•  愚者の楽園  
    01 





     そこは、町の外れにある小さな酒場だった。
     深夜もとっくに回った狭い店内は、薄暗い灯りと煙草の煙で視界が霞み、揺らいでいる。
     カウンターの中には黙々とグラスを磨くバーテンが一人。
     そして、カウンターでは男が一人、グラスを傾けていた。他に客はいない。
     誰かと連れ立ってこの店の扉を開く者は少ない。
     町の境界線に程近いこの場所は、流れ者たちの通過点だった。
     この町に入り込んでくる者。或いは、出て行く者。
     必ず一度は立ち寄り、そして行き過ぎていく。
     そんな行きずりの場所だった。
     静かに更けゆく夜が、室内を満たした無言(しじま)を呑み込んでゆく。
     時が停滞したかのような静寂を破ったのは、扉が軋んで開く音だった。
     ギーッ、という寂れた音に客の男は振り向きもしない。バーテンもチラリと入り口に投げた視線をすぐさまグラスに戻した。
     他者には干渉しない。それがこの店の鉄則だ。
     その鉄則を乱すべく、沈黙の中に身を滑り込ませてきたのは、黒い聖職服に身を包んだ男だった。
     恐ろしく端正な貌の男だった。
     ストイックな聖職服が、逆に彼の秀麗な貌を際立たせている。
     だが、神に仕える者がその身に纏う静謐さは、この男からは感じられなかった。
     炎を宿した双眸の鋭さが、その装いを完全に裏切っている。
     何に対する怒りなのか。
     唇を引き結び、険しい眸で店内を一瞥すると、切り込むような激しさで中に踏み込んできた。
     そして、奥まったカウンターにひとりで陣取った体格のいい男のもとまで歩み寄ると、襟元を鷲掴み、高く振り上げた腕を躊躇うことなく振り下ろした。
     よける暇(いとま)すら与えられなかった男の頬で、いっそ小気味良いまでの音が鳴る。
     静まり返った空間に響く渇いた音。
     その音に顔を上げたバーテンの視線も意に介さず、剣呑な光を孕んだ漆黒の眸で彼は今しがた殴りつけたばかりの男を睨み付けた。
    「何か言うことは?」
    「ねぇよ」
    「恭一」
     怜悧な美貌の持ち主、江崎亮は、飄々と応える男を低い声で一括する。
     それに臆することなく、物憂げにスツールを動かした片桐恭一は、全身で怒りを現している亮に身体ごと向き直った。しなやかな鞭のような身体つきの亮とは対照的に、鍛え上げられた恭一の身体は無駄のない筋肉で覆われ、どっしりとした厚みがある。
    「久しぶりだっていうのに、ずいぶんじゃねぇか。思いっきり殴りやがって……」
    「おまえに文句を言う資格なんてあるのか?」
    「……………」
     三年ぶりの再会だった。
     まっすぐに向けられた漆黒の眸を受け止める恭一の脳裏には、三年前の情景が鮮やかに蘇る。
     変わっていない。
     亮の本質はなにも。
     真摯なその眸の色も、その気性も。
     聖職服姿という見慣れない格好をのぞけば、三年間思い描いたそのままの姿で、亮はいま、こうして目の前に立っている。
     何かを懐かしむように眸を細めた恭一の表情に、神経質そうに眉を顰めた亮は、再度、問いただすような言葉を投げかけた。
    「何処に行くつもりだったんだ?」
    「別に」
     はぐらかすようなその返答に、眦を吊り上げる。
    「殺されたいか、恭一?」
     にじり寄る亮に、恭一はよどみなく言い切った。
    「俺の戻る場所はおまえのところだ。そうだろう? 亮」
     その頬を、亮は燃え立つ怒りに任せてもう一度殴り飛ばした。
     よける素振りもみせずにその手を受けた恭一が浮かべたのは、どこか自嘲めいた微笑だった。
     空廻る言葉の応酬。
     だから、続けたところで意味はない。
    「…………」
     疲れたような溜息をついた亮は、逞しい首に腕を絡め、しなだれかかるように体重を預けた。
     亮の唇から吐息と共に零れ落ちた小さな呟き。
    「嘘つき……」
     間一髪で捕まえた。
     でなければ、この男は、自分ひとりで決着をつけにいってしまっていただろう。
     ここにたどり着くまでに自分がどんな思いをしたか、恭一は知っているのだろうか?
