•  愚者の楽園  
    07 






     人の目も太陽の光も届かない奥まったビルの地下室で、久志と圭は古びたテーブルの上に置かれたファイルを前に、言葉もないまま立ち尽くしていた。その事実が存在する可能性が疑われたからこそ、はじめた調査だ。けれども、いざそれがまぎれもない現実として突きつけられた瞬間、事の重大さがとてつもなく重くのしかかってくる。
     ここにきて何本目になるかわからない煙草をアルミの灰皿に押し付けながら、久志は掠れた声を絞り出した。
    「間違いないんだな」
     ひび割れた声に無言で頷いた圭は、ファイルを久志に向けて滑らせるように押し出した。
    「ピントは完全にはあってないけど、顔の判別はつくはずだ」
    「厄介なことになったな……」
    「けど、俺たちが知りたいと望んでいたことだ」
    「そうだな」
     暴かれた醜聞。
     州警察の最高幹部と、犯罪組織「ファルコーニ」のトップとの癒着。
     何かを手渡す者と、手渡される者。
     その写真には、そんな状況下で同じ場所に立ち並ぶべきではない二人が写っている。
     金と情報のキャッチボール。
     警察組織に身を置くキャリアとしてこの五年の間に二度、久志は大きな捕り物の際に辛酸を舐めさせられた。とてつもない時間と労力を費やした調査に基づいて得た情報から取引場所を割り出し、そして踏み込んだ現場で味あわされた失意と落胆。悔しさと怒り。
     一度目は己の詰めの甘さと読み違いを責め、そして悔いたけれども………
     二度も続けば、それ以外の要因が脳裏を過る。
     合致しすぎるパズルのピース。
     億単位の巨額の金が動いたと想定される取引現場。
     追っていた組織は、いずれもファルコーニ。
     小物は掠めても、網の目をかいくぐったのは、名の知れた幹部ばかりだ。
     その幹部達が包囲の手をかわしたタイミングがそもそも問題だった。
     こうまでも重ねて絶妙のタイミングで捜査の手をすり抜けられれば、一つの疑念が浮かび上がる。
    「誰かが直前に情報を流したんだとすれば……?」
     捜査に携わったチームの中でも、特に親しい仲間とのやりきれない悔しさを抱えての飲みの席でポツリと漏らされた言葉。「まさか……」と否定しつつも、瞬間、居合わせた五人全員の胸を黒い靄が覆った。
     沈黙の間に一点の染みのように湧き出した疑念が急速に広まっていく。
     警察内部からの情報の漏洩。
     簡単に払拭するにはあまりにも重過ぎるこの疑念を、酒の席での軽口として流すことはできず、淀みがちな口を開きながら仮定のもとに話が突き詰められていく。遺漏していたと思われる情報から、それを知り得る立場の人間はある程度まで絞られる。結果、組織の上層部に不審を抱くに至った彼らは、まずは、自分たちの思考が行き着いた結論に愕然とし、そして、次の瞬間、燃え立つような怒りで胸を滾らせた。
     それは、捜査の現場に関わった者のみが知る、怒りと悔しさだったかもしれない。コツコツと懸命に築き上げてきたものを、身内の手によって突き崩されたのだ。踏みにじられた膨大な時間と努力、そして熱意。
     この日、語り合った五人は、顔の見えない内通者を暴き出すために極秘裏に内部調査に踏み切ることを決意する。
     正義の旗の下に悪をのさばらせるような輩がもしも存在するのならば、必ず引きずり出してやる……と。
     だがそれは、推測の域を出た話ではない。限りなく疑わしいというだけで、100パーセントの確証があるわけでもなく、ピンポイントで該当する人物を絞り込むことが出来たわけでもない。言うならば、主観を軸にした仮説に基づく話であった。その真偽を突き止めようとしたら、長期にわたることを覚悟の上の極秘捜査が必要となる。
     対称が警察内部の人間であるが故に、できることなら監視の役目は外部の人間に託したい、というのが彼らの本音だった。こちらの動きが伝わるのを防ぐと同時に、妙な足枷を背負いこまないためだ。
     とはいえ、それは、誰にでも頼めるような職務ではなかった。
     不手際や失態、或いは不運は、命の危険にまでも及び兼ねないのだ。こちらの動向が相手に知れたその瞬間、何もかもが台無しになってしまう可能性もある。
     事を遂行するためには、想像以上の忍耐と根気、用心深さと抜け目のなさ、観察力と洞察力が必要となるだろう。そして、絶対的に欠かすことの出来ないのは、その役目を託すのが、全面的に信頼するに足る人物である……ということだ。
