それぞれの新しい生活がはじまった。
一足先に紺野の生活環境がガラリと変わり、少し間をおいて、辻村も新しい環境での生活を送るようになった。
授業の内容と共に授業を受ける面子が一新した以外は、わりとゆとりのある時間の中で生活を送ることができる辻村とは対照的に、紺野は慣れない環境で奔走する日々を送っていた。仕事ももちろんだが、決まった時間にきちんと起きるところからが紺野にとっては一苦労だった。それでも、いまのところは母親の手を煩わせることなく、自力で起きて家を飛び出している。
社会人としての彼なりの心構えは三つ。
遅刻をしない。
喧嘩をしない。
きちんと挨拶をする。
はじめて出社した時に自身に誓った決まりごとだ。
対人関係を円滑にこなすためにはどれも必要なことだと紺野は思っている。
仕事に関しては少しずつやり方を覚えて手際よくこなすことが出来るように馴染んでいけば良い。とはいえ、中途採用扱いなので、通常の新入社員よりも仕事で要求されるハードルは高い。それも、負けん気の強さが良い方に作用して、滑り出しは順調な社会人生活を送っていた。
紺野の仕事帰りに待ち合わせて二人で夕食を共にしていたその日。
「なんか拓哉、ちょっと痩せた?」
向かいの席で箸を動かす紺野を見て言う辻村に問われ「さぁ?」と首を傾げてみせる。
「いちいち体重計ってないからわかんねぇよ」
「ふーん。じゃ、俺の気のせいかな?」
「?」
「食欲は……落ちてないみたいだもんな」
わざとらしく紺野の前に置かれた皿に視線を向け、うん、やっぱ気のせいか、と、頷いた辻村にクレームを付ける。
「人の夕飯にいちゃもんつけんな!」
ライス大盛りの回鍋肉定食にプラスで餃子を一枚。さらに杏仁豆腐をオーダーするかどうか、本気で思案している最中だ。
あんかけ焼きそばを冷ましながら口に運ぶ辻村は、ネクタイを緩めた紺野をまじまじと眺めて、感心したように言った。
「なんだかんだ言ってもちゃんとサラリーマンやってるんだね」
「あたりまえだろ! と胸張って言いたいところだけど。まだサラリーマンの見習いってトコかな? 言われたことをこなすのでいっぱいいっぱいだよ」
「うわっ。謙遜する拓哉ってなんか気味悪い」
「ばーか。人が一生懸命やってるんだから応援しとけっつーの。この俺様が人に気を使って試行錯誤してるんだから」
「あ、それちょっとわかるかも。俺もこの間からバイトはじめたじゃん。そこのチームリーダーに能面みたいに表情変わらないヤツがいてさ。何考えてるのか超わかんないの。なんか気ィ使ってすっげぇ疲れる……」
重苦しい溜息をついた辻村に、紺野は嫌そうに眉を寄せた。
「おまえのその悩みと俺のは一緒にされたくないぞ?」
「えーーー!? それってなんか差別っぽい」
「アホ。区別だっつーの。ま、なんにしても働くってのはタイヘンだってことなんだよ。山下たちなんて今から就職活動だってヒーヒー言ってるぜ? しかもさ、俺が先に就職したのが納得いかないってうるせーのなんのって」
「あははは。ちょっと気持ちわかるかも?」
「ンなところで同調するな! おまえ、俺じゃなくてあいつ等の味方するのかよ!」
「そーゆーわけじゃないけど」
彼らの話題が出たところで、紺野は山下から言付かっていたことがあったのを思い出し、そーいえば、と、話を変える。
「週末だけどさ。山下と安積がボーリングに行かないかって。大樹、予定あいてる?」
「いいけど。何でいまさらボーリング?」
「なんか大学のサークル同士の交流会でやるらしいんだよ。で、当日ボロクソに玉砕するのもカッコイ悪いから予行練習だってよ」
「余裕だね。就職活動で忙しいんじゃなかったの?」
「あいつらに聞けよ」
もっともなことを言って紺野は最後の餃子を口に放り込んだ。
「いいよ。久しぶりにボーリングってのも悪くない」
そもそも、山下や安積と会うこと自体が久しぶりだ。
「じゃ、あと決まったら時間とか連絡するから」
「うん」
結局、悩んだ杏仁豆腐は頼まずに、その日二人は帰路についた。
こんなふうに、最初のころはいままでのように過ごす時間を融通する余裕があったのだけれども、ほぼ毎日顔をあわせて過ごしたゴールデンウィークを過ぎた辺りから、会う回数が少しずつ減っていった。
