あの雪の日以来、胸に小さな熾火のような想いを抱えたまま、再び桜の季節を迎え、辻村は三年に進学した。
高校生活最後の春。
本格的な受験を意識しはじめた級友たちの間には、どこかピリッとした雰囲気が早くも漂い始めている。一方で、辻村のように受験を希望していない生徒達は比較的のんびりとした日々を送っていた。
いや、辻村に限って言えば、のんびりという心境とは程遠かった。
少し前から、紺野と会う機会が極端に減てしまっていたのだ。
家を訪ねても留守がちで、電話もメールも、留守電になってしまったり返事が返ってこないことが何度もあった。当然、山下たちのように紺野を介して知り合った年上の友人たちとも会う機会が途絶えていった。
それと同時期に、紺野にまつわる噂話がまことしやかに囁かれるようになった。
たとえば、借金があるとか。女を孕ませたとか。人を傷つけて警察沙汰になったとか、やくざに因縁つけられているとか。
そこにどんな悪意が働いていたのかは定かではないけれども、どれもこれも、彼を中傷するような内容ばかりで、時に耳を覆いたくなるような内容のものもあった。
自分の懐に入れた人間に対しては寛容で人当たりの良い紺野だが、そうではない人間に対してはわりに当たりがキツイ面がある。同じように感情表現がストレートでも誰とでもソツなく立ち回る辻村とは真逆で好き嫌いが露骨に態度に出る紺野は、味方と同時に敵も作りやすいタイプだった。
辻村が紺野と懇意にしていることを知っている者たちが、わざわざ耳に入るように噂話をささやいていったりもする。
だが、すべて他人の口を介したもので、実際に紺野の口から何かをきいたわけでも、この目で見たものでもない。噂話の類を真に受けて動じたりするような愚を冒すことはなく、いちいち取り合うこともせずに辻村はただ聞き流していた。
そうやって表面的には冷静さを装ってはいたものの、胸中は穏やかならざる想いが渦巻いていた。
紺野は今、何か揉め事の渦中にいるのだろうか?
だから自分を遠ざけているのだろうか?
だったら何か力になれることはないのだろうか?
苛立ち、というよりも焦りが募る。
紺野と直接会って話がしたかった。
そのことを問い詰めたかったわけではなく、ただ、今の彼の様子が知りたくて、心配でたまらなかった。
自宅を訪ねても紺野は捕まらず、逆に彼の母親にすまなそうな顔をされるようなことが続けば足を向け辛くなる。山下や安積の携帯の番号を聞いておかなかったことが、こうなると悔やまれる。
―――――おまえ、一体やってるんだよ?
受験を希望していない辻村でも、高校三年という立場上、進路相談や就職の説明会など、何かと忙しない日々を余儀なくされていた。相変わらず「これ」と言ったものがみつけられず、いっそ専門学校の方に進もうかとさえ思いもしたが、結局目的も定まらないままどこに行ったところで無駄かもしれないと思い直す。
進路のはっきりしない辻村に、次第に教師や親からの風当たりがきつくなる。
気にかけながらも、さすがに紺野のことだけを思って過ごすわけにはいかなくなってしまっていた。
そして、どんよりとした梅雨空がつづくようになった頃………
朝から雨の降り続いていたその日。
深夜をまわり、日付の変わったその時間にカーテンをめくって窓の外をのぞいたことに大きな理由はなかった。
ただ、なんとなく。
強いて言えばそれが理由だ。
どうしても寝付けなくてベッドを抜け出し、止まない雨の音にうんざりしながら目を向けた夜の中に、傘もささずに佇んでいる人影を見つけて、辻村は驚いて息を呑んだ。
外灯でぼんやりと照らされたシルエットだけでも十分だった。見間違えるはずがない。
何をしているのか?とか。
どうしてそこにいるのか?とか。
考える前に、いまそこにいる紺野を捕まえなければという思いに突き動かされて、窓を開け放った辻村は、トーンを落とした声で彼の名を叫んだ。
「拓哉!」
