「美弥。あんまり近づくと食われるぞ」
「おい、亮」
いかつい自分の外見が決して無条件に好かれるものであるとは思っていない。だからこそ、子供たちと打ち解けようとしていた努力を嘲笑うかのような囁きに、恭一は嫌そうに眉を顰めた。ましてや、ここに集う子供たちは、ひとクセもふたクセもあるような者たちばかりなのだ。
人の悪い笑みを浮かべた亮と渋い顔をした恭一を交互に見て、少女は口を開いた。
「でもあたし、この人だったら食われてもいいかも」
まだ幼さの抜けきらない少女のものとはとても思えない言葉。だが、ここでは珍しいことではない。
さして広くもない町の中でも、最も貧しい者たちが暮らしている37番区。本来であれば学校に通っているはずの時間帯に亮が管理する教会に気まぐれに集まってきている子供たちは、子供特有のあどけなさとは無縁の者ばかりだ。
蔓延する貧困と犯罪。この37番区は治安の悪さでも他の区域に比べて群を抜いている。ここで暮らす者たちの大半が日々頭の中に思い描いていることは、今日を生き抜くことだけだった。
他人どころか親すらもあてにはならない状況下で、明日へと命をつなぐことだけに神経を尖らせている子供たちは学校へ通うことすらままならず、教育とは無縁のものであると言っても過言ではない。
だが、独力で知識を身に付ける術を知る者は極めて少ない。貧困が貧困を生み、犯罪が犯罪を生む。その悪循環を断ち切るために最も必要であるものが「教育」であるにもかかわらず……だ。
荒廃しきった37番区では教育を受ける環境にはない子供たちに、読み書きと、せめてもの何かを教えようと、亮がこの教会に彼らを集めはじめて三年。それは、彼が恭一を待ちつづけた時間と同じだけの年数だった。
「昨日も仕事、してきたのか?」
目線を合わせるように腰を屈めた亮に、少女は躊躇いもなく頷いた。
「うん。だからね、今朝はママにパンを食べさせてあげることが出来たんだ」
文字通り、身体を張って稼いだ金だ。だが、彼女に悲壮感はない。彼女にとって、それは当たり前のことにすぎないのだ。
「母さんの具合、少しは良くなったのか」
「少しはね。でも本当に少しだよ。良くなったり悪くなったり。……ママね、あんまり長くはないみたい。ロクでもない人生がそのまま身体に跳ね返ってきてるのよ」
「……………」
自分を見つめる亮に「大丈夫。心配しないで」と、少女は小さく笑った。
「だからって、見捨てるわけにはいかないしさ。稼げるの、あたししかいないから」
仕方ないよね、と呟くその表情は、生活を担う大人の女の風貌と違わない。
まだ十代半ばにも達していない少女の眸に秘められた強固な意志。
先に待ち受ける現実を見据え、それを受け止める強さを秘めた眸だ。
どんな泥にまみれても、その強さを損なうことなく生きて欲しいと、僅かな憐憫の情を交えながら、恭一は思う。眸の輝きを失ってしまえば、あとは堕ちていくだけだ。
かつて、よく似た眸の色をした少年を知っていた。
誰よりも思慮深く、誰よりも強靭で、慈愛に満ちていた漆黒の眸。けれども、どこかで諦めも知っていた眸。
とかく眼前の事象にばかり捕らわれがちな日々の中、その少年――――亮だけが、先の先まで見据えて思考をめぐらせていた。
一週間先に飢えないために。
冷たい雪の降る冬に凍えないために。
力で他者を制圧することで生活の糧を得ている大人達から身を守るために。
子供ひとりの力は微弱ではあっても、身を寄せ合うことで大きな力を築き上げることができる。そのことを本能的に知っている子供たちは、この地区の中にいくつかのグループを作り、いずれかのグループに身を置いて行動していた。
『レックス』
かつて、亮と恭一が指揮したそのグループは、稀有の結束力と行動力をもって、密やかにその名を馳せていた。
恐れるものも、縛られるものも何もなく、この小さな町の通りを我が物顔で駆け回っていた日々。生きるため……という大義名分を免罪符に、どんなことにでも手を染めてきた。
亮と圭と、そして自分と。
三人いたからこそ、理不尽な力に屈することなく、勝手気ままに生きてこれた。
