•  愚者の楽園  
    03 






     祭壇の前に惜しげもなく晒された裸身には、先刻までの情事の痕跡が随所に散らされている。渇ききらずに潤んだ眸の中には妖艶な炎の燻りが残っているのが見てとれた。腕をのばし、皮膚を撫で上げたならば、彼は微塵の躊躇いもなく、濡れて柔らかく綻んだその躯を開くだろう。
     祈りを捧げるべき十字架の前で男の精を浴び、自身もまた、全身を巡る愉悦の余韻に浸るその姿はまるで――――
    「堕天………だな」
     柄にもない恭一の感傷的な呟きを揶揄するように、亮は鼻先で笑った。
    「三年間、檻の中にいて気でも狂ったのか? そんな高尚な形容は俺には似合わないさ」
     第一、願い下げだ、と、吐き捨てられた小さな呟きには、一体どれだけの重さが込められているのだろう?
    「………確かにな」
     幻想を抱くには、あまりにも過酷だった現実。
     飛び立つための翼など、端から持ち得なかった。
     生れ落ちたこの場所に、神など存在しない。
     翼もなく。天もなく。
     だから。
     もとより属してなどいない世界から堕ちることはあり得ない。
     けれども。
     何故だろう?
     その背に負った覚悟と決意が、精一杯に広げられた、いたましい翼のように思えるのは。
     自らが羽ばたくためではなく、何かを守るための、或いは、思いを貫くための翼のように思えるのは。
     亮の前で笑っていた子供たちの姿が恭一の脳裏をよぎる。
     子供たちに託された亮の切なる願い。たとえ無自覚でも、或いは無意識でも、彼らは間違いなくその想いを受け止めている。だからこそ、彼らは自らの意志でこの場所に足を運んできているのだ。
     ここは、寄る辺のない彼らが、気を張らずに息をつける、たったひとつの安息の場所なのかもしれない。
     亮のいる場所こそが、彼らにとっての楽園なのだ。
     それを壊そうとしている自分は……いや、自分たちは―――――
    「………」
     当人に伝えたならば、冷たい微笑が返ってきそうな想いを振り払うかのように、かすかな吐息を吐いた恭一は軽く頭を振った。
     やはり、どうかしている。
     これ以上おかしなことを口走ってしまう前に唇を塞いでしまおうと、恭一は手繰り寄せた服のポケットから煙草を取り出し、肉厚な唇に噛むように咥えた。
     深く吸い込んだ紫煙を一息に吐き出した恭一を横目で伺い、「俺も」と亮がねだる。
     些か驚いた。
     ひっきりなしに煙草を咥えていた圭や恭一と始終行動を共にしていたにもかかわらず、三年前の彼は決して口にすることのなかった嗜好品。
    「いつから?」と言いかけた言葉は心の中に押し留め、表情を動かさないまま、恭一は吸いかけの煙草を亮の薄い唇に咥えさせると、添えていた指をそっと離した。あたりまえのように受け取った亮は、恭一よりもよほど美味そうに紫煙を燻らせる。程なくして、黙って自分を見つめる恭一の視線に気づき、不思議そうにたずねた。
    「おまえは?」
    「それが最後の一本だ」
    「馬鹿。最初に言えよ」
     伸びた灰を無頓着に床に落とした亮は、スラリと伸びた指先に挟めた吸い口を恭一に向け、「ホラ」と目線で促す。素直に口をつけることにいまさらながら気恥ずかしさを感じた恭一が躊躇っている間に、亮は半ば強引に手のひらを近づけて、恭一の唇の隙間に半分程に減った煙草を差し込んだ。
     唇を、亮の指の腹が微かに掠め、離れていく。
     数え切れないほど躯を重ねてきたけれども。
     こんなふうな触れ方ははじめてだと、恭一は思う。
     美味いか? とでも問うかのように自分を見つめる漆黒の眸に、脳裏に呼び覚まされる―――――過去。
     徒党を組んでこの狭い町を駆け回っていたあの頃は、奪ったり、掠め取ったりしてやっとの思いで手にしたものを、仲間同士、こうして分けあって生きてきた。敵には容赦なく牙を向いても、一度仲間とみなしたものに対する思いは篤い。中でも、生まれた時から共に生きてきた亮と圭、そして、彼ら兄弟と出会い、心を通わせた恭一と。彼らが互いに寄せ合う信頼とその絆の固さは半端なものではなかった。敵だらけの弱肉強食の世界であったからこそ、安心して寄り添いあえる「仲間」の存在は何も持たない子供たちの強固な心の支えとなっていたのだ。
