•  夏の行方  
    07






     澄み渡る青空に燦々と輝きながら太陽が顔を出したその日。
     梅雨開け宣言が出され、暑い夏が訪れを告げた。
     程なくして、学校は長い夏休みの期間に突入することとなる。
     受験追い込みの有賀や小田嶋たちが予備校や補修通いに精を出す中、親にはチクチクと嫌味を言われながらも、辻村はだらだらとした日々を送っていた。
     盆も間近の、連日の猛暑が続いたその日。
     30℃を越す気温の中、辻村は汗を流しながら机に向かっていた。
    「あっちぃーー!」
     うちわで扇ぐ風も生ぬるく、そのぬるさが不快感を撒き散らしている。
     乱雑に広げた課題をやろうにも、汗ばんだ腕に紙がぺったりとくっついて具合が悪く、字を書くどころではない。
     つまりは、こんな日に宿題なんかやろうとした自分が間違っていたのだ、と、課題に手をつけることを放棄した辻村は、床の上に大の字にひっくりかえって窓から空を眺めていた。
     静寂の訪れた室内。
     開け放した窓から空を見上げれば、白い雲がゆったりと流れるように視界を過ぎっていく。
     ゆっくりと、ゆっくりと、空の情景は移り変わる。
     雲が動く。
     空が動く。
     そうして、実感するのだ。
     地球がまわっていることを。
    「すげぇ……」
     こんなふうに見上げてみなければ気づくことのなかった光景。
     あたりまえのことをいまさらのように実感し、暑さも忘れて感嘆の声をこぼしたそのとき。
     勝手に部屋まであがってきたらしい紺野の声が上からふってきた。
    「何やってんの?」
     首だけを起こして声のしたほうを見やれば、ジーンズにタンクトップ姿の紺野が見下ろしている。
    「死んでるの。暑くて」
    「ふーん」
     机の上に放りっぱなしだった課題のテキストをパラパラと捲って、その白紙具合に紺野が呆れたように口を開いた。
    「何だよ、これ? ちっともやってないじゃん」
    「半分手伝ってよ」
    「ばーか。なんで卒業してまでこんなのやんなきゃなんないんだよ」
    「ケーチ」
    「ケチで結構。世間ってのは世知辛いの。自助努力。ま、他人はアテにすんなってことだよ」
    「…………」
     嘯く紺野を、胡散臭そうに辻村が見やる。
     この男が夏休み中に自力で課題を終わらせたことがあるかと問えば、答えは絶対にノーに違いない。自分を棚に上げるとは、まさにこのことだ。
    「それにしても、あっちぃな、この部屋。コレって何の修行? エアコン入れろよ」
     ききすぎるほどに空調のきいた車の中から急に極暑の中に出てきた紺野は、滝のように流れる汗に眉を顰める。
    「この近隣、電線の工事だかなんだかで四時間近く停電だってさ」
    「は? 馬鹿じゃねぇの? 夏のクソ熱いときに何考えてるんだよ」
    「俺だって聞きてぇよ。超迷惑」
     ばったりと床の上に転がったまま、辻村がうんざりしたように吐き捨てた。
    「その四時間が我慢できないって、お袋は自分ばっかり近所のおばちゃんたちとどっかに避難したみたいでさ。俺が起きたらもういねぇの。ズルくね?」
     おきざりにされたと、辻村が不満そうに唇を尖らせる。
    「けど拓哉が来るんなら電話しとけばよかった」
     何で? と眸で問う紺野に手を伸ばして答える。
    「アイス買ってきて」
    「甘えんなよ、ばーか」
     その手を叩き落とされて唇を尖らせた。
    「いいじゃん、ケチ」
    「だからケチで結構っつってるだろーが」
    「男のケチってみっともないよ?」
    「だったらオンナのケチはいいのかよ? だいたい余計なお世話だっつーの」
     懇願虚しく、切って捨てられた辻村はチェッと、小さく舌を打った。
    「マジ、暑くてやってらんね」
    「だったらおまえも涼しいトコ行けばいいのに。何そんなクソ暑い効率悪そうな日に限ってわざわざ宿題なんか開いてるんだよ?」
     頭のぼせておかしくなったんじゃねぇの? と言って笑う紺野に、うるせーっつーの、と、足で攻撃をしかけていく。
     蹴り出された辻村の足を笑いながらよけた瞬間、転がっていた円形の何かを踵で踏み、ぐらり、と、紺野の身体が揺れた。
    「危ねッ」
     踏みとどまろうとした足先が散らかされた教科書の上ですべり、バランスを崩して床に落ちる。とっさに辻村の身体を押しつぶすことを避けるようにして両手を付き、自分の体重を支えた。
     付いた両手の間に挟まれるような形で紺野を見上げた辻村が、呆れたような声をあげる。
    「何やってるんだよ?」
    「おまえが悪いんだろうが……」
     膝で辻村の腿を蹴り、紺野はぼやく。
    「俺のせい?」
    「そう、おまえのせい」
    「……………」
    「……………」
     普段なら絶対にありえない態勢で視線を合わせたふたりは、敢えて口にはしなかった日のことを唐突に思い出していた。
     それは、互いが互いの記憶を揺さぶりあうような、そんな奇妙な共鳴だった。
     蘇る既知感。
     知っている。
     この沈黙の重さも。
     脈打つ鼓動の熱さも。
     ズキズキと疼くこめかみも。
     突き詰めるな、と、警鐘が鳴る。