     難航する人選。
     どうしても調査に踏み切るのならば、己が張り付くしかないか……と、久志が思い始めたとき。
     春人の紹介で圭に出会った。
     ギャング組織に対して正当な怒りを持ち、いつか、奴等の壊滅する日が来ることを本気で願っている……いや、己の手で連中の幕をひこうと、本気で思っている圭に。
     己の直感に従って生きてきた久志は、人を見る目には自信があった。
     この男なら……と、思ったのだ。
     春人もまた、ファルコーニによってその身と心に傷を負い、大切な人を奪われるという過去を背負い、組織の壊滅を願い、主に情報の収集と分析の面で久志に全面的に協力をしていた。
     三人で腹を割って話し合い、より深く知りえた圭自身のひととなりを見込んで、久志はこの役目を彼に託したのだ。久志自身も圭に惜しみなく協力することを約束して。
     圭にとってもこの話に異存はなかった。もしも、警察とファルコーニの癒着が事実だとすれば、それは圭の成そうとしていることにとっても弊害となり得るからだ。情報が漏えいしているとすれば、ファルコーニへの警察の介入を促す際、当の警察自体がネックとなりかねない。それを潰す手助けならば、こちらの方から買って出たいくらいだ。しかも、久志はその警察組織の只中にいるのだ。圭がファルコーニの殲滅のため、動かすことを密かに目論んでいる州警察の。
     それこそが、圭が亮から担った役割であった。
     久志の欲する情報を圭が。
     圭の欲する情報を春人が。
     そして、来るべきその時の警察からの惜しみない協力と支援を久志が。
     三者できっちりと請け負ったそれぞれの役目を、圭は完璧に勤め上げた。
    「いくら立場上、簡単に突つくことが難しいヤツだからって、コイツが……」
     と、圭が写真の男を指で指す。
    「警察内部のガンだってことは間違いないんだよ。ヤツはこの時金を受け取ってる。ってことは……」
    「何らかの情報が今も警察から奴等に流れているってことか」
    「ああ」
     即座に肯定され、久志が深い溜め息をついたその時。
     扉の外に忍び寄る人の気配に、見合わせたふたりの顔に緊張が走った。
    「誰か来る」
     足音は二つ。
     招かれざる客は、往々にして厄介な相手である場合が多い。ましてや、今の自分たちの会話の内容が内容だ。ほぼ同時に懐に手を忍ばせたふたりだったが――――
    「早まるなよ。俺だ」
     囁くような春人の声に目線を交して息をついた。
    「………脅かすなよ」
     扉に歩み寄った久志がそっとドアを押し開き、外に立つ春人と香織を室内に招き入れる。
     落ち着きなく駆け込んできたふたりに漲る興奮と緊張が、ただ事ではない事態をうかがわせていた。
     事前の綿密な打ち合わせなしに彼ら四人が一同に会したことは、この調査を始めてからは一度としてなかった。それは、警察にも組織にも、こちらの動きを気取られないための配慮であった。身の安全と機密保持のためには、どれだけ慎重を尽くしても過ぎることはない。だが、それを冒してまでこの場に駆け込んできたふたりが伝えようとしている事実は、とてつもなく大きなものに違いなかった。
    「どうした?」
    「何があった?」
     問われた香織が興奮気味に息を乱しながら、しっかりと抱えたバックの中からポラロイド写真を取り出した。
    「やっと手に入れたわよ。コレ」
     春人が拾い出した情報をもとに、身元を偽ってファルコーニの幹部と接触し、秘書兼愛人として内部潜入を果たした香織が慎重に機会を伺いながら探りつづけ、そして、写し取ることに成功したデータが、そこには示されていた。
     それは、臓器売買のルートとそれに伴う諸契約事項、契約相手、取引された臓器、支払われた金額、等が克明に記されたデータだった。
     三年前、亮たちによって引っ掻き回され、混迷を極めた臓器売買のルートはこの街を起点にして立て直され、機能していた。
     その、確たる証拠がここにある。
     そのデータをじっと見つめる久志に、逸る気持ちを押さえきれない春人が問う。
    「叩けるか?」
    「充分だ。四課にまわしてすぐに手配を…」
     言いかけた久志の言葉をチラリと圭を伺いながら香織が遮った。