    「仲間とは分けあい、そうじゃない奴等とは奪いあい……か。永遠に不変の摂理だな」
     恭一の呟きに、亮は本気で訝しげに恭一を見やる。
    「どうした? おまえ。言ってることがいちいち気味悪いぞ」
    「………………」
     身も蓋もないような言葉には応えず、まったくもってその通りだと、恭一はただ苦笑する。そして、まっすぐに視線を向けてくる亮の額を軽く弾くと、緩慢に立ち上がった。
     感傷に浸っている場合ではない。
    「煙草、買ってくる」
     ジーンズにだらしなくシャツを羽織ったなりで、沈んだ太陽の名残で僅かな明るさを留めている薄闇の中へ足を踏み出す。切れたニコチンを存分に肺に送り込んでやれば、らしくもなく感傷的になっている気持ちも治まるはずだ。
     今になってこんな想いを抱くのは、やはり、子供たちと接する亮の姿を目にしてしまったからかもしれない。
     相応しいと思えて仕方がなかったのだ。
     この場所にいる彼の姿が。
     漆黒の聖衣に身を包んだ彼の姿が。
     この町で暮らすことの痛みも憎しみも苦しみも喜びも、目を逸らさずにすべて受け止め、刻印のようにその胸に刻みつけてきた彼だからこそ、子供たちを光ある未来へと導くことができるような気がしてならなかった。
     だからこそ。
     胸に刻まれた思いがあるからこそ、亮がやろうしていることを止めることもできないのだということも、恭一は知っていた。
     亮の望みは自らの願いでもあるのだから。
     自分にできることは、最後のその瞬間まで共に歩きつづけること。ただそれだけだ。
     ――――ここにいるのがおまえなら、きっと違ったんだろうがな、圭。
     いま、この場にはいない男のことを思いながら恭一は礼拝堂を後にする。
     門前へと歩き出した瞬間、ねっとりと嗅覚を刺激するその匂いに僅かに眉を寄せた。
     むわっ……と、鼻孔を塞ぐかのように纏わりついてくる匂い。
     知っている。これが一体何なのか。
     記憶に蘇るのは、ぬるりとした生々しい質感と何とも言いようのない生ぬるさ。
     そして、毒々しいまでのその色合い。
     覚えがある匂いの発するところにあるものに思いをめぐらせながらも、歩調を緩めることなく、足を進める。そして教会の門前でピタリと足を止めた恭一が目にしたものは、にわかに出現した赤い河だった。
     出て行く者を封じるかのように。
     入ろうとする者を脅かすように。
     地面から湧き出しているかのようなどす黒い赤の中にまるで吐瀉物のように転々と散らばる塊は、はみ出した内臓や引き千切られた四肢の一部だ。
     悶絶するように歪められた口元からはダラリとした舌が覗き、眼球が抉り取られて落ち窪んだ眼窩は、うつろに虚空を見上げている。
     そこにあったものは、異常なまでの執拗さで引き裂かれた二匹の犬の死体だった。
     万人に見せ付けるかのように意図的にこの場所に晒されているそれらには意味があることを、恭一は瞬時に理解する。
     この二匹は象徴だ。
     滞っていた時が再び動き出したのだ。
     恭一が塀の中からこの世界に解き放たれたその瞬間から。
     現実のものでありながら、どこか非現実めいた血溜まりを暫し黙って見下ろしていた恭一は、やがて静かに呟いた。
    「宣戦布告ってわけか」
    「単なる嫌がらせだろう」
     独り言のような抑揚のない言葉に応じる声もまた、状況にそぐわない冷静さを纏っていた。降ってわいたようなその声に振り返った恭一が向けた視線の先には、いつの間に背後に忍び寄ったのか、きっちりと聖衣を纏った亮が、眉一つ顰めることなく、平素と変わらぬ涼しげな表情で立っていた。
    「誰が掃除すると思ってるんだよ……」
     恭一の肩越しにチラリと視線を投げた亮の溜め息のような呟きに、そういう問題かと、うっかり口にしそうになった恭一だが、次の瞬間、亮の表情を目の当たりにして、思わず息を呑んだ。