     まるで、早鐘のように。
     何もかもが同じだ。
     そう、あの雨の日と。
     絡まる視線。
     はずせない。
     カラカラに渇いた喉。
     呼吸の仕方を忘れてしまったかのような息苦しさを感じながら、喘ぐように肩が上下する。
     狂ったような暑さが感覚を麻痺させる。
     いや、これは暑さなんかのせいじゃない。
     ポタリ、と。
     紺野の首筋から流る汗が、辻村の鎖骨の窪みに滴り落ちた。
     まるでそれが合図であるかのように。
     紺野の唇が下りてくる。
     一瞬見開かれた辻村の眸がゆっくりと閉じられたその瞬間、自らの小指にはまったリングが、紺野の視界で鈍く光った。
     秘密。
     守りたい秘密。
    「悪い……」
     弾かれるように躯を起こそうとした紺野の腕を、辻村が咄嗟に掴んだ。
     考えるより先に身体が動いていた。
     触れた部分が燃えるように熱い。
     発火寸前のような体温が、どちらのものなのか。
     いや、もはや、そんな境目を探す必要はどこにもないのだ。
     混ざり合ってしまえばいい、と、本能が叫んでいる。
     自分たちは、こんなにも欲しがっている。
    「いいよ」
     自分でも驚くほどかすれた声が零れ出た。
    「大樹?」
    「拓哉の思った通りのこと、していいよ」
    「―――――!!」
     見開かれた紺野の眸をまっすぐに見つめ、暫し押し黙った後、辻村は自嘲気味な笑みを浮かべて言った。
    「……ごめん。こんな言い方ずるいよね」
     そう。
     紺野に選択を委ねるような言い方はずるい。
     決めるのは、自分自身だ。
     辻村が上体を起こした瞬間、二人の距離感はぐっと縮まった。
     鼻先が触れ合いそうな距離で眸をあわせる。
    「大樹……」
     困惑を隠せない紺野の唇に、辻村は指先でそっと触れた。
    「ねぇ、拓哉」
    「な、何?」
    「キスしていい?」
     次の瞬間、返事を待たずに辻村は紺野の唇を掠め取る。
     遠慮がちに触れるキス。
     少しの間逡巡して、意を決したように潜り込んできた舌先が、滑る内部の熱さに愕いたように離れていく。
     もう一度。
     決して迷いがないわけではないことを示すように、唇の震えが伝わってくる。
     その瞬間、紺野の中で何かが弾けた。
     口吻けを繰り返そうとした辻村の肩を指が食い込むような力で掴み、猛々しさすら含んだ眸をまっすぐに向ける。
     コクリ、と、辻村の咽が鳴る。
    「おまえ、何やってるか、わかってる?」
    「……うん」
    「こんなキスだけじゃすまないって、本当にわかってる?」
     そう。
     感情はもはや、そんなところで留まりはしない。
     こんなにも求めている。
     狂おしいほどに。
     唇を開き、搾り出すように言葉を紡ぐ。
    「……わかってるよ」
    「ホントに?」
     念を押すように問われ、辻村は黙って首を縦に振る。
    「でも、俺のわかってるは想像でしかない。だから………」
    「だから?」
     紺野の声も掠れている。
     震えるほどの緊張が部屋を支配する。
    「教えて。拓哉。キスの先に何があるか」
    「大樹……」
     必死さすら伝わるような声音に紺野の背に震えが走る。
     そして辻村は―――――微笑んだのだ。ゆっくりと花開くように。
     自分で決めた。
     自分で選んだ。
     どうなっても誰のせいにもしない。
    「大好きだよ」
    「馬鹿……」
     たまらず、薄い肩を抱き寄せた紺野はその首筋に顔を埋めた。
     首筋にキスをして、耳朶を噛んで。そして唇を啄ばんで、舌を絡め合わせる。
     先ほどの比ではない深い口吻けを与えられ、辻村の息が甘く乱れた。
     濡れきった唇を離せば、なおも銀糸が二人の唇を繋いでいる。
     それも一瞬で消え、陶酔したような表情でうっとりと見上げて来る辻村の髪をかきあげてやりながら、紺野は表情を改めて辻村と向き合った。
    「準備とかしてないから今日はキスまでな」
    「え?」
     不安そうに揺れる辻村の額に口づけて、紺野はやさしく微笑みかける。
    「大丈夫。そんだけ大事にしたいってことだよ」
    「拓哉……」
    「俺、好きだから。大樹のこと、すっげぇ好きだから」
    「……うん」
    「だから、今日は我慢するけど、次はちゃんとエッチさせて?」
     不覚にも涙が出そうになって、それをごまかそうとするかのように視線を反らした辻村を、紺野が腕の中に抱きしめる。
    「好きだよ、大樹……」
    「ん。俺も。すき。大好き……」
     いつしか、電気工事は終わっていたけれども。
     エアコンを停止したままの真夏の暑さの中、汗だくになりながらも、ふたりは互いを愛おしむように抱き合っていた。
     そう、まるで、瞬く星のカケラをその腕にかきあつめるように。
     この幸せが、いつまでも続くものだと信じて疑わなかった夏。
     世界は、果てしなく輝いていた。








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