エピローグ


「こうしていられるのも晃さんのおかげだよね」

彼女の受験も俺の修士論文もようやく終わりをむかえた。
お互い満足のいく結果を得られ、こうやってのんびりとお茶を飲むことができる、なんて幸せだろうとしみじみと思う。
あの日、たっぷりと釘を刺された俺達は今も清く正しい男女交際を続けている。
もちろん言われなくても彼女が在学中にそんなことをするつもりはなかったから、当然と言えば当然のことなんだけど。

「まあ、余計な心配を掛けたくはないしね」

彼女は冷めた気持ちで両親を見つめている一方で、その両親に気に入られたい、認められたいという思いも抱いている。複雑に絡み合った感情はすぐになんとかなるものではなく、時間を掛けて解決していかなければいけないと感じている。

「でもいつかは言わなくちゃいけないしなぁ」

そう遠くない未来に、きちんと千津さんの両親とは向き合わないといけないとは思っている。彼女の方はそんなに先のことまで考えてはいないのだろうけど、自分としてはこの手を放すつもりはないのだから、当然将来のことを含めて考えてはいる。
あの人が義理の父になるのだと思うと、少しだけ気が重いけれど。

「こういう話になったことないからなぁ、うち。兄さんは兄さんでまったく浮いた話もないし、妹の方もねぇ」

一度だけあった彼女の妹は、年相応の素直そうな少女だった。あの雰囲気にはまだ恋愛といったものが似つかわしくなさそうで、テレビなどではやりのタレントに夢中になっている方が似合いそうだと確かに思う。

「でもまあ、あんまり煩くは言わないんじゃない?先生だし」
「家庭教師だから、だよ。教え子に手を出しただなんて、やっぱり後ろめたい、って、いや、後悔しているわけじゃないよ?もちろん」

なんとなく表情が曇ってしまった千津さんに対して言い訳がましい言葉を続ける。
後悔しているわけじゃなく、やっぱり彼女は教え子で年下で、ブレーキを掛けなければいけない自分が率先して暴走していたところも否めなくて、つまるところ合わせる顔がないというのが正直なところなのだけれど。

「うーん、でも、ほら、二人とも喜んでたから、なんとか合格できたし」

そう、あの日晃氏に突きつけられた条件は三つ。一つは就職してどこか遠くへ行きたいと主張していた千津さんをなんとか進学させること、二つ目は俺が将来を見据えて就職なり進学なりをきちんとすること、最後は進学しても千津さんは実家から通うこと。
最後の条件には最後まで抵抗していた彼女も、結局は黙っている事を引き換えに受け入れることにした。
たぶん、晃さんは彼女があの家から出たがっていたことを知っていて、敢えてあんな事を言い出したんだと思う。そうでもしなければ、彼女はさっさとあの家を後にして振り向きもしないかもしれない。おまけに、その先には自惚れているかもしれないけれど、俺がいるだなんて、普通の兄でも我慢ならないだろう。
だけど、正直俺としてもこれでよかったと思っている。
少なくともそれまでとは違って、家族の中に自分のことを真剣に考えてくれる人がいるということを知ることができたのだから。だから、もう少しだけあの場所で家族と暮らすのもいいことだと思う。自分としては少し寂しいけれど。

「合格できたのは千津さんががんばったからだよ」
「いや、先生あの成績から復活したのは奇跡だって、絶対」
「元々千津さんは頭は悪くないから」

色々、色々なことがあったから。
ふとあの時の彼女を思い出す。
秘密を抱え、自分だけでなんとかしようと必死であがいていた彼女。
そんな自分を微塵もみせないようにがんばっていた彼女。
もう、そんな思いは二度とさせないから。

「暗黒の日々も漸く終わりましたからね、4月までは千津さんといっぱい遊ばないと」

修論があまりにも忙しくなったため、結局家庭教師は去年のうちに終了している。それからはお互い忙しかったためこうやってのんびり会えるのは本当に久しぶりだ。

「そう、だね。なんか久しぶりで緊張する」

多少痩せた以外は代わり映えのしない自分と違って、彼女はほんの僅か目を離したすきに、ますます綺麗になっていた。
元々顔立ちそのものは整っていたけれど、どちらかといえば冷めた印象を与えていた彼女が、華が綻ぶように笑う。
この笑顔を一番近くで見られる特権に感謝する。
会えない日々でささいなことにくよくよして、年上だとか年下だとか、色々悩んでいた心が彼女の姿を一目見るなりどこかへと消えて行った。
やっぱり俺は千津さんのことが好きなのだと。

「これからもよろしく……、修治さん」
「こちらこそよろしくお願いします」

照れたように俺の名前を呼ぶ。
その声にすら、眩暈を起こしそうになる。
繋いだ手から彼女の暖かさが伝わってくる。
少しだけ力を込めて彼女の存在を確かめる。
彼女が笑う。
俺もつられて笑顔になる。

自分のとなりがいつまでも彼女の居場所でありつづければよいと思いながら。



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完結/11.10.2006

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