。
    「あっという間だったな」
    「だな」
     振り返れば、思いは尽きない。
    「けど、楽しかったよね」
     爽やかに笑う有賀の言葉が、この三年間を集約している気がする。
    「そうだな」
     大人たちが呆れるような馬鹿なこともたくさんしてきたけれども、それもまた、いい思い出のひとつだ。この桜が花開き、そして完全に散ってしまうころには、自分たちではない誰かが、自分たちと同じようにこの学び舎で大人たちの手を煩わせるに違いない。
     この場を去る自分たちには、袖の擦り切れた制服に腕を通す日はもう来ない。
     涙はないけれども、感慨深い思いがこみ上げる。
     肩を並べて校門のところまでゆっくりと歩き、最後にもう一度校舎を振り返ると、彼らはそれぞれの一歩を踏み出した。
    「じゃ、また」
    「おう、またな」
     そんな辻村たちとすれ違いざまに級友たちが、声をかけてくる。
    「あ、おまえら、帰るの?」
    「ああ、お先」
    「元気で!!」
    「またな!」
     気軽く言葉をかわしながら、一体この中の何人と再び時間軸を交えることがあるのだろうかと、ふいに、思う。大半の者たちとは二度と会うこともなく、ここで関わりが途切れてしまうのだろう。
     一期一会。
     いつか、聞きかじった言葉が頭を過ぎる。
     一生に一度の出会い。
     紺野とはまさにその言葉通りの出会い方をしたのだと、辻村は思う。
     学校でしか接点のなかった級友たちとはここで離れ離れになってしまうけれども。
     紺野とは、この先も共に歩んでいくことができるのだ。
     ――――叶うならば、ずっと。
     祈るようにそう願った自分を、辻村は笑った。
     思っていた以上に、深く彼に捕らわれている。
     この場所で過ごした三年の間に紺野に出会うことが出来た自分は、幸せだったのだと。
     いま、改めて感じることが出来る。
     そんな想いをめぐらせながら自転車を漕ぎ、帰り着いた家の前に当の本人の姿を目にして辻村は息を飲んだ。
    「よっ」
     予想外のその姿に驚きで眸を見開いた辻村に向かって、塀に預けていた身体を起こした紺野が片手をあげた。
    「――――!!」
    「卒業おめでと」と笑う紺野に自転車を飛び降りて駆け寄り、問いかけとも独り言ともつかないような声をあげる。
    「どうしたんだよ?その格好……」
     少し前に切った髪をすっきりとまとめ、ピンストライプの入った黒いスーツにネクタイまできっちりと身に着けている。
    「拓哉がスーツ着てるの、はじめて見た……」
    「惚れ直した?」
    「うん!」
     軽口のつもりで言った言葉に真顔で頷かれ、紺野はニヤリと、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
     それでこそ、敢えてわざわざスーツを着てここに来た甲斐があるというものだ。
     一方、うっかり素直に口にしてしまってから、自分の台詞に頬を赤くした辻村は、照れくささをごまかすように紺野のわき腹を肘でつついた。
    「そーじゃなくて! 何でそんな格好してるんだよ?」
     同じ問いを繰り返す辻村に、紺野は晴れやかに笑って言った。
    「仕事、決まったんだ」
    「え?仕事?」
    「そう。仕事。就職したの、俺」
    「え?何で?」