    「ダメよ、今じゃなきゃ。悠長なこと、言ってらんないの。この街にいたファルコーニの幹部連中は、桜井と一緒にT町に向かったわ」
    「どういうことだ?」
     T町、というあまりにも馴染のある町の名前に圭の眸に動揺が走る。その町こそが、圭の故郷だ。
     帰りたいと願い続けた町。
     逢いたいと、切望し続けた兄と仲間がいる町。
     だからこそ。次に耳に飛び込んできたのは、圭をさらに震撼させる者の名だった。
    「小包が届いたのよ。桜井宛に江崎亮から」
     桜井とは、今現在ファルコーニを統率する組織の長だ。
     その長に届いた、亮からの―――――
    「アニキから? 何なんだよ、ソレ!」
    「中身は?」
     圭と久志からの矢継早な言葉に香織は首を横に振った。
    「確認できなかった。でも、その小包が発火して……」
    「発火?爆発じゃなく?」
    「微妙なのよね。どっちともとれるような感じで。ただ、何かを壊したり、誰かを傷つけたりってのが目的ではなかったみたい。そして、その後にもう一つの小包が届いてから急になにもかもが慌しくなったの。このファイルだって、その騒ぎにまぎれて写し取れたようなものよ。誰かが殺られたって話と、それから……五億だか六億だかの金がどうのって話で幹部連中がいきり立ってた」
     香織の言葉に春人と久志が圭を振り仰ぐ。
     五億の金。その話をふったのは、おそらく江崎亮。結果、混乱をきたしたファルコーニ。
     間違いなくそれは、三年前に奴等が失った金のことに違いない。
     けれども。
    「その金、所在を知ってるのはおまえだけなんだろう?」
    「ああ、俺だけだ」
     恭一が首謀者として立ち、幹部を害して強奪した金額の総額は六億。
     巧みな誘導と撹乱によって恭一がすべてを持ち去ったかに見せたその金は、事を起こす前にレックスから絶縁される形で町の外に飛び出した圭の手に密かに渡っていた。その中から五千万ずつを、再びファルコーニと対峙する日のための入念な準備を整える資金として亮と圭が手元に置き、残りの金はすべて圭が自らの手でとある場所に封じ込めたのだ。
     事前に町の外に出て、そして、今日に至るまで亮たちとの一切の連絡を断っていたのは、今回の一件に関する圭の関わりをファルコーニに気付かせないようにするためだ。
     ファルコーニの狙いは、金の在り処を知っているとみなされている恭一に絞られる。
     だが、その恭一は、事件を引き起こした直後、亮の通報によって駆けつけた警察に逮捕されている。彼が法で守られた塀の中にいる間は奴等も手出しはできない。半ば賭けではあったが、刑務所の内部までは影響力を持ち得ないだろうというファルコーニの組織力を踏まえた上での勝算のある賭けだった。
     問題となるのはその後だ。
     奴等がそのあまりにも高額な金を諦めるわけはない。
     恭一が外に出た瞬間から、凍結された時間が動き出す。
     恭一が町に戻り、それぞれが担った準備が完全に整った段階で、事前に取り決めてあった方法で連絡を取り、そして、落ち合う約束になっていた。
     その時期にはまだ早い。
     ここまでは、亮の描いたシナリオ通りに事が進行していたはずだった。
     少なくとも、圭はそう信じていた。
     けれども……
    「奴等がその金の話をしてたってことは……おまえのアニキはその金を餌に奴等をT町におびき寄せるつもりか?」
    「何でだよ!? 何のために!?」
     知らない。何も知らない。
     自分はまだここにいる。
     ここにいるのに……
     彼らはいったい、何をしようとしているのだろう?
     たとえ、距離は隔たれてはいても、気持は常に共にあると信じていた。
     繋がっていると思っていた。
     それなのに―――――
     圭の背中を冷たいモノがゾワリと抜ける。
     嫌な予感がする。
     とてつもなく嫌な予感が。
    「春人! 悪いけど、俺……」
     駆け出した圭を、身体を張って春人が止めた。
    「待て、圭! 一人で飛び込んだってどうにもならない」
    「ンなこと、わかってるよ! けど!!」
     唐突に、足元から揺らいだ世界。
     訳を問わずにはいられない。
     黙って看過することなんてできるわけがない。
     前のめりにぐっとこめられた圭の力。
     春人の背を冷たい汗が伝う。
     ――――止めきれない!
