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「暑いけど」

自分の下宿先に連れて行くわけにもいかず、結局二人でやってきたのはグラウンドに近い休憩スペースだ。
学内にはところどころに小さな公園のような芝生のスペースが存在し、その上には東屋やベンチなどが置いてある。そのせいか、数少ない女子学生たちがお弁当を食べている姿を見かけることがままある。
当然今は夏休み中のため、心地よさそうな木陰の下のベンチにも人影はなく、一休みしているのか蝉ですらその鳴き声が静かである。

「ゆだるとなんだから」

よく冷えたペットボトルのお茶を手渡す。
彼女はゆっくりとした動作でそれを受け取り、早速蓋を開けて水分を口に含んでいる。

「おいしい…」

コクリと形の良い喉を鳴らす。
急激に気温の高いところへきたせいか、額から汗がつたわっている。

「隣…いい?」
「ええ、もちろん」

男である自分が隣に座ることが躊躇われ、それでもずっと立っているのも辛く、思わずそんなことを訊ねてしまう。
彼女はどうしてそんな事を聞くのか、といった風に穏やかに許可を与えてくれた。

「先輩、やめたみたい」
「うん」

聞き返さない彼女の返事に、彼女が理由を知っていることがわかる。その原因に彼女が関わっていることも。

「ごめん、あんな事言ったけど、話したくない、よね」

勢い込んでココまで連れてきたはいいけれど、あまりにデリケートな問題は俺のような大雑把な人間が掘り返していいことじゃない。
激高した頭を休めてみれば後悔しか残らない。

「いえ、先生には聞いて欲しいと思ってましたから」

なのに、そんな彼女の答えを聞いて思わず口元を綻ばせそうになる。
彼女に頼られるのが嬉しいのだけど、ここで笑っては不謹慎すぎる。

「昨日あの人が来て…」

そこから語った事実は、大よそ俺が想像していた最悪の出来事と一致していた。
穏やかで誠実そうな先輩がそんなことをするなんて、以前の自分なら信じられなかっただろう。
だけど、彼女と関わった瞬間の先輩の目の奥には、どす黒い何かが潜んでいたのを知っていたから。

「兄さんが来てくれたから」

施設が休止となり、夏休みを取るしかなくなった彼は、死んだように眠ったのち、ようやく午後になって実家へと辿り着いたらしい。
もう少し早ければと、そう思いはするけれど、それでも最悪の結果になるよりはずっといい。

「それほど兄さんが強いわけじゃないけど、あの人よりはましだったみたい」

左手で右の手首を握り締めながら、彼女が笑う。
笑っているのに泣いているようで視線を逸らしたくなる。

「俺の前、だったよね、先輩」
「うん、去年教えてもらってた」
「そ、か…。それでもどうして今ごろ」

去年は何をされたのか、と、そんな失礼な質問が出来るはずもなく、他の疑問に逃げ込む。

「嫉妬、だと思う」
「嫉妬?」
「先生に焼きもちやいてたみたい。あの人」
「嫉妬されるような立場になんていないと思うんだけど」
「たぶん私が一番信用しているから…」

何気ない一言が自分を有頂天にさせることを知っているのかいないのか。深刻な場面だというのにそんな事を思う自分が情けない。

「それに、あの人にとって私は珍しいおもちゃみたいなものだから」

おもちゃという部分は聞き捨てなら無いものを感じるけれど、珍しいというところには共感してしまう。
彼女はこの年頃の子たちと比べるとずっとずっと理性的で大人びている。
それがどうやら家庭環境のせいだと気がついてはいるけれど、彼女の本質もそれに拍車をかけていると思う。
その外見と相まってアンバランスな魅力を彼女は振り撒いている。

「千津さんは、確かに個性的だけれど」
「私、あの人と付き合ってたの」

おぼろげに想像をしていたことだ。
だけどその事実を隣に座る彼女からもたらされるのは、予想より遥かに衝撃が強かった。覚悟が足りない、それ以上に深く俺の中に彼女のことが食い込んでいることに気がついてしまった。

「大好き、だった」

そう言ったきり、彼女は大粒の涙を溢す。
彼女はその涙を拭おうともせず、ただはらはらと零れたそれは彼女のワンピースへ落ちていった。


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9.14.2006

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