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 いつもなら二人で夕食をとるダイニングテーブルに不機嫌な顔をした男と女、さらには戸惑っている男が着席している図というのは、あまり絵になる物ではないと思う。
少しだけネクタイを緩め、腕組みをしながらじっと私の顔を睨みつけている兄は、やっぱり眉間に深くて鋭い皺を寄せたまま。

「どういうことだか説明をしてもらいたいんだが」

それ以外に聞くことは確かにないのだろうけれど、単刀直入に訊ねられる。確かに兄には心配をかけどうしだけれども、先生のことに関してはとやかく言われる筋合いはないと思っている。

「どうって…」

さっきまではあれ程威勢良く言葉が飛び出したと言うのに、いざこの場にたつと言葉がでなくなる。
兄が恐いわけじゃない。
ここで、第三者の前で先生と私は特別な関係にあるのだと断言できる自信がないのだ。
先生のことは好き。
先生も私のことを好きだと言ってくれた。
だけど、それを声に出して言い切ることができないでいる。
信用していないわけじゃない。
先生は私にはもったいないぐらい優しい人で、傷付いて立ち止まっていた私の手を引いて一緒に一歩を踏み出してくれた。私は今もその手を放せないままだ。
こんなにも弱虫で卑屈な自分に先生が釣りあうはずは無い。心のどこかでいつもいつもそんなことを感じている。
だからこそ、こんな風に兄と対面しながら口に出す事を躊躇ってしまうのだ。
三人に再び沈黙が訪れる。
こちらを睨みつけたままの兄は、私から返事が返ってくるまでは絶対に逃がさない構えだし、先生は先生で心配そうにこちらを見守っている。
先に先生が口を開こうとしたのを制す。大きく息を吸って静かに吐き出す。嘘や誤魔化しのない本音を曝け出そうと決心をする。

「私は、この人が好き」

先ほどからつなぎっぱなしの先生の右手を軽く挙げる。
その言葉を受けて、兄の眉間の皺はより一層深いものとなる。

「……おまえの気持ちはわかった。だけど賛成するわけにはいかない」

兄が苦渋の決断でも下すかのように二人を見渡しながらゆっくり静かに言葉を吐き出す。

「兄さんの賛成がいるとは思えないけれど」
「おまえは高校生で未成年で、おまけに杉野君は親父の教え子だ。許されるわけがない」
「法律を破ってるわけじゃないんだし、それが何?」

先生は私よりずっと年上で、確かに父親の職場の学生さんだ。そうして私は彼にとってみれば上司の娘のようなもの、だからといって反対されるいわれは無い。

「そんなわけにはいかないだろう。過去の事もあるんだし」
「それこそ先生とは関係ない」
「弱っているおまえにつけこんだとしか思えない。そうじゃなくてもお前の年頃は年上に憧れを抱きやすいんだから、そんな一過性のものに浮かれている場合じゃないだろう」
「私が先生に抱いている思いは恋愛じゃないとでも?」
「そこまでは言ってない。だけど、勘違いってこともあるだろう。取り返しがつかなくなってからでは遅いんだ」
「勘違い?勘違いって何?」
「ものの例えだ。でも、そうじゃないとなぜ言い切れる」

あまりの言われ様に目の前が怒りで真っ暗になる。
落ち着かせるために大きく深呼吸をし、怒鳴り返してやろうと準備をしていると、私よりも先に先生の冷静な声がダイニングに響いた。

「許される関係じゃないことは承知しています」

兄の視線が私から隣に座っている先生へとシフトする。

「だけど、僕は千津さんが好きです。例えどんなことがあっても」

決意を込めたような先生の声が私の心にすっと染み込んでいく。あれほど兄への怒りにたぎらせていた心が一瞬で凪いでいくのがわかる。 やっぱり、先生は私の精神安定剤だ。

「君達二人の関係を父に報告すると言ったら?」

まるで脅しのような言葉に背筋が寒くなる。
彼は父の教え子で、どんなに私に対して無関心でも、こういう関係になることが褒められたモノではない事は、いくら私でも理解している。もしかすると先生は研究室を追い出されるかもしれない。大学のシステムは良くわからないけれど、担当教官に怒りをかってそのまま無事卒業できるとも思えない。
だからこそ兄のその言葉は十分に二人に対する牽制となりうるのだから。