三人で組めば不可能は何もないと、信じて疑ったことはなかった気がする。
だが、所詮は子供の力だ。
彼らの力では太刀打ちできない、より強大な力はいくらでも存在する。
結局は井の中の蛙に過ぎなかったということを、激烈な痛みとともに思い知らされた。
そして、あの日―――――
彼らの王国は瓦解した。
それでも、悔いはなかった。いまもこうして生きている。
それぞれがそれぞれの役目を全うした。自分も、そして圭も。納得していないのは亮だけだろう。
「美弥ぁ!」
「いま行く」
仲間に名を呼ばれ、返事をした少女のトーンの高い声で、過去に引きずられていた恭一の意識は現実に引き戻される。そして、声の主の方へと駆けて行った少女の背を見つめながら、ポツリと呟いた。
「変わってねぇな」
三年前も、そして今も。
「笑えるぐらいにな」
返す亮の眸もまた、どこか遠くに思いを馳せているようだ。
過ぎ行く時間の中で巡る事象は、同じことの繰り返しだ。
この町は変わらない。
いや、変わり得ない。
変わろうとする意志を放棄したと思われるこの町は。
それでも、亮がこうして子供たちを集めることの意味を知る恭一は、肉の薄いその肩を抱きしめたい衝動に駆られ、ぐっと拳を握った。
自分たちを見つめる幾つもの目があることにはとっくに気づいていた。
遠巻きに彼らを見つめていた何人かの少年が、少女が離れるのを待っていたかのように、おずおずと近づいてきた。先刻から彼らがチラチラとこちらを伺っていたことに気付いていた亮は、普段は物怖じすることのない少年たちのどこか遠慮がちな態度を訝しく思いながら問いかける。
「どうした?」
自分の存在に目をむけてもらえたことで嬉しそうな表情を浮かべた少年たちは、背伸びをするように恭一を見上げて口々にまくしたてた。
「オヤジがいっつも言ってたんだ。この町には英雄がいるって。なぁ、キョーイチってあんたのことなんだろう?」
「すっげぇ強いんだってな」
「俺、あんたのこと、見たことあるんだぜ」
「マジかっけェや」
崇拝の念すら込めて見上げる少年たちに亮はどこか哀しそうに眉を顰めた。
この町でのサクセスストーリーに常に付きまとう、暴力の匂い。
力で他者を制圧し、のし上がること。即ち、それが「成功」だ。
たとえ、それがどれだけ理不尽な力であったとしても、その力でもって他者を叩きのめした者の勝ちだ。力に抗することができるのは力のみ。だから、より強大な力を持つ者が勝者となり得る。
単純な論理だ。
自分たちですら、盲目的に信じきっていた時がある。
この町で這い上がる方法を、他に知らなかった。
けれども――――
この子たちは知っているのだろうか?
失ってしまったら、二度と取り戻せないものがあることを。
気付いてからではとりかえしがつかないことがあることを。
いや、気付けるだけまだマシだ。
大概の者たちは気付けぬまま、この町に埋もれていく。
他の世界が、他の生き方があることを知りもせずに。
憧れの「英雄」を前に眸を輝かせる少年たちに、亮は一言一言を噛みしめるように語りかける。
決して間違えては欲しくないことがある。
「ちがうよ。恭一は英雄なんかじゃない。悪いことをしたから、あの塀の中にいたんだ。本当の英雄だったらそんな所に入りやしないさ」
人のものを盗むこと。人を傷つけること。命を奪うこと。
この町では当たり前のように横行しているそれらの事象が、真の人間社会では決して当たり前であってはいけないと気付くことが出来なければ、永遠にこの淀みから抜け出ることは叶わない。行き着く先は、路上でのたれ死ぬか殺されるか、一生を監獄に縛られるか……だ。
「ウソだー。だって、悪いヤツラを懲らしめたんだろう? おかげで町でのさばっていたギャングたちがナリを顰めたって、オヤジ、嬉しそうに話してたぜ? そりゃー、どうしようもないアル中だったけどさ。ボケちゃいなかったぜ。同じ話を馬鹿みたいに何度も何度も繰り返して語ってたよ」
そうだよなぁ、と他の少年たちも頷いた。
「みんな言ってたよ。この町にはすっげぇヤツがいるって」
