20
ゆらゆらゆらゆら。
ベッドの上は心地よくて体の痛みがなければ、そのまま全てを忘れ去りそうになる。
「千津、あいつ、なのか」
握り締められた手はとても冷たくて、いつもの兄とはまるで違う。
家族の中で唯一私をかまってくれた兄の手はとても暖かい、そう記憶しているから。
「違う…」
無理やり、じゃない。
私は彼のことが好きだったのだから。
「昔の恋人」
「恋人って言っても年が離れすぎている」
兄の言う通り、確かに年が離れている。
彼にとって私は子供過ぎるのではないかと、そう躊躇ったこともあった。
だけど、好きだと思う気持ちの前には、そんなものは小さなものだった。
あっという間に落ちた恋。
今思えばタイミングよく現れた彼に、ただ縋っただけなのかもしれない。
差し伸べた手を払いのけられなければ誰でもよかったのだと、そんな風にも思う。
だけど、全ては勘違いだったのだと、そういい切れればいいのに。
「好きだったの、たぶん、きっと」
勘違いならあんなに傷付いたりはしない。
「ごめん、なさい」
秘密が暴かれる。
昨日の兄との会話を思い出す。
だけど、それよりもずっとずっと心が痛い。
心配かけたくないだとか、そんなことじゃなく、この人にだけはこんなことを知られたくなかった。
「最初は冗談だと思ったんだけどね、高校生だし、それに親が親だし」
私の両親の職業にどれほどの価値があるのかはわからないけれど、研究者を志す人間にとってどんな意味を持つのかがわからないほど馬鹿じゃない。
実際に祖母は教授の娘だ。あの当時はまだまだ見合い結婚が多かったとはいえ、この業界の人間は身内同士で引っ付く事が多いらしい。現にまだまだひよっこの兄にもその手の縁談の話は途切れることなく湧いて来るようだ。
「でも、その時はあの人しか頼る人がいなかったから」
両親も兄もいない、妹は世話をする側であって何かを相談する相手ではなくて、母方の祖父は私を心配していてくれたけれど、もう年老いた祖父に余計な心配をかけるわけにはいかなかった。
「お父さん、教授にでも話せばよかったんだよ、早く」
「そんなこと、言えない」
信頼していないとか、頼っていないとかそんなことじゃなくても、あんなことをされただなんてとてもじゃないけど言えない。
「だったら、高橋先生にでも」
「母さんにだって言えない。ただでさえ私だけ家族から浮いているのに、これ以上そんな目で見られたら耐えられない」
そうでなくとも私は母にとって重荷だと言うのに、迷惑をかけることはできない。
それに、祖母からの執拗ないじめに関しても、たぶん母は気がついていたのだ。なのに、知っていて知らない振りを決め込んだ。
私に祖母の標的が向いてさえいれば、自分に矛先が向くことがないことを知っていたから。だから私を差し出した、保身のために。
そんな人に相談なんてできるはずがない。
先生は私の家族について知らないのだから、当然そんな言葉が出てくるのだろう。
だけど、ついきつくあたってしまう。いつもならそんな八つ当たりめいたことはしないというのに、昨日の今日だということと、やはり私は先生に甘えているのかもしれない。どこまでも優しいこの人に。
「だから、世界中でたった一人の味方だと、そう思ってた」
あっという間にのめりこんでいった二人の世界。
そういう関係になるのに時間はかからなかった。
だけど世界は反転する。
「初めてじゃなかったのかよ」
そんな風に言い捨てて彼はさっさと服を着て帰っていってしまった。
もっとひどい言葉を投げつけられた気もする。
けれども、その時には残酷な記憶を飛ばす事にも慣れきっていて、幸いなことに私の脳裏にはこの言葉しか残っていなかった。
この間彼の顔を見て、何を言われたのかを鮮明に思い出してしまったけれど。
相変わらず優しそうな顔をしていた。
だけど、その笑顔が薄っぺらい仮面のようだとも思った。
今ならばそれに気がつくこともできたのにと、後悔もした。
心配そうにこちらをのぞきこんでいる先生の顔を見つめ返す。
ああ、私はこの人を知ったから、あの人の笑顔がうそ臭く感じたのだと、そんな事を思った。
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