     放り投げられた二匹の惨殺体に投げられた亮の眸に燻る炎。
     それは、あの酒場に飛び込んできたときにもその眸に宿していた、燃え立つような炎だった。
    「あれは、奴等自身の末路の姿だ」
     そして、スッと口角を吊り上げた亮は、恭一ですら息を呑むような凄艶な微笑をその貌に浮かべた。
    「そうだろう? 借りはまだ返しちゃいないんだぜ? 宣戦布告なんて、お門違いもいいトコだ」
    「アイツらだってそう思っているだろうよ」
     だからこその、この顛末だ。
    「お互い様ってわけだな」
     眼前の亮の全身から滲み出るように伝わってくるものは、果てのない怒りだった。悲壮な祈りにも似た、恐ろしく純粋な怒り。
     あの騒動に関わった者たちのすべてが、過去を清算することに、今尚情念を燃やしている。手加減なしで潰しあう以外、選択肢はないのだと。
     その結果、付随するものは、生か死かのどちらかでしかない。
     あのとき。
     より多くのものを失ったのは一体どちらだったのか。
     それを計ることに、もはや意味はない。
     あるのはただ、起こってしまった現実だけ。
     彼らは亮たちの仲間と住み慣れた王国を。
     亮たちは彼らの面子と帝国を築くための足がかりを。
     これ以上はないくらいの激しさで傷つけあい、そして潰しあった。
     直面する厳しさに懸命に足掻きながらも、仲間たちと支えあって生きてきたこの町は、もとから治安が良い所ではなかったが、それでも、奴等が入り込んでくるまでは、もう少しだけ住みやすい町だった。
     それが露呈するまでには些か時間を要したものの、思えば、新興の組織「ファルコーニ」がこの町に侵食してきたあの日から、軋轢は少しずつ広がっていったに違いなかった。彼らがこの町に居城を築こうとした理由そのものに、大きな問題があったのだ。
     組織の運用と維持、或いは拡大のためには潤沢な資金が必要となる。
     従来のギャングたちが手中に収めていた莫大な利益は、主に麻薬取引によって生み出されたものであった。けれども、地に根を生やした植物や化学薬品が、白い粉或いは錠剤といった最終形の形に行き着くまでには栽培場所や精製工場が必要であり、それらを保管しておくための保管庫や運び出すための輸送ルート、さらには、それらを市場に流通させるためのルートを確立させることが必須であった。
     だが、そういったルートは古参の組織の間で既に隙のないものとして確立されている。そのため、強大な既存の闇の市場に新たに参入していくためには、莫大な費用と手間がかかる。かといって、新たなルートを構築するためには、更なる費用と時間、そして、争いが避けられない。
     ファルコーニという組織が、新興であるが故に選択した、資金を捻出するための闇のルート。それは、臓器売買や人身売買、スナッフビデオの製作・販売といったものだった。
     素材はそこら中に転がっている。臓器を供えた人間であれば、誰でも『商品』となりうるのだ。そして、二十歳に満たないような少年少女達は『商品』としてと同時にスナッフビデオの『素材』として重宝された。
     力あるものがすべて。
     それがこの町で唯一の不文律。
     それを具現化したかのような荒々しさでこの町に入り込んできた「ファルコーニ」。
     まるで、悪性の癌細胞のように増殖していく組織の構成員たち。それに相対して、ひとり、ふたりと、ひっそりと消えていく住人たち。
     子供たちに理不尽な暴力を振るうことはできても、系統だった組織に向ける牙を無くしてしまった大人たちは戦う術を探ろうとはせず、嵐が頭上を過ぎ去るのを息を潜めて待っているだけだった。
     できるだけ火の粉を被らないように。
     できるだけ無関係でいられるように。
     表だって抗う者のいないこの町に「暴力」という名の恐怖支配ではびこりはじめた組織の者達は、栽培されている芥子の花を手折るような気軽さで、この町の住人達の命を摘み取っていった。
     横行する支配と暴力。
     絶えることのない血なまぐさい囁き。
