佇む聖母の台座に彫られた凝った意匠のレリーフ。
その側面に、同じ素材で作られた5センチにも満たない弓形の断片をはめ込んだ亮は、 右に三回、左に五回、最後にもう一度右に二回と、摘んだ突起部分を慎重に廻し、カチリ、とした手ごたえを感じた後、台座の側面部を静かにスライドさせた。
聖母の足元にぽっかりとあいた虚。
「古典的な隠し場所だな」
ボソリと口にした恭一を振り返った亮は、何か文句あるか? と、彼にしては珍しくむくれたような表情で唇を尖らせた。
「いや……」
「言っておくが、この仕掛けを作るのは半端じゃなく大変だったんだからな」
「おまえが作ったのか?」
「馬鹿か? おまえ。誰に頼めるんだよ、こんなこと」
そりゃそうだ、と、納得した恭一は、開かれた台座の中をのぞきこんで、感心したように呟いた。
「おまえらしい選択だな」
この静粛なる神の家にはあまりにも不似合いな品々。
それは、三丁の銃と弾薬、そして何ケースかに分けて収められた爆弾だった。
最も使いやすく実用的なものが、必要な数だけ集められている。
無駄もなければ、不足もない。
いや、強いて言うならば、余分な銃が一丁…………だ。
無言で隠し棚の中の銃に手を伸ばす者は、今この場所に立つ二人のみ。
三人目の使い手はここにはいない。
そう。
三丁目のその銃は、この聖母の足元でひっそりと沈黙を守りつづけることだろう。
亮の願い通りに。
「……………」
手入れの行き届いた銃の重みを確かめるように検分していた恭一は、弾薬のケースを引き出す亮の端正な横顔を見やった瞬間、ふいに、己自身にもわからない衝動に駆られ、あまりにもいまさらな問いを投げかけた。
「亮」
「何だ?」
「本当にいいんだな? ―――待たなくても」
答えなど聞かなくともわかっていることを、ここにきて確認せずにはいられなかったのは、亮に対する配慮と言うよりも、圭に対する謝意であったのかもしれない。そんな恭一に、亮は迷いのない眸で頷いた。
「もう、起爆スイッチは押してあるんだぜ?」
火のついた導火線を前にして求められるのは迅速な行動のみ。
更なる犠牲を出さないためには、一刻の猶予もならない。
今度こそ、奴等を叩く。叩き潰す。
過去を清算し、あらゆる憂慮を断ち切るために。
すべてを終わりにするために。
そして、子供たちの未来のために。
「滅茶苦茶文句言うな、アイツ」
「多分な」
「俺たち、思いっきり恨まれるぞ」
この裏切りに気付いた時の圭の姿が鮮烈に目に浮かぶ。
言葉とは裏腹な穏やかな声音の恭一に、亮は小さく笑った。
「大丈夫さ」
圭ならば。
たとえ、この先なにがあろうとも――――乗り越えられる。
悲しみも、苦しみも。
悔しさも、怒りも。
彼ならば、眼前につきつけられたどんな現実からも決して目を逸らすことなく受け止め、その時抱いた思いを歪めることなく抱えたまま、まっすぐに歩いていくだろう。
亮と恭一の望んだように。
今日のこの日は、三年前のあの日から決められていた未来なのだ。
この日が想定されていたからこそ、二人は圭をどうしても町の外に出したかった。
手を汚す者。
町に残る者。
町を出る者。
壊滅や共倒れを避け、確実に事を成す為に描かれたシナリオには、各人に振り分けられ、遂行しなければならない役割があった。たとえ無謀といわれる戦いでも、負けを覚悟で始めるつもりなど、あるはずがなかった。その役割を決める前に秘密裏に取り交わされた、亮と恭一との間での密約。
それぞれが担う役割を決めるために引いたクジに巧妙な細工がされていたことを、圭には気付かせなかった。今でも彼は、あのクジは公平に引かれたものだと信じて疑ってはいないだろう。
彼こそが、亮がなんとしても守りたかった希望の光なのだ。
そして、圭を町の外へ出すことと引き換えに、恭一は亮に町に残る役割を担うことを強いたのだった。
俺が行く、と、あまりにも簡単に言い放った恭一に、亮は激しい剣幕で噛み付いた。
事の発端は全て、己自身の無謀とも言える決意から始まっている。その決意を気取られることでふたりを巻込んでしまった、という思いがどこかで拭えずにいる亮は、恭一の言葉に素直に頷くことなどできはしなかった。
『奴等の元へは俺が行く。何も、おまえが手を汚す必要はないだろう!?』
相手は、これまで競り合ってきた相手とは格が違う。伴う危険は途方もなく大きかった。
だが、恭一は頑として譲らない。
『その台詞、そっくりそのまま返してやるぜ? 亮。誰がやったところで同じなんだよ、これは』
恭一も、そして圭も、巻き込まれたという自覚は皆無だ。
ファルコーニに対して激しい憤りを感じていたのは、何も亮だけではない。
思いは皆、同じだ。
あと一歩を踏み出すきっかけをつかめなかっただけに過ぎない。
逆に言えば、それだけの裁量を持っていたのが亮ただ一人だったということだ。
もしも、何も気づかぬまま、たったひとり、亮を戦いの場へ赴かせることとなっていたとしたら、彼らは一生己を責めつづけただろう。
そして、気づいてしまったからには、どうしても譲ることのできない想いがある。
だから。
『だったら―――』
と、なおも言い募る亮の言葉を遮り、恭一は否を唱えることを許さない強い口調で言い放った。
『おまえの望みを一つ、かなえてやるんだ。かわりに俺の願いを一つきいてくれたっていいんじゃないのか? 結構ささやかなモンだと思うぜ』
『そんな言い方は卑怯だ! 俺の望みはおまえの望みでもあるのに!!』
