•  夏の行方  
    06






     窓を叩く雨の音が、やけに強く耳を打つ。
     それ以上に、トクトクと脈打つ胸の音が躯中に響いていた。
     その音に急かされるように、上昇する体温。ジワリ、と、滲む汗。
     そして…………困惑。
     どうしよう。
     動けない。
     逸らすことのできなってしまった視線。
     離せない指先。
     降りつづける雨の音に、胸の奥深くに沈めていた想いが、どうしようもないほどに掻き乱される。
     迸る想いを、叫んでしまいそうになる。
     けれども、どんな言葉に託せばいいのか。
     そもそも、言葉にしてしまえるものなのか。
     掴みあぐねて逡巡する。
     重ねた手から伝わる体温が、互いの混乱に拍車をかける。
     想いは、胸の中でこんなにも溢れているのに、言葉にすることのできないもどかしさ。
     揺れる辻村の眸のその先で、色を失った紺野の唇が喘ぐようにふるえ、引き結ばれた。
     コクリ、と。
     紺野の咽元が上下に動いた瞬間、辻村の鼓動が激しく乱れた。
     もう、これ以上の沈黙には耐えられない、と、身体の奥深いところが叫んでいるかのように。
     眩暈がしそうな緊張と息苦しさのなかにいるのは、自分だけではない。
     触れ合った指先が小刻みに震える理由を互いの眸の中に見出そうと、必死で探る。
     こめかみがトクトクと脈打っている。
     眩暈がする。
     たまらず、乾いた唇を開きかけたその時―――――
     沈黙を裂くように鳴り出したスマートフォンの着信音にビクリ、と肩を強張らせ、次の瞬間、緊張を強いられていた全身の力が一気に抜けた。
     堰き止められていた時間が急激に流れ出す。
     触れ合わせた手をスルリと離した紺野がポケットからスマホを取り出し、悪ィ、と小さく断りを入れてから、電話を繋いだ。
     乱れる鼓動を悟られまいと、平静を装った声を絞り出す。
    「悪い、今ちょっとムリ。後でこっちからかけなおすから。うん。わかってる。ああ。じゃ」
     最低限の会話だけで通話を切った紺野は、深く息を吐いて、髪をかきあげた。
     正直、助かった、と思った。
     コール音に遮られなければ、どうなっていたのかわからない。
     そんな雰囲気が張りつめていた。
     地肌に近い部分はまだ少し湿っていたけれども、表面は完全に乾いてしまっている。
     そのことが、ここにいる時間の長さを紺野にそっと告げている。
     液晶画面に表示された時間は、夜明けが近いことを示していた。
     思いがけず、長居をしてしまった。
     窓の下に一人立ち、この部屋の窓を見上げたときは、まさかこんな展開になるとは思いもしなかった。何かを望んであの場所に立ったわけではない。
     ただ、来ずにはいられなかったのだ。
     辻村の傍に。
     思い切ろうとずいぶんと足掻いてみたけれども、結局はここに向かう足を止めることはできなかった。
     自分にそんな一面があったことに一番驚いていたのは、紺野自身だったかもしれない。
     あの窓の向こうには辻村がいる。
     ―――――馬鹿だなぁ……ストーカーだっつーの。
     梅雨前線がもたらす雨に打たれながら、皮肉な笑いを己に向ける。
     そんなふうに思いながら、帰るきっかけがつかめずにいたその時―――――紺野にとっての奇跡が起きた。
     窓が開いたのだ。
     開くはずのない窓が。
     辻村が気付いてくれた。
     紺野の存在に。
     ―――――いや、ヤバイだろ。
     動揺のあまりとっさに踵を返しかけたその足を止めたのは、自分の名を呼ぶ辻村の声だった。
     たった一言に、縫いとめられる。
     辻村が外に駆け出してくるまでのほんの数十秒の間に、濁流のように渦巻く内面と対峙する。
     意図的に距離を置こうとしていた間の自分の素行を既に知っているであろう辻村から向けられる視線が怖かった。拒まれ、蔑まれることを思えば、やはりこのまま逃げ出したくなる。
     と、同時に嬉しかった。辻村が自分の名前を呼んでくれたことが、どうしようもないほど嬉しかった。
     それでいいと。
