06
アレから姉さんの様子はドンドンおかしくなっていき、でも、私の受験準備もサクサク進んでいった。
心がどこかへ飛んでいってしまったみたいな姉さんは、うつろな目でそれでも毎日普通に過ごしている、ようには見えている。
あまり家にいない父さんも、ほとんどいない母さんも気がつきはしない。
ただ、成績が目に見えて落ちているらしく、それについては電話で両親が話し合っていることを聞いたりもする。
でも、それだけだ。
母さんは姉さんは顔がきれいだから、ただそれだけでいいというし、私は頭がいいからただそれだけでよいという。あまり煩いことを言わないことは羨ましいことなのかもしれないけれど、少しだけ寂しいと思ってしまうのはワガママなのかな、と、ふと思う。
忙しすぎて人相が変わっている兄さんは、他の誰かを心配する余裕などあるはずもなく、姉さんの変化は私だけが感づいている状態だ。
「……姉さん?」
夏はこれだよね、と、そうめんを一口すすると、なんとも言えない味が広がった。もちろんツユは姉さんの手作りだ。市販のものよりおいしいソレは、今ではそれ以外で食べられない口になってしまった。
だけど、今日のツユはなんだかおかしい。色も匂いもそれなりなのに、なんだか味がおかしい。苦いというのか、えぐいというのか。
ずっと調子がでないでいる姉さんは、それでもおいしいごはんを出してくれていた。だけど、夏休みをピークに本当に、誰の目からみても明らかにカラダにまで変化が出始めていた。元々細い体はもっと細く、華奢を通り越しているし、顔色は青白いまんまだし、なにより視点が定まらないなんて、やっぱりおかしい。何度か勇気を出して聞いてみても、「大丈夫」と言うばかりで、逆にわたしの受験の心配をされてしまう。
両親に訴えても「夏ばてでしょ」なんて、頼りなくって見当違いで馬鹿馬鹿しい答えがかえってくるばかり。
最近ではとうとう日常生活にも色々と影響が出てきた。
洗濯機の前でぼーっとしたまま学校へ行くのを忘れそうになったり、洗濯物の山の前で何もしないでただ座りこんでいたり。
その度に揺すったり声をかけたりしてはみるものの、いつもの姉さんには戻ってくれない。
よっぽど体がきついのかと思って、家事を代わりにやろうとしてはみるものの、余計なことをしてかえって姉さんに迷惑をかけてばかりいる。だから、せめて最低限自分のことだけはやろうとはしているのだけど、それもうまくいかない。なんだか、自分の不器用さと今までさぼりまくっていたツケがいっぺんにきたみたいだ。
チラリと姉さんを見ると、何も言わずに一口二口麺をすすると、それだけで箸を置いてしまった。やっぱり今日もあまり食べていない。いつもと味は違うけれど、食べられないわけではないと、何も言わずに残りのそうめんを平らげる。
風鈴の音が虚しく部屋を通り過ぎていく。もう夏が終わる。何も変わらなくて、どうしていいのかわからなくて、どうしようもない不安を抱いたままで。
「あら、篠宮の顔じゃないわね」
何年目かは忘れたひいじいちゃんとばあちゃんの法事が行なわれるじいちゃんの家で、サラリとこんなことを吐き出すのは、当然じいちゃんの実家の人間だ。
姉さんを見て、眉をひそめて言うそれは、どう考えてもいい意味がこめられているとは思えない。それぐらいいくら鈍い私でもよくわかる。
確かに、姉さんは家族の誰にも似ていない。兄さんは血は繋がっていないのに、母さんに似た雰囲気をもっているし、わたしは悲しいかな父さん似だ。なのに、姉さんは両親にも、父さんの両親にも似ていない。どこからこんなキレイな顔が生まれたのかと、不思議に思っていたけれど、何の事はない母さんの母さんに似ているらしいのだ。何度か写真で見たことがあるけれど、今の姉さんをずっと大人っぽくして色っぽくするとばあちゃんになる。わたしもできればあの人に似ていたかったと思うほどな美人だ。
だけど、割と血族が似たような顔をもっているこっちのじいちゃんのテリトリーに入ると、姉さんは完全に部外者だ。はっきりと浮いている。
その姉さんは、誰に言われたのか、黙々とお盆にお茶を載せ、親戚の間に配って歩いている。
わたしが手伝うと言うと、ばあちゃんが「あなたは座っていなさい」と笑顔で、でも逆らえない雰囲気でその場に押し留められている。
与えられたお菓子と、姉さんがくれたお茶をがぶ飲みしながら、親戚が全て到着するのを待つ。
今回の法事には兄さんは欠席らしい。
長男がこないなんて、と、ばあちゃんはかなり渋ったみたいだけど、それどころじゃない兄さんは「無理」の一言で全ての連絡を絶ってしまった。
母さんは奥の方でなにか準備しているから隣にはいない。
父さんは、挨拶をして回るのに忙しくて隣にはいない。
ちょくちょくここにはきていたはずなのに、法事と言う行事のせいなのか、良く知らない親戚がたくさんきているせいなのか、とても居心地の悪い空間だ。
やることがなくて、ついついお菓子を頬張ってはお茶を飲む。
相変わらず空の茶碗と満たされた茶碗を交互に運んでいる姉さんの腕は、驚くほど細くて白い。そんな人に重そうなお盆を持たせて平気そうにくつろいでいる爺婆も、ばあちゃんに言われたぐらいでここに留まっている自分も、どちらも大嫌いだ。
自己嫌悪と、姉さんの様子が気になってチラチラ様子見をしていたら、いつのまにか坊さんが到着してなにやらお経を読み始めていた。
慌てて正座をして、目立たないように見渡してみる。
じいちゃん、ばあちゃん、父さんは簡単に確認できたのに、母さんは後ろの方に座っていて振り向かないと確認できなかった。姉さんにいたっては、なぜだか廊下の上に正座をさせられていた。しかも、座布団も何もないところで。
部屋の中を確認してみても、どう考えても姉さんがあの場に座っているわけがわからない。スペースなんていくらでもある、もしなくったって、あんなに細い人が一人ぐらい入る分は、楽勝にできるはずだ。
なのに、誰も何も言わない。
母さんですら、娘である姉さんをあの場に座らせたまま何も言わない。
訳のわからない物がドロリと私の中に流れ込む。
はじめて気がついたフリをしていたけれど、こんなことは今までに何度もあったじゃないか、と。
何年か前、こうやって集まってきたときにはどうだったのか。
やっぱり姉さんはあの場所に座っていなかったか?
わたしはばあちゃんのとなりで買ってもらったばかりのおもちゃを出して遊んでいたのにもかかわらず。
そういえばと、次々と過去の映像が頭に浮かんでは消えていく。
どれもこれも、自分の目で見てきたはずなのに、今まではなんとも思いもしなかったものばかりだ。
一人だけ何も与えられない姉さん。
一人だけ置いていかれる姉さん。
一人だけ違う場所に座らされる姉さん。
それを何も言わずに受け入れつづけていた父さんと、母さんと、兄さん。
そして、わたし。
何も知らない、知ろうとしないというのは、どれほど馬鹿で、罰当たりなものなのかと、それこそバットで頭を殴られたような衝撃を感じた。