基本的に紺野の職場は週休二日だ。
とはいえ、現場の事情によってその休みもずいぶんと左右される。慣れていくに従って仕事の量は増えて土日の業務も入ってくるようになり、遊びたいからといってそれを放り出すことはできなかった。
紺野が会社に慣れていけば、相手も紺野に対して気を使わなくなっていく。
荒っぽい業界での仕事は、現場の番頭にどなりつけられて拳を握って自分を抑えることも、上司の理不尽な言いように耐えかねて、この男をぶん殴ってやめてしまいたいと思うことも、片手では数え切れないほどあった。
短気を起こすことなく自分なりに折り合いをつけてやっているつもりでも、 あまりにもムカついた日は、退社後までイラついた気持ちをひきずってしまうことがある。
話しかけても生返事しか返してこない紺野に、辻村が眉を顰めた。
「ねぇ。なんか今日さ、機嫌悪くね?」
「別に」
「ウソ。だって、なんか怒ってンじゃん」
「気のせいじゃねぇの?」
いつになく頑なな紺野に、辻村も苛立ちを顕にし始める。
「会社で何かあったんでしょ?」
途端に紺野がテーブルの足を蹴った。
「会社の話なんかしたくねえよ。思い出すだけで腹立つから」
舌を打つ紺野に、辻村は吐き捨てるように言った。
「あっそ。じゃ、俺帰る」
「え?」
「じゃ」
「ちょっと待てよ!」
席を立ち、踵を返した辻村の腕を掴み、紺野が傷ついたような顔をする。
「何で………」
「それ、本気で言ってる? あんなイラついた顔しといてなんでもないってよく言えるな? イロイロ聞かれたくないならそんな顔すんなよ」
「――――!!」
確かに、仕事のことは辻村にはよくわからない。けれども、わからないなりに話してくれれば、聞くことは出来るし、励ますことだってできるのだ。
理由もわからないまま不機嫌に押し黙られては、どうすることもできない。
「悪い……」
「……………」
謝られて、辻村の怒りも萎える。
溜息をつき、もう一度椅子に座りなおした辻村は、どこか神経質な手つきで振り落ちる前髪をかきあげた。
「久々に映画見に行くの、楽しみにしてたのに……」
夕飯を食べて、ナイターで映画を見る約束をしていた。その後は流れでどちらかの家かホテルにでも行くのだろうと思っていたのだけれども。
気分は台無しだと、無言で訴える。
職場から引きずってきた不機嫌の理由を語ることもないまま辻村に当たってしまうのは、紺野の甘えでもあった。
だが、まだ10代の辻村にそれが理解できるはずもなく…………
次第に二人は、小さな衝突を繰り返すようになっていった。
++++++++++
「拓哉の会社ってさ、土日は休みじゃなかったっけ?」
仕事で辻村との買い物に行く約束を、直前でキャンセルする羽目になってしまった翌日の月曜日。
ごめん。メシ、奢るから……と、いう紺野と待ち合わせた辻村は、会うなり咎めるような口調で切り出してきた。
最初のうちは約束がドタキャンになっても「仕事だから仕方ないよ」と笑っていた辻村だったけれども。
約束を三度反故にされ、さすがに不機嫌な表情を隠そうともしなくなった。
本来なら感情に直結した辻村の表情や態度は、紺野にとってはひたすらに好ましいものであったのだけれども。
どうにかしたくてもどうにもならないことをきつい口調で責められれば、紺野もつい、同じような口調で返してしまいがちになる。気持ちにゆとりがあるときは笑って流せる言葉でも、お互いにカリカリとした状態でぶつけあってしまえば、それが相手を不愉快な思いにさせるものとなりかねない。仕事で疲れているときほど苛立ちが先に立ち、自分を抑えることができなくなってしまう。
今がまさしくそんな時だと、紺野が溜息と共に吐き捨てた。
「仕方ないだろ? 仕事なんだから」
この言葉を口にするたびに、辻村との間の小さな小さな溝が深まっているような気がしてならない。こんなことがどうしてわからないんだ? という苛立ちと、俺だってがっかりしてるんだよ、というやりきれなさ。そういった感情が溝の間には積み重なっていく。
だが、辻村にも言い分はある。
「それはわかるけどさー」
それを聞き分ける理性と会いたいと思う本能とは別物だと。
