Act.03
彼女の絵のことについて知りたい。最初はそんな欲求だったのにも関わらず、現在では彼女自身に興味があることに気がついた。もうどうしようもないほどあの人に興味をもっている。口には出せないけれど。
だけど、クラスも部活も異なれば、同じ高校に通う者という括り以外に、思いのほか接点が生じない事に気が付く。踏み込んで聞き出そうにも、彼女の事は名前以上のことは出てこない。それ以上を求めれば、中途半端な自分の知名度と相まって、あらぬ噂を立てられることは避けられないだろう。
そうじゃない。
自分の気持ちはそんな安っぽいものじゃない。
彼女を知れば、自分が今のままではいられなくなる。
でも、知らなければ今の自分を保てない。
そんな相反するぎりぎりの気持ちがあふれ出してしまいそうになる。
知りたい、そう。ただ単純に彼女の事を知っていたい。
そして、たぶん、俺の事を知ってもらいたい。
「ん?彼女?」
「そう。たまたま作品を見てね。変わった作風だったからどういう人か気になって」
「ふーーん。珍しいな。おまえが美術系を気にするなんて」
美術部に在籍しているクラスメートにさりげなく接近する。こういうとき八方美人的にあちこち愛想を振り撒いていた過去の自分を誉めておきたくなる。
「だったら見学してかねーか?どうせ部員もほとんどいねーし」
「でも、部外者がお邪魔しては・・・」
「いやいや、あそこは溜まり場みたいなもんだから、今さら一人二人増えたところでどうってことないし」
「そう?だったら申し訳ないけど見学させてもらうことにしようかな」
にっこりと完璧な笑顔を作り出す。クラスメートはそんな作り物めいた笑顔に気がついているのかいないのか、いつも通りのテンションで部室へと案内してくれた。
「汚いけど」
彼の苦笑いとともに開けられた扉を、彼に続いてくぐる。
中は、この間とは異なり、様様な匂いで充満していた。たぶん絵の具などの画材の匂いなのだろう、慣れていない自分は一瞬にして酔いそうになる。
「ああ、臭い?」
顔を顰めた自分に対し、再び彼が苦笑する。
「いや、ちょっと。慣れてなくて」
「俺なんかは麻痺してるからいいけど、大丈夫か?」
「ええ・・・、なんとか」
引き返す、という単語が脳裏を掠めたけれども、浅い呼吸を繰り返すうちに匂いが気にならなくなってきた。これが彼の言う麻痺する、ということなのだろう。
「っと、あの奥にいるのが例の彼女だけど」
小声で耳打ちをしてくれる。
そこには彼女の体より大きいだろうキャンパスを前にして、ひたすら睨みつけるような視線でそれを見つめている少女が座っていた。
ゾクリ、と何かが粟立つ。
真剣な彼女の眼差しに、知りもしないのに彼女があの作品の作者なのだと確信をする。
目立つ容貌じゃない。
ゆるやかに三つ編みに結わえてある髪の毛は胸の下あたりで紺色のゴムで結ばれており、綺麗な髪質であるそれらを隠すように纏められている。そこそこ整っているはずのパーツも全体としては地味な印象を拭えない。だけど、その意思のはっきりとした両目は、彼女の存在を際立たせている。彼女の姿だけが現実の色見のないセピア色に彩られたように、彼女のみ視界に飛び込んでくる。
やっぱり、彼女だ。
再び確信した俺は、彼女から視線を逸らせないでいる。
普段ならば、こんな失態は犯さない。だけど、幸いというのか、ここにいる美術部の連中は俺のような人間にはまるで興味を示さない。
だから部外者が突然やってきて、一人の少女を見つめつづけている、という非常事態にも何ら反応を示さない。
俺を連れてきたクラスメートは、彼女の方へ近寄り話し掛けている。
思考を中断させられた彼女は、あからさまに不機嫌そうにこちらへと視線を寄越す。
瞬間、射抜かれる。
彼女の視線で息ができない。
憎悪を孕んだその視線は強烈過ぎて、顔を逸らさないようにするだけで精一杯だ。
嫌悪感を隠さないまま俺の方へと近寄ってきた彼女は、口を真一文字にひき結んだまま。
「あの、俺」
「知ってる」
やっと搾り出した声に素早く彼女の声がかぶせられる。彼女の発した言葉に戸惑いはしたけれど、数拍ののち、たぶん俺の名前を知っているから自己紹介は不要だということだと判断した。
「この前の水彩画だけど」
「けなしにきたわけ?」
「いや、そんなつもりじゃない・・・けど」
今まで一度も接触した事のない彼女の明らかな敵対姿勢に困惑する。自慢じゃないけれど当り障りのない俺は、嫌われる事は極端に少ない。特技ともいえる俺の長所が彼女にのみ有効に働いてはくれない。それどころか彼女は最初からけんか腰とも言える態度をとり続けている。
「どんな人が描いたのか興味があってさ」
「そう?だったらもう十分でしょ」
あまりにもギスギスした雰囲気に仲介役のクラスメートも戸惑っている。今まで興味がなかった美術部の連中も、そっとこちらを伺っている。
彼女は当初からの態度を崩そうとはせず、敵意を持った眼差しで彼女から見れば上方にある俺を睨み付けている。
俺は、そんな微妙な雰囲気の中にあって、彼女の指先に、首筋に、その両目から目が離せないでいる。三つ編みを解き、無造作に後ろで一つに束ねる。ただそれだけの動作に胸がトクンと跳ねる。自分自身の変化に戸惑いながらも彼女だけを見つめ続ける。
「おまえ、なんか機嫌悪いなぁ」
「そんなことないわよ。この人が消えてくれればすぐにでも良くなるわよ」
真っ直ぐに真っ正直に逸らされない視線。
「ごめん、邪魔したみたいだね」
「わかってるんなら帰ってちょうだい」
初めてそらされた視線は再び合うことはなく、彼女はそのままキャンパスの前へ座り込む。
「ごめん、いつもはあんな風じゃないんだけど」
「いや、こっちこそ、突然やってきてわけわからんないだろうし」
バツが悪そうな顔をしたクラスメートを気遣ってみる。
だけど内面はとてもじゃないけれど余裕がない。
もう一度彼女の目が見たい。
そんなことを思う気持ちが溢れそうになる。
どんな色でもいい、好悪のどちらでも俺だけを見ていて欲しい。
どうしてそんなことを思うのかはわからない。
ただ、彼女の事が知りたい。
彼女の姿を目に焼き付けるようにしながら、その場を辞す。
行きとは違って、一人で閉める扉が彼女との隔たりを表しているようで胸が痛む。
この時には水彩画のことは頭からすっかり離れ、彼女自身への興味でいっぱいだった。
どうすればもっと彼女の事を知る事ができるのか。
どうすればもっと彼女の近くに行くことができるのか。
その意味に気が付いたのはずっと後のことだけど。
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