     紺野は思う。
     十分だと。
     そう思うことができたからこそ、自分は今のこの場所にいるのだと、己に言い聞かせる。
     それ以上を望むことはタブーなんだと。
    「悪い。なんか俺、こんな時間までいるつもりなかったんだけど……」
    「そーゆーこと言うなっていっただろ?」
    「そうだけど」
     昼まで寝ていられる自分はともかく、学校がある辻村は、さすがにこのまま朝まで……というわけにはいかない。
     だが、辻村は言うのだ。
    「俺は拓哉が来てくれて嬉しかった。すっげぇ会いたいと思ってたから。だから……いいんだ」
     明日のことよりも、この瞬間の方が大切なことだってある。
     いま、紺野がここにいるということが。
     まっすぐに自分を見つめる真摯な眸に、紺野の胸が締め付けられる。言葉が、やさしく染み入ってくる。
     たとえば、自分がどんな夢を見たのかを。
     たとえば、自分がどんな欲望を抱いているのかを。
     それらすべてを知った辻村は、やはり同じようにまっすぐに自分に視線を向けてくれるだろうか?
     いや。
     愚問だ。
     右手の小指のリングに誓ったはずだ。
     秘密を守り抜く、と。
     溢れる想いをごまかすことは、もうやめることにしたけれども、それを辻村に押し付けるつもりは毛頭なかった。
     けれども。
     触れ合わせた手のひらから伝わる辻村の体温と、小刻みな震え。
     外されてはいなかった、そろいの指輪。
     困惑に揺らめくその眸に宿った感情の波に触発されたように胸が脈打った瞬間、湧きあがった想いが胸の中でチリチリとざわめき出した。
     もしかしたら、と。
     期待してしまいそうになる。
     もしかしたら、と。
     都合の良い夢を見てしまいそうになる。
     想いを告げて辻村を失うことの怖さよりも、巻き込んでしまう怖さの方が紺野を縛った。
     そう。いまのままで十分だ。
     辻村は、こうして自分を受け入れてくれた。いまの、在るがままの自分を。
     これ以上望むことはないのだろう。
     小さく笑った紺野は、立ち上がって言った。
    「帰るよ」
    「え……?」
     一人で何かを納得してしまったようなその表情に、辻村は腰を浮かせて狼狽する。
     何で? と眸で訴える辻村の額を弾いて紺野は肩をすくめた。
    「おまえ、明日学校だし。朝までいたらおばさんに顰蹙買うの、俺だよ?」
    「あ。そっか……」
     そこまでは配慮が至らなかったと、頷いてみせたものの、それでも、ようやく会うことのできた紺野と離れがたくて、服の裾を握る。
     幼い仕草にやわらかく微笑んで、諭すように言葉をかけた。
    「馬鹿。最後の別れってワケじゃないだろ?」
    「なんだよ! 連絡もよこさないで放っておいたの、どっちだよ?」
     不満気に頬を膨らませる辻村に、紺野は謝る以外の術をもたない。
    「……悪い」
     身勝手な振る舞いだったかもしれない。けれども、どうしても、距離をおかなければならなかった。惑いと混迷と、ひどい飢えの中にいた自分は、暴走しそうな己の獣を、理性で繋ぎ止める自信がなかったから。
     だが、皮肉なもので、距離をおけばおくほど、会いたいという思いは募る一方だということを、紺野は身をもって知ることとなる。そんな己の感情を持て余し、荒れに荒れた。色々な悪評が流れたのはこのころだ。馬鹿だとは思うけれども、どうしようもなかった。
     けれども、今日、わかってしまった。
     どちらに転んでも苦しいのなら、傍にいればいい。
     賢くはないかもしれないけれども、それは今ある選択肢の中でもっとも妥当な選択だと紺野は思う。
     険しい眸で自分を見つめる辻村に、静かに口を開いた。
    「でもホラ、服返しに来ないといけないし? また来るから」
     雨に濡れた服はハンガーにかけて干してある。
     今紺野が身に着けているのは、辻村に借りたジャージの上下だった。
    「あ………」
     ―――また来るから。
     スラリと紺野の口から零れた再会を約束する言葉。
     このとき辻村の胸に広がった想いを、なんと表現すればいいのだろう?