     間に合った安堵よりも、空疎な淋しさと身を焦がすような怒りが胸を占める。
     今夜を逃したら、この男を捕まえることは出来なかった。
     それは、確信だった。
     そういう男だ。
     いつだって置いていかれるのは自分。
     三年前も、そして今も。
     この男がそうする理由を知っているからこそ、亮はやりきれない気持ちになる。だからこそ、募る苛立ちを押えきれない。
     何故わからない?
     この男のいない安穏など、在り得ないことに。
     守られた平和になど、ひとかけらも意味がない。
     一番大切なものを諦めて、何故生きていける?
     たったそれだけのことを、何故理解し得ないのだろう?
     この男も。そして圭も。
     何故………
     この三年、自分がどんな思いでいたのかを知らしめる術はないものかと、亮は何度も自問してきた。どうすれば思い知らせてやることができるのかと。
     責めるような視線に絡めとられた恭一は、観念したように息を吐いた。
     何よりも雄弁に物を語る漆黒の眸。
     結局、捕まってしまった。
     けれども、このことを恐れながらも、どこかで望んでいた自分を知っている。
     そんな心情を見透かしたかのような亮の静かな声が、見えない楔のように胸に刺さった。
    「二度と逃げるなよ、恭一」
     ――――俺から。
         そして、この町から
     わかっている。
     恭一は、逃げようとしたわけではない。
     己の手ですべての決着をつけようとしたのだ。
     亮を巻き込むことなく、己自身の手で。
     だが、どんな理由があろうとも、自分のもとを去ることは絶対に許さない。
     絶対に………だ。
     首筋に熱く吹きかけられる吐息がチリチリと皮膚を焼く。
     擦り付けるように寄せられた亮の躯を、恭一は逞しい両腕で抱きしめた。
     ずっしりと腕に応える身体の熱と確かな重さが、これが殺しつづけた夢の続きではないことを物語っている。
     そして二人は知るのだ。
     蓄積された想いは三年の間に深さと重みを増し、より狂おしく胸を焼くことを。
     伝わる体温。
     懐かしい匂い。
     三年間、焦がれてきた互いの躯の熱さ。
     衣服を介していても隠し切れない鼓動の速さ。
     いや、隠す必要などない。
     堪えられるはずがないのだ。
     顎先に指を添えて仰のかせた亮の眸は、色を孕んで濡れている。
     見返す恭一も、然り……だ。
     余計な言葉よりも、いまは確かな熱を身体で感じたくて。
     その足で近くのモーテルに転がり込み、服を脱ぐ暇すらもどかしげに貪りあうように躯を重ねた。
     そして改めて思い知るのだ。
     二人の間には、三年の時の流れを感じさせる何かが確かに存在することを。
     時間は確実に流れている。
     何もかもが昔のままではいられない。
     そのことを質すつもりはない。
     恭一にも、そして亮にも、そんな資格はありはしない。
     だからこそ、より激しく。より貪欲に。二人は求め、貪りあう。
     三年の空白を埋め尽くそうとするかのように。
     己の痕跡を互いの躯の至る所に刻み付けようとするかのように。
    「……っン――――」
     埋め込まれていた楔をずるりと引き抜かれる感触に、亮は身を震わせて喘ぎを零す。何処もかしこも濡れきっている。けれども…………足りない。まだ足りない。
     弾む息を整える間もなく、逞しい胸に頭を預けた亮は、恭一の胸の古傷に唇を落とした。
     溢れ出した鮮血の毒々しいまでの鮮やかさを、今でも覚えている。
     弾力のある生きた皮膚を縦に走る、渇いて引き攣れた死んだ皮膚。
     これは刻印だ。
     英雄であることの紛れもない証。
     ひきつった傷痕を愛おしむように、丁寧に赤い舌先でなぞっていく亮の髪に指を絡めながら、恭一は脱ぎ捨てられた服を横目で見やって呟いた。
    「とんだ神父様だよ、おまえ……」
     揶揄するような言葉とは正反対に、哀しげに揺れる眸。
     信仰とは程遠いところにありながら、敢えてその服に身を包んだ彼の気持ちが恭一の胸に鋭く刺さる。
     だが、亮の応えは、恭一の感傷を断ち切るかのようにそっけなく響くだけだ。
    「自分のなすべきことを知っているだけさ」
     もっとも……と後に続けられたのは、自分を嘲るような小さな呟きだった。
    「贖うものがないヤツなんかに、こんな仕事は勤まらない」
    「亮……」
    「そんな顔するな。おまえのガラじゃない」
    「……………」
    「何であろうと、俺は俺でしか在り得ない。おまえがおまえでしか在り得ないのと同じように」
     そして、この話はここまでだ、と言いたげに首を振った亮は、妖艶な笑みをその貌に浮かべた。
    「まさか、こんなんで満足したわけじゃないだろう?」
     恭一の腹から掬い上げた飛沫を舐めあげ、おまえの渇きはそんなものかと、挑発的なまでの激しさで問いただす。
     ならば、思い知るがいいと、抱き込むように組み敷いたしなやかな肢体が、男を迎え入れるために柔軟に開かれた。獰猛なまでの昂ぶりで熟れて蕩けた媚肉を突けば、感じていることを隠そうともしない嬌声が上がる。
     鼓動の音さえも溶け合ってしまいそうな、この一体感。
     荒い息遣いまでもが、同じリズムを刻んでいる。
     五感を駆け巡る愉悦の波に呑みこまれる。
     弾け飛ぶ意識の狭間で、何度目になるのかわからない絶頂を迎え………
     乱れたベッドの上に身を投げ出して、どのくらいの間、そうしていたのだろう?