「かまいません。それで大学をやめるようなことになっても、後悔はしません。そんなものよりこの手を放して再び彼女を傷つける人間になることに耐えられない」

左手から先生の体温が伝わって、とんでもないことを言い出しているのに、それなのに嬉しくて、最低だと思いながらもそんな風に思われている自分が嬉しい。呆気に取られたのか、兄は先生を凝視したまま固まっている。

「兄さんは何の権利があって先生から研究を奪うわけ?」
「権利って…」

嬉しさとともに兄への怒りがぶり返す。だけどここで妥協するわけにも、先生に大学を辞めさせるわけにもいかない。

「だいたい兄さんたちは私に何があっても気がつかないくせに、こういう時だけ保護者面するの?」
「いや、それは」

過去の出来事に気がつけなかったことを後悔している兄には、こんな言葉も十分な威力をもつ。

「私が何回レイプされたのか知ってる?」

突然何を言い出すのかと、先生も兄もギョッとしている。
だけど、どうしても譲れないものが出来た私は、それを口に出して言ったところでもう傷付きはしない。

「千津、それは今は関係がないし…」
「2回よ、2回。全部父さんお勧めの学生。この間の未遂も含めると3回になるかもね」
「3回って…、おまえ」
「知らなかったでしょう?そのショックで私が味覚がなくなったことにも気がつかなかったわよねそのせいで体重が激減したことだって気がつかなかった」
「どうして言ってくれないんだ!そんな大変な事」
「言えないだけでしょ、両親はろくに家にいないし、兄さんも寄り付きもしなかったし、妹は下宿でいない。この家に私はいつも一人ぼっちだった」

こうやって並べ立ててみると、私は思ったよりも寂しがっていたことに気がついてしまった。平気なふりをして、一人の寂しさに気がつかないようにしていただけなのかもしれない。

「それに、おばあちゃんにだっていじめ倒されていたけれど、それにも誰も気がつかない」
「ばあちゃんって、そんな、お前の気のせいじゃないのか?あの人は…」

それだけ言ったところで思い当たる節がやっぱりあるのか、黙り込む。

「兄さんはおばあちゃんに育てられた大事な長男だもの、優しいに決まってるじゃない。だいたい、誰の子かわからないだの、男に媚びを売る顔だの、実の孫に向って言える?普通」
「……」
「言えないわよね、孫じゃなくったって言えない、こんなこと」
「そういえば、確かに千津に対しては素っ気無いところはあったけど」
「素っ気無い?そんなもんじゃない。その能天気なところが兄さんのよさでもあるけれど、度が過ぎればただの馬鹿にしか思えない」
「だったら父さんにでも母さんにでも言えばいいじゃないか、どうして黙っているんだ?」
「言える訳ないでしょ、父さんはナチュラルにマザコンだし、そのせいで兄さんのお母さんに逃げられたんじゃない。おまけに母さんは自分に災難が降りかからないように私を生贄にしていたんだから、言ったところで改善されるわけない」
「でも!」
「私はそうやって生きてきた。ここには私の居場所はないんだってずっとずっと思ってた」
「千津…」

ふいに頬にやわらかな感触を覚える。
それはいつの間にか流していた涙に触れる、優しい先生の指先だった。

「千津さん」

心配そうににこちらを見つめる先生の顔に、一気に涙腺が緩む。
そっと私の頭を引き寄せ、私は暖かい先生の胸へと抱きとめられる。
先生の心臓の音を聞きながら気持ちを落ち着かせよう試みる。

「私から居場所を奪わないで」

懇願ともいえる言葉は、ゆっくりと兄へと伝わって行き、やがて兄は小さく何かを呟いた。


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11.10.2006

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