     潮が満ちるように嬉しさが広がっていく。
     隅々まで行きわたるように広がっていく。
    「借りてっていいんだろ?」
     屈託なく笑う紺野が、そこにいる。
     手を伸ばせば、触れることのできるこの距離に。
     少し前に時が戻ったようだと、辻村は思う。
     とりとめのない話をしながら、ただ傍にいることができたあの時に。
     叶うならば、もう二度と手放したくない。
     紺野と共に笑っていられる時を。
    「きっちり洗って返せよな?」
     同じような笑顔を返した辻村に紺野は頷いてみせる。そして二人は、足音を忍ばせて階段を下り、静かに玄関の扉を開けた。
     雨は小降りになっていた。それでも、空から降り落ちる細かい雨は、地面を歩く者をぐっしょりと濡らしてしまうだろう。
    「持っていきなよ」
    「え? いいよ、別に」
     無造作に突き出された傘を辞した紺野だったけれども。
    「だって、また濡れるよ? ジャージと一緒に返してくれればいいから」
     ホラ、と、半ば強引に傘を持たされた。
    「ん、ありがと」
     礼をいい、ストン、と開いた傘を差す。
    「じゃあな」
     そう言って歩き出した背中を見送ることが急に切なくなってきて。
     思わず声をあげてしまった。
    「拓哉!」
    「ん?」
     足を止めた紺野が「どうした?」と振り返る。
     何やってるんだ?俺……と、思わず自分に突っ込みつつ。
    「また……な?」
    「ああ、また」
     小さく手を振った辻村に、ひらひらと手を振り返した紺野の背中が見えなくなるまで、辻村はその場所に佇んでいた。





     部屋に戻り、ベッドに潜り込んだところで、妙に冴えた頭では眠れそうにない。
     だから……というわけではないけれども。
     そこに、紺野の体温の名残を探そうとするかのように、触れ合った指先にそっと口吻けた。
     動けずにいた自分たちを諌めるかのように鳴り響いた携帯電話。
     絶妙のタイミングだった。
     あの音がなかったら、自分たちはどうしていただろう?
     どうなっていたのだろう?
     そして自分は、何を切望していたのだろう?
     あの時の自分は、紺野の眸の中に見え隠れするいくつもの感情を読み逃すまいと、懸命に眸を凝らした。必死だったのだ。
     その時、紺野の眸の中に、自分が宿すものと同じ炎を見た気がしたのは、そうあればいいという願いが見せた、都合の良い幻だったのだろうか?
     もしかしたら……と、期待してしまうのは、間違っているのだろうか?
     確大樹る術はないけれども。
     だが、この日、辻村ははっきりと悟ってしまった。
     胸の中でいつしか芽生え、もはやどうしようもないほどに育ってしまった想いを押し殺すことは完全に不可能だということを。
     ――――拓哉………
     小指にはそろいで買った指輪。
     この指輪に、紺野はちゃんと気づいてくれただろうか?
     微妙にサイズの合わないジャージに身を包んだ紺野は、まっすぐ家に帰ったのだろうか?
     梅雨があければ夏がやってくる。
     太陽の光り輝く夏が。
     紺野と出会った季節も夏だった。
     あれだけ衝撃的な出会いは、人生の中でそうはないだろう。
     そういえば……と、辻村は思う。
    「ったく。来るの、一日遅いんだよ。誕生日、過ぎちゃったじゃないか……」
     7月2日。
     紺野は二十歳になった。
    「ハタチ……か」
     十代から二十代へと移行する、特別な響を持つ歳を迎えたその日を、紺野はどこで誰と過ごしていたのだろう?
