12
今日も兄の姿はここにない。
言い訳めいた伝言が携帯に吹き込まれてはいたが、元々期待していなかったから詳しい内容など確認もしないで消去した。
「お兄さんは?」
「さあ?会議じゃない?何かっていうと会議が始まるらしいし」
彼らの仕事の半分は会議に費やされているというのは大袈裟かもしれないけれど、ステップアップすればするほど会議の数も内容もシビアになっていくのは確からしい。兄などはせいぜい平社員といったところだけど、それはそれで"ゴミ処理委員"といった小学生の係のような委員会の担当を押し付けられたりする。通年通り行なえば良い仕事にも会議はついて回るのだと、家族のそれぞれから愚痴をこぼされたことがある。
「忙しそうだからねーー、あの仕事も。うちの助手もいつ家に帰ってるんだかわからないからなあ」
「兄もいつ家に帰っているのかわからないんじゃないのかな。だから少しでも近い場所にねぐらを設けてるんだし」
「ああ、ねぐら、ねぐらね。確かに帰って寝るだけってかんじだよな」
世間話をしながら、指示に従って問題を解いていく。
例題を一問といては先生が説明を加えていく。
頭のいい人にありがちな大幅にショートカットした説明ではなく、非常に丁寧に躓きそうなところをフォロ―しながら進んでいく。
兄などにきけば、「どうしてわからないのかがわからない」と言われるのが落ちだ。そうして次に「いいから覚えろ」と言われるだろう。
「夏休み、どこらへんがあいてる?」
「めいいっぱいどこも暇ですけど」
「友達と遊ぶとか」
「あんまり」
「親戚の家へ行くとか」
「全く」
「デートとか・・・」
最後の質問を俯き加減でするものだから、おもわず顔を覗き込みたくなる。
この程度の軽口を叩くのにも頬を赤らめる先生を思わずかわいいと思う。
「相手がいません」
成人男性がかわいいなどと言われて嬉しく思うわけはないから、そのことに関しては口を噤んだまま、ありのままを答える。
「そう・・・か。ごめん、高校生ともなればそういう付き合いがあってもおかしくはないかなぁ、なんて・・・。いや、ごめん」
途中で私が口走ったことを思い出してしまったのか、突然謝られてしまう。
予想以上に善良な先生には重荷となる秘密だったのだろう、黙って俯いたままだ。
「うちの学校男子が少ないんですよ。もとが女子校だから」
勤めて平静に話題を軽い方向へと持っていく。
「そっか、俺は男子校出身だから想像もつかないけど、男が少ないっていうのも居心地悪そうだなぁ…。もっとも多くても少なくても女の子の方が強そうだけど」
「悪いというか、居場所がないみたい。男子の方が数少ないながらも寄り集まって教室の隅っこでお弁当食べてるもの」
「それは、ちょっと辛いな」
「うん、辛そう。でももてるみたいよ。どんなのでも」
「きついなぁ…。でも、わかるような。うちの大学でも数少ない女子学生はもてまくってるようだし」
「先生は?先生は気になる人っていないの?」
「気になるって・・・」
再び彼にとっては色めいた話に入る内容だったのだろう、瞬時に顔を染め、あっけなく黙りこくってしまった。
「先生、ここわからない」
もっといじめてみたくもなるけど、かわいそうだから話題を本題に戻す。
ホッとしたようなため息をついて、いつもの真面目な表情へと切り替わる。
この表情も好きかもしれない。
ふいに、そんな感情が湧いて出た。
頼れる人、信頼できる人、優しい人。
そんな風に先生のことを見てはいるけれど、こんな思いがわいてきたことはない。
初めての感覚に混乱する。
以前抱いたことがある身を切られそうな程切ない思いとはまた違う。
徐々に徐々に距離を縮めていき、辿り着いた安心感。
だけど家族といるのとは異なる緊張感。
私はこの人のことをどう思っているのだろう。
この人の目に私はどんな風に映っているのだろう。
そんなことまで考えてしまい、あわてて思考を打ち消す。
彼にとって私はただの教え子であり、担当教官の娘という微妙な立場にある人間だ。
しかも、あんなことを口走ってしまっている。
八つ当たり気味に吐き出してしまったことをこんなところで後悔するはめとなる。
でも、そんな風に思うことすら自意識過剰に思えてしまう。
先生はその存在自体が私にとって唯一の救い。
助けを求めることも、手を差し伸べられることもないけれど。
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