     弾き飛ばされる寸前に、春人が叫んだ。
    「おまえ、いままでやってきたことを全部ぶち壊すつもりか!?」
    「―――――――!!」
     その言葉に縛られたかのように、圭の身体が硬直する。
     春人。久志。香織。
     三対の視線が刺さる。
     あと一歩、足を踏み出す代わりに、圭はきつく拳を握った。
     そう。
     闇雲に飛び込むことは、この上ない愚かな行為だ。誰にとっても命取りになりかねない。これまでひた隠しにしてきた圭の関わりを明るみに出すばかりではなく、亮の考えが不明確な現状では、逆に彼らの足を引っ張ることにもなり得るのだ。
     けれども………
     圭の全身に震えが走る。
     亮らしからぬ乱暴な性急さに、本能の部分で総毛立っていた。
     ここにきて、隔てられた三年が急激に重くのしかかってくる。
     ――――アニキ………
     緊迫した沈黙を破ったのは、久志の声だった。
    「少しだけでいい。時間をくれ」
    「久志……」
    「T町には俺も行く。約束だったよな? 俺たちの」

     ――――来るべきその時の警察からの惜しみない協力と支援を。

     険しい顔でコクリと頷いた圭に、久志は静かに、だが強い意志を伺わせる声で言った。
    「だから、あとほんの少しだけ待ってくれないか? これだけの証拠があれば、奴等を叩ける。裏切り者にも邪魔はさせない。必ず応援を連れて行く。この街に残った連中と、T町に向かった奴等と、出来れば同時に叩きたい」
     それが奴等の息の根を止める最も確実な方法だと、久志は言っている。
     多分、それが正しい。
     理屈ではわかる。
     よくわかる。
     けれども………
     この気持は?
     軋むこの気持はどうすればいい?
     色を失うほどに握り締められた圭の拳が震えている。
     ――――アニキ………
     祈るように目を閉じた圭の渇いた唇の隙間から零れる、ひび割れた声。
     感情だけで先走ることは許されない。
     そんな分別が働くことが、いまはひたすら厭わしかった。
    「……ああ、待つよ」
     その言葉を口にするのに、どれほどの思いを必要としただろう?
    だが、春人たちとて、圭にとっては信頼に値するかけがえのない仲間なのだ。
     だからこそ口にすることの出来た言葉。
     この言葉に春人はようやく詰めていた息を吐き出した。久志も香織も然り、だ。
     いつまで待てばいい? と言外に問う圭の肩を叩き、久志は集まった資料をすべて抱えて、外に出るように三人を促した。こうなった今、無駄に出来る時間はない。
    「このまま車で一緒に署まできてくれ。たいして待たせはしない。俺の仲間たちを信じてくれ」
     力強い久志の眸が語るのは真実だけだ。だから信じられる。
     警察は動く。
     間違いなく動く。
     圭や春人が着々と情報を探っている間に、久志もまた、事前に根回しをしていたに違いない。
     ファルコーニを瓦解させるために。
     今度こそ、息の根を止めるために。
     そのためにこの三年、彼らと連携しながら必死で駆けてきたはずだ。
     あともう少し。
     もう少しで包囲の網は完璧に整うはずだったのだ。
     それなのに………
     圭の胸の中で声にならない声が悲鳴をあげている。
     何で?何でだよ、アニキ。
     何をするにも俺たちは一緒だったはずだ。
     アニキの言葉を信じたからこそ、仲間を欺くような真似までしてT町を……アニキの傍を離れたんだぜ?
     なぁ、アニキ?
     何をはじめるつもりなんだ?
     俺を待たずに一体何を?
     見失ってしまった亮の背中。
     読めなくなってしまった亮の思考。
     広がる不安。焦燥。微かな恐れ。
     隔てられた距離がもどかしい。
     そうであるからこそ。
     今は想いを託したい。
     かつて、同じ思いを分かち合った男に。

     ――――何があっても守りきってみせる。

     その言葉を………
     信じていいよな?
     おまえが傍にいるなら大丈夫だよな?
     自分の居場所を譲った男だ。
     亮の隣、という、生まれながらにして独占してきた己の居場所を。
     頼んだぜ、恭一。
     そして………
     頼むからアニキ。
     待っていてくれ。
     あと少し。
     あと少しの間だけ、待っていてくれ。
     せめて、俺がそこに行くまでの間だけでいい。
     間に合ってくれ。頼むから…………
     無情に過ぎ行く時の中で。
     圭は、ただひたすら、祈りつづけていた。







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