窓辺に立つ辻村の姿に気づき、今まさに逃げ出そうとしていた紺野は、その声に縫いとめられたかのように足を止めた。
「逃げんなよ」
小さく呟いた辻村は咄嗟に掴んだ携帯電話を鳴らす。
雨音に重なって聞こえるコール音。
観念したように、紺野は通話ボタンを押した。
「大樹……」
苦しそうに呟かれた声に、こちらの胸も苦しくなる。
「おまえ、そこで何やってるんだよ?」
「悪い」
その言葉と、ずぶ濡れの紺野のいままで見たこともないような頼りなさげな様子に、辻村は険しい表情を浮かべた。
そんなふうに謝られる理由もなければ、そんな態度で向き合わなければならない覚えもない。
「何言ってンだよ?」
きつい口調になってしまったのは、動揺を隠しきれなかったせいだ。だが、目を伏せた紺野は違う意味でとらえてしまったようだ。
「ごめん。何で俺、ここに来たんだろうな?おまえ、明日も学校あるのに。帰…」
「待ってろよ、拓哉! 絶対そこ動くな!」
最後まで言い切る前に紺野の言葉を遮った辻村は、起き抜けの恰好のまま部屋を飛び出して、雨の中の紺野の元に駆け寄った。
「ばか、おまえも濡れる」
「そう思うなら、とりあえずウチ入れ」
ここまで来て帰るなんて言わせないと、必死に紺野を見やる。
「…………」
「手ぇ、焼かせるな!」
黙ったまま動こうとしない紺野の濡れた腕をひっぱって玄関に引きずりこんだ辻村は、触れた腕の冷たさに表情を曇らせながらも、とりあえず家族を起こしてしまってはまずいと、そのまま自室まで追い立てた。
タオルを探しながら問いかける。
「いつからいたんだよ?」
「わかんねぇ」
思わず出かかった溜息を飲み込んで、眸にかかる前髪をかきあげた。
「……来たんなら声かけろよな。何気ィ使ってるんだよ?」
「ん……悪い」
「だから謝るなって」
もしかして、今日に限らず、これまでにも何度かこうして家の前に佇んでいたことがあったのだろうか?
ただこうして自分の目を避けるようにしながら、この場所に立ち尽くしていたことがあったのだろうか?
なかったかもしれない。だけど、あったかもしれない。
雨に濡れ、らしくなくうなだれた紺野は、まるで捨てられた犬のようで…………
その瞬間、衝動的な激しい想いがこみ上げた。
抱きしめたい。
雨に濡れて冷えきった紺野を。
迷いの中に身を置く紺野を。
事情はまったくわからないけれども、もう大丈夫だと、言ってやりたかった。
――――こんなときに何考えてるんだ?俺……
その衝動を押し隠そうとするかのようにタオルを投げつけると、木偶のように突っ立っている紺野の頭を拭うそぶりで、わざと乱暴にかき回した。
「ちょっ……痛いって、大樹!」
「馬鹿じゃないの? こんなに濡れて」
「しょーがねーじゃん。傘なんて持ってなかったんだから」
「朝から雨降ってただろうが……」
さすがにこの時間にバスルームを使わせるわけにもいかず、とりあえず乾いた服に着替えさせた。濡れた廊下をざっくりと拭きながら台所まで行き、冷蔵庫の扉を開いて少し逡巡した後、父親の缶ビールを失敬することにした。
とりあえずアルコールを入れた方が話しやすいだろう、と、思ったから。
ベッドの脇にぼんやりと坐っていた紺野に缶ビールを突き出して握らせた辻村は、隣に並んで腰を下ろした。
「飲めよ」
「ん」
チラリと時計に視線を走らせた紺野に、先にビールに口をつけた辻村が先回りするように釘を刺す。
「明日学校とか、遅くにゴメンとか、そーゆーこと言ったら今度こそぶっ飛ばすからな」
「何だよ、ソレ」
学校なんかよりも、いま、この瞬間の方が辻村にとっては大事だった。
困ったような表情を浮かべた今夜の紺野は、本当にらしくない。
いや、らしくないのではなく、今まで自分には見せなかった部分があったという、ただそれだけのことなのかもしれない。
自分と距離を置こうとした紺野が、今夜、こうして訪ねてきた。
そのことに、どんな意味があるというのだろう?
