13
どうしてこんな時期に設定してしまったのかと、恨み言の一つも言いたくなる。
自分で決めたのだからもちろん独り言だけど。
7月の終わりまで涼しかった気温も、8月の訪れとともに一気に上昇し、地球温暖化をじっくり身に染みる程夏らしくなった。
彼女との約束はお盆前の一週間。
エアコンなどない下宿よりは図書館の方がましだろうと、Tシャツに単パンといった格好で登校する。
自転車で10分という短い登校時間にもかかわらず、すでに額には玉のような汗が吹き出ている。
首に巻いたタオルでそれらを適当に拭う。
たまらない、と呟きながら図書館を目指す。
時間より早く来たのは、あれ程の容姿の少女を長時間こんなところに一人で立たせておいては危険だと思ったからだ。
公の場でまさか強引なことはしないだろうが、それでも嫌な思いはするかもしれない。
ましてや、彼女は。
そんなことを考えていたら、彼女の姿が目に飛び込んできた。
隣に並んでいる男の姿も。
その男の取る距離がやけに馴れ馴れしく、彼女の表情が見たこともない程険しいということがわかる。
慌てて駆けつける。
たぶん、ナンパだ。
それ程長い時間待たせたわけではないだろうに、早速変な虫が寄ってきた事に不機嫌となる。
「おまたせ」
大きな声をかけ、左足から彼女と男の間に割ってはいる。
突然侵入してきた自分という存在に、慌ててナンパ男が数歩後ろへとさがる。
彼女の表情は強ばったままだ。
顔色も悪い。
この暑さにやられたわけじゃない。
その証拠に俺の腕を強く握った彼女の右手は驚くほど冷たい。
「杉野・・・」
彼女の様子にばかり気をとられ、ナンパ男には意識が向いていなかった。
ふいに自分の名前を呼ばれ、素直に振り返ると、馴れ馴れしく彼女に話し掛けていた男の正体が露呈した。
「先輩」
ここにはいるはずのない人間が、今まさに目の前に現れた。
言葉が出ない。
彼は今実家に帰っているはずなのに。
「ちょっと調べ物があって・・・」
「実家に・・・、実家に帰られてると思ってました」
なんとか搾り出した声は、明らかに動揺している。
「うん、まあ。帰っても何もすることがないし。それより帰ってる場合じゃなくなって」
そう言われれば先輩は、結果を上手い事出せなくて、苦しんでいるらしいと聞いたことがある。
ドクターコースにもなって、結果が出せないのにのんきに家へ帰っているわけにはいかないだろう。
自分の浅知恵に眩暈がする。
彼女と彼を会わせたくないための日程が、初日で崩れ去る。
これでは二人きりで彼女の家で勉強をしていた方がましだ。
いや、それも今の季節ではどこまで自分が持つか怪しいものだが。
「そんなに睨むことはないだろう、二人して」
いつのまにか彼女の感情にリンクしていたのだろう、彼女とほぼ同じような表情をしていたらしい。だけど、ただの後輩として知る先輩の表情とは別に、ただの男、もっと言えばオスのような匂いを漂わせたこの人は同性である自分も嫌悪してしまう。彼女との間にあった出来事を抜きにしても。
「元気そうね」
この日初めて聞いた彼女の声は、事務的で機械が話しているみたいだ。
「まあ、ぼちぼち、かな」
それに答える先輩は、やっぱりどこか歯切れが悪い。
でも、よく考えれば、二人の間に起きた出来事を考えれば、こうやって彼女が言葉を掛けることすら不思議なことだ。
だけど、彼女の傷が完治していないことは、腕を握る力の強さではっきりとわかる。
「ごめん、悪いけれど先に中に入ってゲートの前あたりで待っててくれる?」
ギュッと握り締めていた右手を放し、じっとこちらの目を見て、ようやくうっすらと笑顔を見せる。
彼女は大人しく俺の言う事を聞いてくれて、自動ドアの向こうへと消えて行った。
「入れ込みすぎじゃないか?ただの家庭教師なのに」
「家庭教師だから勉強を教えるんですよ」
彼女が視界から見えなくなったことで、いつもの先輩へ戻る。
「あの家で二人きりは辛くなったか?まあ、吸い込まれそうな魅力のある子だけど」
「俺は先輩とは違います」
やましいところがないわけではないけれど、俺は彼とは違う。
理性を吹き飛ばしてあんなことを彼女には出来ない。
「どうかな」
あんなことをしたというのに、まるで悪びれていない先輩に瞬時に怒りがこみあげてくる。
「あんないたいけの少女に乱暴するような人間とは一緒にして欲しくないですから」
胸倉を掴み、腹の底から響かせたような低音ではっきりと耳元で告げる。今まで仕舞っておいた秘密が飛び出していく。
彼はわけがわからない、といった顔をして、あわてて何かを話そうとする。
乱暴に掴んだ腕で突き飛ばす。
よろけながら数歩後退する。
ぐっと拳を握り締める。
怒りのまま殴りつけてしまわないように。
俺たちの奇異な様子に、図書館でのんびり新聞を読んでいる連中が注目しているのがわかる。
これ以上揉め事を大きくしたくない。
「もうこの話は終わりです。千津さんが嫌がりますから」
言外に全てを知っていると言い含め、呆然としたままの彼に背を向ける。
自動ドアをくぐり、瞬時に冷気が自分の身体を覆う。
入り口ゲートの前には彼女が微妙な顔をして待っていた。
気温と共に先ほどまで感じていた怒りも鎮まっていく。
次に訪れたのは自虐めいた思い。
おまえは、あんな事が言える程綺麗な人間なのか、と。
もう誤魔化せない。
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