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通常授業となってからだいぶたつ。
あれから二人の間にとりたてて何かがあるはずもなく、言っただけで満足したのか、俺自身も屈折した思いが溶け出したらしい。
口に出してみれば、どうして今まで気がつかなかったのかわからないほど単純なことで、彼女が好きなのだという事実はあまりにもしっくりと自分の中へ馴染んでいった。
どうして、だとか、どこが、とかそんな理屈めいた思いはどこかえ消え去り、ただただ彼女が好きなのだというシンプルな思いだけが残った。
枯れ果てた仙人でもあるまいし、そういうことを夢想しないわけではないけれど、思いに蓋をしながら過ごしていたときに比べれば、遥かにましになっている。
やはり、人間無理をするとよくないのだと、そう開き直ることにする。
カレンダーを見ればもうすぐ夏休みも終了らしい。
実験とバイトに明け暮れ、結局夏らしい思いは学食で食べたそうめんだけ、という悲惨なことになってしまった。
だけど、これからの人生においても一番思い出深い夏になるのは間違いないだろう。
例え今抱える思いが叶わなくとも。
「結局誰もいないんだね」
「はぁ、兄は来るとか来ないとかごちゃごちゃ言ってたような気もしますけど」
「妹さんは?」
「祖父母のところじゃないですか?よくわからないけど。お小遣いが欲しいときにちょくちょく遊びにいってるみたいだし」
「教授は相変わらず学校だし、とするともう一人の先生も…」
「大学ですね、たぶん」
「見事にばらばらの夏休みだね」
「いつものことですから」
「来年は進路の事で忙しいだろうし、その次はひょっとしたら千津さんはいなくなる?とか」
「まあ、たぶんどっちでも家はでるでしょうね」
「そっか…」
家庭教師が来年いっぱい続いたとしても、その先は会えなくなる確率が高くなるだろうな、と、そう思いながらもへらへらと笑顔をみせる。
相手が高校生だとか複雑な事情を抱えているだとか、言い訳はできるけれど、つまるところ千津さんそのものに嫌われたくは無い。そんな思いから、あの日からずっと露骨に好意を見せる事ができないでいる。
たぶん、俺を知っている人が見れば露骨な態度を取っているのかもしれないけれど、それでも、努力して先生らしく振舞っている…つもりだ。
「進学はしないの?」
「ええ、まあ」
何かになりたいという強い思いがあれば、そこへ繋がるルートへ進むのは得策だとは思うけれど、彼女はとりあえずこの家から外へ出るという目的が第一義で先のことを決めている。
その強烈な自立心が10代らしい反抗期や思春期めいた思いから来ていればいいのだが、彼女の場合は少し複雑過ぎる。
なにより一番そういうことに関しては理解していなければいけない両親が一番無関心なのだからどうしようもない。
せめて俺だけでもと、彼女のこれから長い人生について考えるように促すのだけれど、それでも家を心置きなく出て行きたいという思い以上に重要な事は思い浮かばないらしい。
「先生はどうして進学したんですか?」
逆に彼女から質問を返されて閉口する。
どうして、と言われても。なんとなく、としか答えようが無い自分が不甲斐ない。
俺は彼女の年の頃には、皆と一緒に進学することしか頭に無かったのだから。
「でも、勉強はしておいた方がいいよ、将来どんなことになっても基礎があるっていうのは邪魔にはならないことだから」
これは登校拒否をしていた同級生からの受け売りそのままだけれど、今では嫌と言うほど納得している。
彼は高校2-3年とだるいから、という理由だけで学校に行かなかったらしい。元々頭は良かったから、受験テクニックだけを習得して同じ大学に来たのだけれど、いざ、大学の授業を受けてみて、自分の基礎学力の無さに愕然としたらしい。
確かに彼は驚くほど簡単な問題ができないこともあれば、どうして、というほど難しい問題を手品のように解いてみせる時もあった。
基礎がないからそこから先上に何かを積み上げようとしても、不安定で、少しの衝撃でも上から荷物が落ちてきてしまう。
上手く切り抜けるには結局土台からやり直すか、アクロバット的な動きを習得する他なくなってしまう。
彼は土台からやり直す方法を選んだと言っていたが、大学の勉強と並行しての基礎の習得はかなり大変だったらしい。
そんなことがわかっているからこそ、彼女には今こうして基礎を教えている。
将来を決めるにしても大学や短大に進んでからでも遅くはないと思うのだけれど。
頑固な彼女はなかなかそれだけでは納得してくれない。
「お兄さんと暮らすっていうのは?」
彼女はとりあえず兄の事は嫌いではないらしい。
兄にしても妹が手元に来るのはやぶさかではないだろう。
「嫌です。あんなにだらしない人の家へ行ったら、家政婦になるのは目に見えているじゃないですか。自分の面倒なら自分でみますけど、兄の面倒まではごめんです」
あっさりと、拒否されてしまった。にべも無い態度で。まあ、あの職種の人間がそれらしい生活をしているとは想像できないけれど、俺に見せたシャープな一面とは異なり、彼女の兄はかなりステレオタイプの独身生活を謳歌しているようだ。
「両親は賛成なの?」
「じゃない?たぶん」
念のため両親の意図を聞き出そうとするも、あっけなく返されてしまった。深くつっこんでもそれ以上の答えは出てこないだろう、きっと。
ならば、と。願望のような提案が口から零れ落ちそうになり、慌てて引っ込める。
そんな都合のいい話をしていいわけがない、警戒されるか軽蔑されるかそのどちらかしかまっていない。彼女のことを思っている俺としてはそのどちらもごめんだ。
たとえどれだけそれが本心だとしても、一緒に暮らそう、だなんて。
口に出してしまえば実行してしまいたくなる。
無理やりにでも彼女を奪い去りたくなる。
幾度となく理不尽な力にねじ伏せられてきた彼女に、自分までもが同じ事を繰り返すことはできない。
笑っていて欲しい。
そう、彼女にはいつも笑顔でいて欲しい。
それが例え俺の隣ではなくても。
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