    「何で……って、まぁ、おまえも卒業して環境変わるわけだし? 俺もここらでちょっとフリーター卒業してみようかと思って」
    「どういう風の吹き回し?」
     本気で驚いたといわんばかりに目を丸くする辻村に、決まり悪そうに紺野が頭を掻いた。
    「馬鹿。一生ふらふらしてるわけにはいかないだろうが」
    「そーだけどさ。なんか変。拓哉が就職って」
    「失礼なヤツだな!」
    「勤まるの? 社会人」
     からかうような眸で問う辻村の足先を蹴って、紺野は憤慨する。
    「馬鹿にすんな!」
    「あはははは」
     繰り出されるパンチを飛びのいてかわした辻村は、紺野に向けて満面の笑みを向けた。
    「ウソウソ。すごいじゃん。就職おめでとう!」
    「最初からそー言えよ!」
    「けどさ。就職活動してるなら言ってくれればいいのに」
    「いちいち落ちたって報告するの、かっこ悪いだろ!」
    「落ちるつもりで受けてたわけ?」
    「ンなわけねぇだろっ!」
    「だったらいまさら何気取ってるんだよ?」
    「気取ってるわけじゃねぇけどさ」
     家の前で井戸端会議よろしく話をつづけるふたりに、聞きなれた声がかけられる。
    「あなたたち、何そんなところでたむろしてるのよ?」
     息子の卒業式に参列していた大樹の母親が、少し遅れて戻ってきたところだった。
     そして、紺野の格好に気づいて声のトーンがぐっと上がる。
    「あら、拓哉くんどうしたの? その格好」
    「あ、おばさん、こんにちは」
    「拓哉くんは卒業式……は関係ないわよねぇ?」
    「ちげーよ」
     紺野の変わりに応えた息子に「あなたには聞いてないわよ」と、ムッとしたように口にする。
     そんな彼女の表情は不機嫌になりかけの辻村と良く似て、思わず小さく笑って紺野は事情を言の葉に乗せた。
    「俺、就職したんです」
    「え? 就職?」
    「そう。就職」
    「え? どうして?」
    「どうして……って、おばさん、その反応、大樹とまったく一緒なんだけど?」
     さすが親子、と、苦笑する紺野に、彼女はあわてて手を振った。
    「あらやだ、ごめんなさい、あたしったら……」
     勘弁してよ、と大袈裟に天を仰ぐ息子の言葉は聞き流し、「おめでとう、拓哉くん」と、息子に良く似た笑顔を彼女は浮かべた。
    「ありがとうございます」
    「どこの会社なの?」
    「鷺沼建装」
     大手ゼネコンの下請業務をしている地元の建設会社だ。
    「あら、じゃあ、家から通えるわね」
    「一人暮らしする金もないんで」
     悪びれることなく笑う紺野に、なおも質問を繰り出そうとした母親を、辻村が呆れたように止める。井戸端会議は専業主婦の得意技だ。放っておいたらいつまで続くか分からない。
    「ってゆーかさ、母さんも拓哉も、中入って話さない?」
    「あら。そうよね。お茶入れるから、中に入って」
    「お邪魔します」
     少しの間、客間で三人で話をし、その後辻村の部屋にあがった紺野は、スーツがしわくちゃになるからと、いつものように床に直接座ったり、ベッドに寝転がったりせず、キャスター付の椅子に腰を下ろした。
     そんな紺野を透き通った眸で辻村がじっと見つめている。
     見慣れない服装。
     見慣れない姿勢。
     纏ったスーツのせいだろうか?