それは、誰も何もしなかったからだと、憎悪にすら近い思いを、亮は胸の中で噛みしめた。誰かがやらなければならなかったことを自分たちが肩代わりしたに過ぎない。知っていながらも黙認しつづけた大人たちは、一番わかりやすい形で事を成し遂げた恭一を偶像視することで己の後ろめたさを打ち消した。そして、力だけがすべてだと信じて疑わない子供たちは、その力の象徴として尊敬と憧れの念を込めて恭一の名を唱えるのだ。
――――勝手なことを………
結果、自分たちが失ったものと背負ったものを彼らは知らない。
あの時の出来事について語る資格があるのは当事者である自分たちだけだ。
どうしても許せなかったのだ。
奴等も、そして、怯えるだけの町の住人たちも。
だから、あらん限りの力で歯向かってやろうと思ったのだ。そのこと自体が間違っていたとは思ってはいない。誰かがやらなければならないことだった。
亮にとっての唯一にして最大の失敗は、それを圭と恭一の二人に気取られてしまったことだ。
独りでやるつもりだった。
だが、亮独りで担うつもりだった役割は、圭と恭一の手によってきっかりと三つに等分されてしまった。
それが三年前の出来事だ。
闘いは未だ、終わってはいない。
ヤツらはナリを顰めているだけで、壊滅したわけではない。そして、諦めてもいないだろう。
圭が戻らないのが、何よりの証拠だ。そして、恭一が戻ったことで、止まっていた時が動き出したことを亮は知っている。犀は投げられたのだ。この静寂は、そう長くは続かないだろう。
「嘘じゃないよ。恭一は罪人だ。第一、人を傷つけることは神様がお許しにならないさ」
「亮兄ィはそーゆーけどさ。オトナは平気で盗んだり殴ったりするじゃんか。それで天罰下らないんだもん。関係ないよ、神様なんて」
「そうそう」
さんざんに奪われてきた自分たちには、同じように奪う権利があると、子供たちは思っている。それが、自分たちの当然の権利だと。
「じゃあ、おまえたちはそんな大人になりたいのか? そのために、今をこうして生きているのか?」
優しげな微笑を浮かべた亮の厳しい問いに、少年たちは顔を見合わせる。
「よくわかんねーよ」
「なりたくないっつってもなぁ」
「なぁ?」
術を知らない。
この現実から逃れるための。
誰もが一度は噛みしめる思いがある。
コイツらと同じ大人にはなるまいと。
いつか、ヤツラを見返してやるんだ、と。
けれども、血が滲むほどの力で拳を握りしめて胸に抱いた思いは、気づけば風化して砂のように砕け散り、結局は同じ道を辿っていく者が大半だった。
蔑んだはずの親たちと。
忌々しげに唾を吐きかけた大人たちと。
同じ道を。
困惑気味な少年たちの耳を打つ、鋭く低い声。
「おまえら、そうならないためにここに来てるんじゃないのか?」
はじめて口を開いた恭一の言葉に、少年たちは顔を見合わせた。
「違うのか?」
「―――違わない……と、思う」
今の今に至るまで、考えたこともなかったけれども。
「だったらちゃんとここの神父様の言うことを学べ。俺は駄目な大人の見本だ」
「本当に?」
「……そんなのウソだよ」
「そのうちわかるさ」
どうしても納得がいかないという目で見上げる少年たちに、恭一はそれ以上言葉を続けることなく背を向けた。
それなりのことをしでかした自覚はある。だが、ここまで偶像視されているとは思わなかった。
少しでも亮の力になれればと、子供たちと打ち解けようと思ったけれども―――――
交わるべきではない。
亮の行為を無にする者は、たとえ自分自身と言えども許せるわけがなかった。
++++++++++++++++++++
最後まで残っていた子供の背を見送った亮は、険しい貌で溜息をついた。
水を打ったような静けさが、古びた教会の中を支配している。先刻までの喧騒の名残はどこにもない。だが、これが本来の在りようだ。いつもよりも多くの子供たちが集ってきたのは、恭一の存在に拠るところが大きいのかもしれない。
「――――」
もういちど重い呼吸を繰り返した亮は、当の恭一を探して協会の中を歩きまわった。
探し人は、誰もいない礼拝堂の中にいた。
ほんの数日前に娑婆に戻った男は神の前で何を思っているのだろう?