そんなふうに言いたげな眸で、唇を尖らせる。
仕方がないとは言っても、紺野の連絡はいつだって急すぎて、すっかりその気になっているときに放り出される辻村としては文句の一つも言いたくなる。言えば言ったでおとなしく文句を聞いているような性格ではない紺野は、何かしら尖った言葉を返してくる。
お互いにわかってはいても、感情が先立ってしまい、繰り返される小さな諍い。
結局、気まずい沈黙がおりてしまい、イライラとした仕草で肩をすくめた紺野は、剣呑な眸で辻村を見た。
「悪かったと思ってるから、今日、こうしてるんだろ? だいたいこの間誘ったのに断ったのはおまえだからな」
「そんなこと言ったって仕方ないだろう! 当日いきなり言われたって、バイト休めるわけないじゃん」
「…………」
「…………」
そして、紺野とまったく同じ言葉を口にしていることに気付いた辻村は、お互い様かと、深い息を吐いた。
言い争いをした後は、その後味の悪さにどっぷりと落ち込むのはいつものことだ。貴重な時間を不毛な言い争いで潰してしまうことが一番バカバカしい気がしてくる。
「やめやめ。仲良くしよう。うん。せっかくいっしょにいるんだしさ。俺、何おごってもらおうかなァ……」
声のトーンをあげて自分に言い聞かせるように口にした辻村の頭をくしゃりとなで、その通りだと、紺野も倣う。
「好きなもの、何でもおごってやるから。仲良くしよう。な?」
「ん……」
触れ合ったところから伝わる体温に泣きたくなる。
このまま躰を重ねて抱き合いたい、と。
込み上げる衝動が、揺らめく眸の奥で叫んでいる。
抱き合うことで確かめたかったのかもしれない。
それぞれの中にある、褪せることのない想いを。
疑っているわけではないけれども。
躯で感じていたかった。
その日は、時間に追い立てられるように抱き合った。
その肌に指を、唇を這わせている恋人を、こんなにも愛おしく想っているのに。
こんなにも近くにその体温を感じているのに。
何故だろう?
ひどく切ないセックスだった。
そして、6月最後の日。
その日は梅雨時に相応しい雨模様の一日だった。
朝から降り出していた雨は夜になっても雨足が弱まることはなく、家の屋根や窓を叩き続けている。
紺野とは一週間ほど話をしていない。
電話をしてみれば留守だったり、連絡があっても受けることが出来なかったり。
微妙なすれ違いが続いていた。
今日は、繋がるだろうか?
いや、今日こそは繋がって欲しい。
部屋の中で一人、雨の音を聞きながらカレンダーを眺めていた辻村は、その音に背を押されるように携帯の短縮番号を押した。
コールは三回。すぐに繋がった。
『もしもし』
「あ、俺」
『おう、どうした?』
「ちょっと久しぶり」
『あははは。何だよそれ? 一週間ぶりくらいじゃね?』
「うん。多分そのくらい」
笑い声に肩の力が抜ける。どうやら柄にもなく緊張していたらしい。
舌先で一度唇を湿らせた辻村は、さり気ない口調で用件を切り出した。
「あのさ」
『ん?』
「今度の水曜日にさ。時間あったら仕事終わってからメシ食いにいかね?」
『水曜?』
言いながら、カレンダーに目をやった紺野は、日付を見て思わず口元をほころばせる。
それは、満面の笑みだった。
忙しさにかまけてすっかり忘れていたけれども、辻村はきちんと気にしてくれていたのだ。そのことが、とても嬉しかった。
『……ああ、大丈夫。19時半くらいなら間違いないと思うけど。それでいい?』
「かまわないよ」
『楽しみにしてるな』
「こっちこそ」
『うん。じゃ、おやすみ』
「おやすみ」
そう言って通話をオフにしようとした辻村の動きを、紺野の声が止める。
『あ、大樹』
「ん?」
少しの間をおいて少し照れたように囁かれる言葉。
『………ありがとな』
「うん……」
あたたかな気持ちが、胸にじわりと広がった。穏やかな微笑が、その貌に浮かぶ。
紺野が自分の意を汲んでくれたことが嬉しかった。
水曜日。
どんなサプライズを用意しようか?
降り続ける雨の音を聞きながら。
晴れやかな気持ちで眠りについた。
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