瞬間、恭一の眸に激しい炎が宿る。
『ああ、そうだよ。だがそれも、おまえが在ってこその望みだ。でなきゃ俺には、何の意味もねぇんだよ!』
『………………』
叩きつけられた言葉の強さと、眸の鋭さと。
思いもよらなかった激しい波をぶつけられ、瞬間、亮は言葉を見失った。
まっすぐに絡みついてくる男の視線が――――重くて、痛くて、けれども、どこかで嬉しくて。
『…………………』
『…………………』
無言で睨み合った後、俯くように眸を逸らしたのは亮の方だった。
岩よりも強靭なこの男の意志を砕くことは不可能だと、悟ってしまったから。
そして、完全に分が悪いことに、亮にとっての最上の願いは、この男の安泰ではないのだ。
何を犠牲にしても成し遂げなければならないことがある。
だが、この男を失っては生きていくことのできない自分をもまた、亮は誰よりも自覚していた。あまりにも身勝手なこの思いごと、あるがままの自分を愛してくれるこの男を。
だから…………
色をなくすほどに噛み締めた唇を薄く開き、わかったよ、と、深い吐息を零した亮は、鋭い眸で恭一を振り仰いだ。
『俺を殺したくなければ……無事に帰って来い。いいな? 約束なんて生易しいモンじゃないからな。これは必ず履行しなければならない誓約だ』
許さない、と。
亮の手の届かないところで一人、離脱することは許さないと、燃えるような眸で訴えかけている。
『わかってる』
頑なな亮の物言いと必死の形相に、逆にふっと和らいだ恭一の眸。
短い言葉に込められた想いの深さが染み入るように伝わってくる。
この男の体温のように、あたたかで、穏やかなその想いが。
―――――恭一……
頬に添えられた腕に縋りついてしまいそうな己を律することが精一杯で―――――
亮はその場を動くことが出来なかった。
そう。
逞しい男の腕に抱きこまれるその瞬間まで。
かくして。
最初の幕は開かれたのだった。
周到な準備がなされた後に実行に移された、綿密な計画。
その延長上に今がある。
手にした銃を肩から吊り、弾薬と爆弾を身につけた恭一は、纏った聖職服を脱ぎ捨てようとしている亮に気づいて、彼のその行為を制した。
「何だ?」
「おまえはそのままでいい」
「?」
「いいんだ」
独りで納得したような恭一の言葉に訝しげに眉を寄せる亮に、彼は穏やかに微笑みかけた。
「知ってるか? ガキどもはおまえが大好きなんだとよ」
言葉少なくとも、恭一の眸が語っている。
おまえのしてきたことは微塵も間違ってはいない、と。
おまえの想いは子供たちに届いている、と。
だから、と恭一は言葉を続ける。
「堕ちた英雄になるのは俺ひとりで十分だ」
「………!」
瞬間、恭一の言わんとしていることを理解した亮は、身体を強張らせた。
「いまのおまえはかつての『レックス』の江崎亮じゃない。子供たちの大好きな神父様なんだよ」
だからこそ、圭の知り得なかった四番目の役割を担うのは己自身だと、恭一は告げている。
「ワルモノは一人の方が、より効果があがるさ」
あまりにも的を射たその言に、亮には反駁する言葉もない。
その通りだと、知っているから。
対象が分散されるよりも、ただ一点に向けられた失意と憎しみのほうが、より重く心にのしかかってくる。絶望的なまでの怒りと憎しみは、曖昧に流されることのないまま灼熱の刺となり、激烈な傷みを伴って子供たちの心を焼くだろう。
だが、そのための代償行為が恭一に課すものは――――
「…………悪いな」
コツン、と恭一の肩に額を預けた亮は、わかっているから、と、吐息のような言葉を零した。
わかっている。
誰がなんと言おうと。
後にどれほどの憎悪と侮蔑の言葉を投げかけられたとしても。
唾を吐きかけられ、汚辱に塗れた呼称を与えられたとしても。
わかっている。
稀代の英雄がここにいる。
誰よりも潔く、誰よりも深い優しさと強さを併せ持った英雄が。
どこか誇らしげな想いすら抱きながら、亮はまるで、睦言でも囁くような甘やかな声音で恭一に囁きかけた。
「追いかけてくるんだろう?必ず……」
「ああ、もちろんだ」
一人にはしないと、躯を重ねるごとに誓い合った。
まるで、静粛な儀式でもあるかのように。
何度も。
何度も。
「俺はもう、待たないからな。なりふり構わず追いかけて来いよ」
待つのはこの三年だけで十分だと、亮は告げている。
一人で決着をつけに行こうとした恭一を捕らえたあの瞬間から、ふたりの間に流れる時はぴったりと重なって進み始めたのだ。離れることなどあり得ない。永遠に。
「すぐに捕まえてみせるさ。待たせはしない」
「信じてるぜ?」
「疑ってないくせに」
「まぁな……」
クスクスと笑う亮の貌に浮かんだ至福を見たとき、恭一は己自身もまた、同じ想いを宿した己の貌を知る。
引き合い、引かれ合うように互いの腕の中に愛しい者の姿をかき抱き、深い……とても深い口吻けを交し合う。
全身で交わっているような、濃密な口吻けを。
やがて、膨らんで赤く色づいた唇を愛おしげに拭う恭一の指先を甘く噛んだ亮は、気負うところなく口にした。
「行こうか」
「ああ」
戦うための武器を亮が聖職服の上から吊るし終えるのを待つ僅かな間に、恭一は、ポケットに忍ばせた手に刃先の鋭いナイフの柄を、確かめるように握りこむ。
交錯する視線。
頷きあう。
そして―――――――
二人は神の家を後にした。
最後の幕を下ろすために。
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