     気だるげに身を起こした恭一は、煙草を欲してベッドを降りた。拾い上げた上着のポケットを探って掴んだ箱から一本を抜き取り、唇に挟む。灯したライターの炎に煙草を近づけたその瞬間、突き刺さるような視線を感じて、恭一は振り返った。
     視線の先では、意識を飛ばしていたはずの亮が、シーツにくるまったままじっと自分を見つめていた。
    「……動けるか?」
     どこか的外れな問い掛けに、そんな気力はないと、首を横に振る。
     腰から下の感覚がない。
     腕を持ち上げることすら億劫だった。
     それでも、目の前の男を凝視したまま視線を離すことが出来ずにいる亮に歩み寄った恭一は、傍らに腰を降ろして愛しげに囁きかけた。
    「だったら眠れ、亮。俺は何処にも行きやしない」
    「………………」
    「ここにいるから」
     一言も言葉を発しないまま、まるで誓いのような口吻けを受けとめた亮は、囁かれた言葉にようやく安心したように静かに瞼を閉じた。
     恭一の見守る中、引き込まれるように眠りに落ちていく。
     紫煙をくゆらせながら彼の呼吸が深くなっていくまで見つめていた恭一は、乱れた髪のふりかかる頬を手のひらで包み込み、ポツリと呟いた。
    「少し、やつれたな、おまえ―――」
     鋭さを増した顎のラインに、三年の間に蓄積された疲労の影を見る。
     ギリギリのタイミングだった。
     あの一杯を飲み干したら、この町を後にしようと思っていたのだ。そして、奴らの元へ向かおうと。そう思っていた。三年の刑期を終え、出所したその足で。
     もう一度、亮と眸を合わせてしまったら、絶対に離れることが出来ないということをわかっていたから。
     もう一度見(まみ)えてしまったら、共に堕ちる以外、道がないことを知っていたから。
     そして、そんな恭一の思いをわかっていたからこそ、亮は追いかけてきたのだ。
     本気で彼のもとを去りたかったのかと問われれば、それは嘘になる。
     共に過ごした日のことを、忘れられるはずがない。
     無邪気に笑っていられた在りし日のことを。
     あの日に戻ることは決して出来ないとわかっていても、ぐずぐずとカウンターに張り付いていた自分。
     賭けたかったのかもしれない。
     最後の一杯に。
     そして結局、縫いとめられてしまった。
     この町に。
     否。
     この男の傍に。
     その結果、先にどんな事象が待ち受けているのかは、今は考えないことにする。
     何よりも愛しくて、大切な存在は、いま、この腕の中に在る。
     ふたたび巡り逢ってしまった今となっては、絶対に離せない。
     離したくはない。
     だからこそ………
    「こんな言い方、おまえは嫌うだろうがな」
     恭一は、胸の奥底に秘めた思いを今改めて噛み締める。
     ――――許せ、亮。
     そして、もう一人。
     ――――すまんな、圭。
     かつての同志は、いま、この場所にはいない。
     だが、その男は、いまだ圧倒的な存在感をもって恭一と亮の胸の中に息づいている。
     微かな………とても微かな亮の吐息が耳に響く。
     静まり返った空間の中で立ち久志る煙草の紫煙だけが動いている。
     恭一は動かない。
     深い眠りの底にある亮の寝顔を、いつまでも見つめつづけていた。 





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