祭壇の前の長椅子に腰を降ろし、腕を組んで十字架を見上げている。
まるで、挑むように。何かに憤っているかのように。
その表情に意味もなく安堵した亮は、背後から恭一の厚い胸に腕を廻し、筋肉の盛り上がった肩口に顔を埋めた。
「どうした?」
甘えるようなその仕草に、恭一が静かに問う。
「恭一……」
「ん?」
「いくら教えたところで無駄かもしれない。どこかでそう思っている自分がいる。それでも、あの子達にせめて自分が何をしているのかだけでも知っていて欲しいと願うことは間違っているか? 他人の痛みだけはわかっていて欲しいと、俺が願うこと自体、間違っているか?」
この町にいる限り、理想を振りかざして生きていくことは不可能だ。綺麗事だけでは生きていくことは叶わない。
盗むことも、騙すことも、時には殺めることすら、明日へと命を繋いでいくためには止むを得ない時がある。
なりふり構わずに今日を生き抜くこと。
第一にそう考えるのは当然のことだ。諦めてしまったその先に待ち受けているのは永遠の沈黙だけなのだ。
だが、知って欲しかった。
己のしていることの善悪を。その意味を。
この悪循環を断ち切るためには、本当はどうしたらいいのかを。
でなければ、未来は永遠に灰色の中に閉ざされたままなのだ。
生まれた場所は選べなくても、人は、先の人生を自分で選択する権利がある。望みさえすれば、変われるはずなのだ。
痛々しいまでの必死さをぶつけてくる亮に、恭一は静かに首を横に振ってみせた。
「間違っちゃいないさ。おまえの選択することは、いつだって間違っちゃいない」
縋る亮の腕に力が込められる。この男ならば、そう言ってくれると思っていた。それだけで救われる。
首筋をくすぐる亮の黒髪に指を絡めながら、恭一は先刻の衝動が再びこみあげるのを自覚する。
抱きしめたい。
そして、抱きたい。
何度でも。時の許す限り。
そんな恭一の熱を感じとったのだろうか?椅子の背凭れを跨ぐように越えた亮は恭一の唇に唇で触れた。
「いいのか?」
場所柄を慮って問う恭一に、亮は襟を解きながら婀娜めいた微笑を浮かべた。
「クソ喰らえだ……」
信仰心など持ち合わせていない自分が、神父などと名乗ることもおこがましいのだ。だから子供たちには神父様とは呼ばせていない。
上等な応えに薄く笑った恭一は、唇を重ねながら、肌けられた胸元から拳を差し入れる。
手のひらに吸い付くような、滑らかな肌の感触。浮いた鎖骨のライン。形を確かめるように彷徨わせた指先を下に滑らせ、辿り付いた胸の突起を摘んでやれば、恭一の腕の中で亮はうっとりと喉を震わせた。
神の家に通いながらも、その神ですら「関係ない」と言い切った子供たち。だが、自分とて同じだ。そんな自分に彼を諭す資格はもとよりないのかもしれない。
握った拳は血で汚れている。
けれども、そんな自分の力だけが頼りだった。祈ったところでどうにもならないことは、身をもって知っている。願いを叶えるのは、手を差し伸べてくれる仲間の助力と、結局は己自身の力によってだ。
この地上に楽園など存在しない。
だから―――――
誓う相手は神ではない。
二人の唇から同時に零れ落ちた言葉。
「二度と、離さない」
「二度と…離れるな」
たとえ何があろうとも。
どんな事態に見舞われようとも。
真摯な眸を受け止めて華が綻んだように笑った亮に誘われるように、恭一は十分に解した蕾に屹立した己の雄を沈み込ませた。
ここにきて、ようやく一つに重なり合う想い。
聖なる祭壇の前で交わされるものは永遠に変わらぬ愛の誓い。
ステンドグラスを介して差し込む黄昏時の陽光が祝福の光だ。
厳かな礼拝堂の中に響く濡れた音。熱い息づかい。甘い喘ぎ。
悦楽の極みに上り詰め、咽び泣きたくなるような情交の中で―――――
迫り来るものの足音を、確かに聞いた気がした。
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