     自分を置いて少しだけ先にいってしまったような気がする。
    「何?」
    「なんか変な感じ」
    「そう?」
    「そうだよ! やっぱさ、仕事探してるなら探してるって、言ってくれれば良かったんだよ」
     話が振り出しに戻ってしまい、やはりそう来たか、と、紺野は内心で苦笑した。
     辻村が言いたいことはとことん言っておかないと気がすまない性格だということはよくわかっている。
     母親の手前、抑えていた部分があるのだろう。
     ふたりきりになって、ようやく辻村は不満そうに唇を尖らせた。
    「まぁ、そう言うなって。ちゃんと決まるまではなんか言い辛かったんだよ」
    「いまさら遠慮する仲でもないじゃん」
    「それもそうなんだけど」
     と、一度言葉を区切った紺野は、少し照れたように笑って言った。
    「おまえだからカッコつけたかったんだよ」
    「え?」
    「一番最初におまえに言いにきたんだからさ。勘弁しろよ」
     いつかはちゃんとした仕事をみつけなければ……と、漠然とは思っていたのだけれども。
     腰を据えて就職口を探そうと思ったきっかけは、二人でベッドの中で雑誌を捲っていたあの日の朝だった。
     誕生日くらい、辻村が遠慮なく欲しいものをねだることができるように。
     美味い食事をご馳走してあげることができるように。
     金で愛情が計れるとは思っていないけれども、年に一度の特別な日くらい、せめてそれくらいのことを金銭面の心配をすることなく融通することができれば良いと、痛切に思った。
     少しずつ返していた借金も、まとまった収入が定期的に入るようになれば、もう少し早く完済できるだろう。そうすれば自由に動かすことのできる額も増える。
     何より、生活の基盤をしっかりと作りたかった。
     誰に何を言われても、後ろ指差されることのないような、生活の基盤を。
     このまま辻村と未来を共にするということは、そういうことなのだろうと、紺野は少し前から思いはじめていた。
     男同士というハンデを越えても一緒に在りたいと願うことは、そういうことなのだろう、と。
     辻村に対する自分の気持ちがそこまで真剣であったことが、驚きであると同時に好ましくもあった。
     誰かのためにシャカリキになって働くというのも悪くない。
     そう思える自分が、そして、自分をそんなふうに変えてくれた辻村が、紺野は誇らしくて仕方がなかった。
     もっとも、これは自分の内面の問題で、いまはわざわざ辻村に告げる必要のないことだと思っている。
    「ま、いいけどさ。おめでたい話なんだし」
    「おまえだから」という紺野の言葉に気を良くした辻村が、そう、結論付けた。
    「いつから働くの?」
    「再来週」
    「ふーん。なんか急だな」
    「寂しい?」
    「別に」
    「まーた。強がっちゃって」
     からかうように言われてムキになって返す。
    「別に! って言ってるだろう!」
     拗ねるような口調に誘われるように、椅子から下りた紺野は、嘯く辻村の唇にキスを落とす。
     学ラン姿もこれで見納めか……と、妙な感慨を抱いた紺野に、「あのさ」と、辻村が言葉をかけた。
     眸の予想外の真剣さに、思わず背中にまわしかけた腕の動きが止まる。
    「何?」
    「あのさ、その仕事が拓哉が出会った『これだ!』って仕事だったの?」
     いつかの会話を思い出し、辻村が問う。
     途端に、紺野の脳裏にも浮かぶワンシーンがある。
    『これだって仕事に出会うまではイロイロためしてみりゃあいいんだよ』
     確かに、そんなふうに豪語して笑っていた。
     何にも属さず、何にも縛られないことがカッコイイことだと信じて疑わず、自由気ままを装って好き勝手やっていた。実際、あの時の自分はそれで十分だと思っていた。その時の考え方が間違っていたとは思わない。
     けれども。
     いまは違う。
     気持ちが変わったのは『これだ!』と言う仕事に出会ったからではない。『辻村大樹』という一人の男に出会ったからだ。それを上手く説明する言葉を持たず、紺野は曖昧に言葉を濁す。
    「んー。やってみないとわかんねーってのが、正直なところだな」
    「なんかはっきりしないなぁ。どういう心境の変化だよ?」
     適当にはぐらかされてはくれない辻村は、やはり聡い。
     見透かされてしまいそうな内面を押し隠すように、紺野は辻村の口調を真似る。
    「別に」
    「その答えはずるい!」
    「おまえだって、さっき言っただろうが!」
    「俺はいいの!」
    「どんな理屈だよ」
     結局、小突きあいながら、いつものじゃれあいになってしまう。
     無邪気に笑っていた、高校生とフリーターでいられる最後の日。
     時間は泉のように湧いて出るものだと思っていたこのころは、多分、まだ何もわかっていなかった。






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