     だが、どれだけ想像をめぐらせて見ても、その光景を思い描くことは出来なかった。
     かわりに、雨に濡れるのも構わず、この部屋を見上げていた紺野を思い出し、辻村の口元にやわらかな微笑が浮かぶ。
     幸せな想いを抱えたまま瞼が下がり、ほんのつかの間の眠りに落ちた。




    ++++++++++




     その日から、ふたりはまた以前のように他愛もない馬鹿話をしたり、連れ立って遊びに行ったり、と、互いの家やバイト先を行き来するようになった。
     そして、知らない間に紺野が車を買っていたことに、辻村は目を見開いて愕いた。
    「うっそ。だって借金あるって言ってなかったっけ?」
    「車のローンも立派な借金だっつーの」
     もっとも、他の類の借金もあったのだが、それは敢えて口に出さないことにした。そちらの返済は終わりが見えている。
    「乗せて乗せて! ドライブ行こうよ!」
    「だぁーーー!! うぜぇ!!」
     以前と何も変わらないようでいて、その実、距離感が近くなったようでも、探り合いながら牽制しているようでもある。
     不思議だと思う。
     紺野も自分も、本質的な部分は何も変わっていないのに。
     自分の気持ちの中に確たる想いがあることを、自覚したせいなのだろうか?
     以前は抱くことのなかった緊張感を覚える瞬間が、ふとした時に生まれるようになった。
     説明のできない焦りや苛立ちを伴ったその想いは、ジワジワと胸の奥を侵食していく。
     そういった想いのすべてを飲み込んで抱えていられるほど大人でもなく、時にその想いを持て余したようにぶつかることもあった。
     以前にはありえなかった事態に、完全に同じような関係に戻れたわけではないのだということを、思い知らされる。
     分岐点は間違いなくあの夜だ。
     あの日のことを後に二人で語り合うことはなかったけれども、あの雨の日以来、決して元には戻りえない確たる歪が、どこかに生じてしまっていたのだ。
     訪れた沈黙に惑い、煙草に手を伸ばす回数が増えていく。
     纏いつく空気が重くて逃げ出したくなるのに、それでも、離れがたくて傍らの体温を探してしまう。
     そして懸命に探るのだ。
     滑らかにまわすことの出来る話題を。
     そんなふうに生じてしまった不自然な緊張や距離感に、ふたりは必死で気付かないフリをした。
     微妙なバランスの上になりたっている今の関係を壊すことを畏れるかのように。
     真正面から向き合ってしまったら、その原因を探求しなければいけなくなる。
     万が一にもその視線の意味するところが自分と同じものでなかったら、それは相手を失うことになってしまいかねない。
     だから、その先に踏み込むことはできなかった。
     どこかで臆病になってしまうのは、相手に対する想いが真剣だからだ。
     これが男女であるならば、迷いはしなかっただろう。
     そう。
     すべてはその一点に起因するのだ。
     溜息はどこまでも深い。
     やるせないほどの恋しさと、時にこみあげる劣情を孕んだその想いは、仲の良い友だちに向けるものでは当の昔になくなっていたのだ。
     それは、渇きにも似た強烈な飢えだったのかもしれない。
     慎重に、慎重に。
     どこか滑稽なほどの必死さを伴って積み重ねられていく時間。
     けれども、積み重ねれば積み重ねるほど、歪みは大きく膨らんでいく。
     そして、想いは日々強くなる。
     もはや、手の施しようがないほどに。
     限界を超えて張りつめた糸はいつかは切れる。
     容量を超えた水は留まることはできずに溢れ出す。
     それらはすべて、自然の摂理だ。
     だから―――――――
     均衡が崩れる日が訪れるのは、当然のことだったのかもしれない。





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