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穏やかな雰囲気に包まれて、なんとなくこのままここにいてもいいかもしれない、などと思い始めている自分が恐い。
あれ程逃げ出すことばかりを考えていたというのに、信頼できる人が側にいというのはこれほど大きなことなのだと痛感する。
だからこそ、これ以上はだめだと、意識的にブレーキを掛けてしまう。
これ以上この人に頼ってしまえば、またあの時のようになる。
先生とあの人はまるで別の人間だというのに、昔の出来事が私を臆病にする。
好きだと言われて、嬉しかった。
なのにそれ以上に恐かった。
あの時みたいに盲目的に溺れてしまう自分の存在が。
相手も状況も異なれば、違う結果が待っているかもしれないのに、やっぱり躊躇ってしまう。
これも一種の逃げなのだと思う。
逃げ癖がついた私は、どこまでも真摯なこの人を心の中で裏切っている。
「千津さん?」
「すみません…」
いつのまにか考え事をしてすっかり手の方が留守になっていたらしい、筆記具を持つ手は止まり、たぶん視線はどこかあらぬ方を向いていたのだろう。
これ以上考えても仕方がないと、目の前の課題に乗り出す。
出来の悪さに微妙にコンプレックスを抱いていた勉強も、今ではそれほど嫌いなものではない。
それもこれも目の前のこの人のおかげだと、家庭教師としての部分に力を込めて感謝する。
「やっぱり、進学した方がいいと思うんだよね」
「でも、頭悪いし」
「悪いんだったらなおさらもっと勉強するためにいかないと」
「お金だって…」
「いや、それはあの二人は好きで共働きしてるんだから、いいんじゃない?それぐらい。幸いと言ってはあれだけど、お兄さんとは年も離れているから、準備も十分できているだろうし」
口を突いてすぐ出てくる問題は、ほんの表面的な問題でしかない。
本当はもっと単純だ。
だけど、それを口に出して知られるのは恥ずかしい。
ただ、この家にいたくないから、だなんて。
これ以上ない程色々なことを知られているというのに、こんな子供じみた思いを知られたくないなんて、矛盾している。
誰もいないこの家に一人でいるのはただ辛いのだと、誰にも必要とされない家庭にはいたくないのだと、吐き出してしまえばあまりにも自分が惨めで、同情されたくないのだ。少なくともこの人にだけは。
例え彼の持つ好意が同情からきたものだとしても、これ以上哀れまれるのはごめんだ。
「外に出たいんだったら下宿するほどの距離にすればいい」
「や、でも…」
下宿をすればお金がかかる、私はこれ以上両親に借りを作りたくはない。
こんなことを思う娘は酷薄だと言われるかもしれない。
だけど、小さい頃からいらないものとして祖父母に扱われていた私には、こんな思いが消えてなくなりはしないのだ。
肉親ですら心の底から頼ることはできない。
「あ、でも、あんまり遠くへ行かれると俺が寂しいか…」
照れているのか少しだけ頬が赤い。
雰囲気に飲み込まれたのか、私まで照れてしまう。
先ほどまで刺々しい思考に支配されていたものが、あっという間に暖かなものへと変化している。
「でも、先生もうすぐ就職しちゃうじゃないですか」
修士一年生の彼は大学院を出て就職する予定だといった、残された2年弱が長いのか短いのかはわからない。
だけど、家庭教師とその教え子と言う関係は少なくともその期間内には終了してしまうのだ。
後に残されたものは、きっとなにもない。
私達の関係はそれ以上でも以下でもないのだから。
「この辺で就職するから大丈夫」
何が大丈夫なのかがわからなくて首を傾げてしまう。
「千津さんは心配しないで、チョクチョク遊べるから」
「遊べるって…」
「それとも嫌?一緒に遊ぶの」
「嫌じゃないけど」
そう言われれば、先生とプライベートで会ったことはなかったのだと、間抜にも気がついてしまった。
夏休みのあれも一応補習という名の授業だったし、それ以外で私がこの人と相対する事はなかったはずだ。例外があるとすれば勉強の後に一緒に食事を取る時間ぐらいだろうか。
「決まりだね」
「でも」
にっこりとその先を否定するように微笑まれてしまえば、私はもう何も言えなくなってしまう。
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