     自らの居場所を土足で踏み荒らされる理不尽さを、『現実』として受け入れてしまっている大人たちがどうなろうと、それは知ったことではなかったけれども。
     火の粉が彼ら三人の仲間たちにも降りかかってくるような事態にまで至っては、湧き上がる怒りを抑えることなどできるはずがなかった。
     この町で生き抜くことだけを考えてここまで駆けてきた。
     そのために身に付けた知恵と力。
     たとえ、犯罪に塗れ、荒廃しきったデッドタウンでも、必死になって生きてきた町なのだ。故郷と呼べる場所は、仲間たちと共に懸命に生活の基盤を築いてきたこの町以外にあり得なかった。
     確かにそこには、彼らの王国が存在した。
     だからこそ、そんなふうに領土を踏み荒らされることが、いとも簡単に仲間の命を奪われることが、どうしても我慢がならなかったのだ。
     大人たちには何も期待することはできない。
     かといって、指を咥えて眺めていれば、いずれこの町は奴等の色に染まる。
     かけがえのない友をあまりにも壮絶な死の淵へ追いやった奴等への怒りに、戦慄く拳を叩きつけたあの日。
     幼い子供たちの眸に宿る、奴等への羨望の色に気づいた瞬間。
     戦おうと。
     そう思った。
     これまで築き上げてきた自分たちの生活を守るために。
     引き裂かれていく仲間の数をこれ以上増やさないために。
     最後まで抗う人間が一人くらいはいたってかまわないのではないのかと。
     そう思ったのだ。



     いつしか太陽の残光すら消え去った夜の闇の中で、ふいに、街灯にぼやけた明かりが灯った。ジリジリと滲むような頼りない光の中では、ドス黒く染まった犬の死体がますます作りモノじみて見えてくる。
    「今度こそ、きっちりと借りは返してやるさ。おまえが刑務所から出てくるのを待っていたのは、あいつらだけじゃないんだぜ?」
     そう言った亮の貌に浮かんだひどく儚げな微笑に恭一は息を呑む。
     その眸の中に、三年という、決して短くはない年月を見た気がしたのだ。
    「最低だろう?」と、どこか自嘲めいた呟きを落とした亮に、「そうじゃない」と、恭一は首を振る。
    「この場合の台詞はそうじゃないだろうが」
     では何なんだ……と、ぶっきらぼうな言葉の真意を問うように首を傾げた亮と向き合った恭一は、漆黒の眸をまっすぐに見つめ、そして、深い呼吸を一度繰り返して言葉を紡いだ。
    「愛してる、亮」
    「――――――!」
    「おまえを、愛している」
    「……………」
     ひと言ひと言を噛みしめるかのように、丁寧に丁寧に紡がれた言葉。
     恭一の真摯な視線を受けた亮は、めったに見せることのない戸惑いの表情をその貌に忍ばせると、やがて小さく笑って呟いた。
    「やっぱり、今日のおまえはどうかしてるよ」
     当の本人には、そんな気は微塵もないのだろうけれども。
     それは、やるせないほど痛々しい微笑だった。
     それ故に、安易に腕を伸ばすことが躊躇われて、恭一は殊更そっけなく呟くことしかできない。
    「……かもな」
     キリキリとした痛みに胸が締め付けられる。
     星の瞬きを見つけることのできないくすんだ空を見上げながら、雨が降ればいいと、恭一は思った。
     この穢れのすべてを洗い流してくれるような雨が。
     一時でもいい。
     何もかもを洗い流してくれるような激しい雨が。
     降ればいいと――――――
    「恭一」
    「何だ?」
    「やるよ、コレ」
     言葉と同時に放り投げられた物を片手で受け止めた恭一は、次の瞬間目を見張った。
     それは、恭一が好んで口にする銘柄の煙草だった。
     封が切られ、中身が半分程に減ったその箱が、先刻の己の言葉に対する彼の応えのような気がして。
    「サンキュ」
     一本を抜き取った恭一は、その箱を愛しげにポケットに落とし込むのだった。






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