「だってさ。おまえは俺のところに来たんだから。なんかあったから来たんだろ?だから俺、ちゃんと話聞くから」
真摯な眸をまっすぐに向けられて、紺野の口元に小さな微笑が浮かんだ。
イロイロと噂は聞いているだろうに――――と、思う。
辻村が以前と変わらない眸を向けてくれたことが、嬉しかった。
好き勝手に自分本位で生きてきたという自覚はある。
好き嫌いが激しくて、それを隠したり、抑えたりすることが出来なくて。
いや、するつもりなどなかったんだと思う。
好きなヤツは好き。
嫌いなヤツは嫌い。
我慢してまで誰とでもあたりさわりなく付き合う気などなかったから、それでいいと思っていた。ありのままの自分を理解して受け止めてくれるヤツらと付き合っていけば、それでいいと。
そうやって築いた世界は、とても小さくて、狭いものなのかもしれないけれども、紺野はそれでかまわなかった。
そこが、居心地がよくて楽に生きていける世界である限り、その中で自由気ままにふるまっていればいいと。その中にさえいれば、自分は気を張らずに楽に呼吸をすることができると。そう、思っていた。
けれども…………
いつしか胸の中に芽生えた想いに、こんなにも心乱されることになるとは、思ってもいなかった。
どうすることもできない想いを持て余し、どうにかして紛らわそうとして荒んだ生活のツケは、思いがけない形で跳ね返ってくることとなった。
だが、その何もかもが自分で招いた結果だ。
誰のせいにすることもできない。
そんな自覚を持っていた紺野は、一人歩きしている噂に対しても一切の弁解をすることなく、甘んじて受けていた。
所詮は、他人の戯言だ。
自分を傷つけるものではない。
だけど―――――
怖かった。
そんな戯言が辻村の耳に入って、彼の自分を見る眸が変わってしまうことが。
いっそ、そうやって愛想をつかされてしまえば楽になれるのだろうか? と、思いもしたけれども。
そんなふうに思い切ることは、どうしたって出来なかった。
本当に失ってしまうことが怖かったのだ。
他人の意向などカケラも気にせず生きてきた紺野にとって、それは、信じ難い思いだった。
たった一人の存在が、こうまで自分の心を揺り動かす。強烈な渇えに狂わせる。
自分がいかにその存在を欲しているのか、嫌というほど思い知らされた。
だけど、それはどう転んでも、報われることのない想いであることも、紺野は知っていた。
自分は男で、そして、辻村も男で………
いつか、傷つけてしまいそうだと思ったから、距離を置こうと思った。だけど、そんな自分の判断を、紺野はすぐに悔やんだ。会わない時間が長引けば長引くほど、辻村の存在が胸の中で大きく膨らんでいくのだ。
たまらず、辻村の元に足を運んだのは、今日が初めてではない。
けれども、どうしても最後の一歩を踏み出すことができなかった。
今日だって、辻村が自分を見つけてくれなければ、踵を返していただろう。
雨音だけが聞こえる部屋で、しばらく言葉を発することのないまま、二人はビールを煽り続けた。
渡された缶ビールのほとんどを胃に流しこんだとき………紺野がようやく口を開いた。
「大樹さ、俺のこと、何か聞いてる?」
「……うん。聞いてるよ」
何を、とか。誰から、とか。
そんなことには今は何の意味もないような気がして、それっきり、何も語らずに紺野の言葉を待つ。
多分、紺野もそのことをどうこう言いにきたわけではないのだ、ということを、辻村は察していた。
「…………」
言葉を捜すように、紺野は何度も唇を湿らせる。
雨に打たれている間、何度も何度も考えた。
もしも、辻村に会ったら、どんな話をしようかと。
何を彼に伝えようかと。
だが、結局、どんな言葉を吐き出したところで、嘘っぽく言い訳めいた感じでむなしく響きそうな気がして、紺野はめぐらせていた言葉を飲み込んだ。
代わりに一言。
「ありがとな」
「?」
意味がわからない、と言いたげに首を傾げた辻村に微笑みかけた。
「今日、俺に気づいてくれて嬉しかった。こうやって部屋にあげてくれて………嬉しかった」
「拓哉」
まさかそんな言葉を返されるとは思っていなかった辻村は、揺らぐ心を押し隠すことが出来ずに言葉に詰まる。
「実はちょっと、イロイロあって……ってか、やらかして。参ってた。俺らしくないね」
「…………」
「馬鹿やって迷惑かけたりかけられたりはまぁ、関わった人間みんなお互い様って感じなんだけど。でも、それで俺のこと、いろんなヤツラがいろんなこと言っててさ。俺的には誰に何言われても、全然かまわなかったんだけど。いままでずっとそーやって生きてきたしさ」
でも……と、言葉を切った紺野が唇を噛み締める。
「おまえがソレ知ったとき、どう思うかなーってゆーのがさ、なんか考えれば考えるほどすっげぇ怖くてさ。一回そう思っちゃったら何かダメで――――どんどんおまえに会い辛くなってった」
「…………」
「どんなに仲いいヤツだって、ほんのちょっとしたことで相手見限って離れてくのって実はすっげぇ簡単じゃん? 俺……」
「俺は違う―――」
たまらず、叫んでいた。
「大樹……」
紺野の話を聞きながら、知らず、握っていた拳が震えている。
一緒にされたくないと。
そう思った。
そんなふうに簡単に紺野から離れて傷つけていった人間たちと、一緒にされたくはないと。
自分の想いはそんなものではない。
だけど、どう伝えればいい?
言葉を捜すように唇を動かした辻村に、「聞いて?」と紺野は話をつづける。
「借金あるのはホント。オンナ孕ませたのはウソ。ダチ殴って怪我させたのはホント。ヤクザと付き合いがあるってのはウソ。あとは……」
自嘲気味に指を折って数えるしぐさが痛々しくて。
辻村はそっとその手を包む。
「…………?」
「もういいよ、拓哉」
「……大樹?」
「大丈夫だから。俺、何聞いても拓哉のこと、キライにならないから」
俯いた辻村の表情は長い前髪が覆い隠してしまって読めない。
ただ、その言葉が、あたたかく胸に染み入ってくる。
紺野の心をやすらげていく。
こんなふうに手を重ねあうのははじめてだった。
触れ合った所から、互いの体温が伝わっていく。
そして、辻村は気付く。
紺野の右手にはめられたピンキーリング。
同じものが自分の左手にも光っている。
胸が熱くなる。
絆は、まだ途切れてはいない。
自分たちは、こうしてちゃんと繋がっている。
誰が、どこで、どんなふうに何を言っていたとしても。
想いは決して変わらない。
この指輪を買ったときに思ったこと。
『いつか』の雪の日に。
こうして時間をともにして一緒に笑っていたいと、今一度、強く、願う。
「馬鹿にしないでよね? 俺、人の噂だけで自分が付き合ってきた人間の見方、変えたりなんかしないよ?」
まっすぐに紺野に眸をむけて笑いかければ、眸を見開いた紺野の表情が、ゆっくりと綻びていく。
「マジサンキュ。大樹」
そこにあるのはいつもの笑顔。
いつもの――――紺野拓哉。
肩の力が抜ける。
胸が、締め付けられる。
愛おしくてたまらない。
誰かと対峙したときに、こんなにも心が揺れるのだということを、はじめて知った。紺野が、教えてくれた。
自分の心に宿る想いがどういう類のものであるのかを、この時辻村ははっきりと自覚した。
いや、本当はもっと前からわかっていた。
紺野に対する自分の想いに。
彼を欲している自分の欲に。
この感情は……厭われるものなのだろうか?
たった一人に向けられた、この狂おしいほどの想いは、本当に禁忌と呼ばれるべきものなのだろうか?
好きだ……と、心から思う。
この男が好きだと。
重ね合わせた手を外すことができないまま、ふたりは、降り止まない雨の音を聞いていた。
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