10
暴露するつもりではなかったのに。
枕にうつ伏せになる。
家族の中では一番親しく思っている兄だからこそ、口が滑ってしまったのだろうか。
まだ、全てを内包して隠し通すには子ども過ぎるということかもしれない。
なかったことにしよう。
兄に話したあのことも、今日の出来事もなにもかも。
しばらくすれば兄も忘れ、元通りとなるだろう。
何もなかったのだ。
いや、今の私の状態全てを、それのせいにすればいい。
さらなる暗闇はもっと奥へ。
「おはよう」
「おはようございます」
朝、まだ兄が在宅していたことに驚く。
とっくに彼のねぐらへと帰っていったと思っていた。
「ごはんたべる?」
「いや、野菜ジュースをもらった」
「そう、じゃあ、コーヒーでも?」
軽く頷き、私は父と兄しか飲まないコーヒーを入れることにする。
サイフォンにスイッチを入れ、冷凍庫に仕舞ってある粉をセットする。
「身体は、大丈夫なのか」
彼なりに気遣ってくれているのだろう。素っ気無い言葉の中に色々な意味が含まれている。
「大丈夫」
新聞に集中するフリをして、こっそりとこちらを窺っている兄がかわいい。
「杉野ってやつはどうなんだ?」
「どうって、いい先生だけど」
八つ当たり気味なことをしてしまうほど、うっかりすると内面を見せてしまいそうになる相手。
接したのは僅かな時間だと言うのに、思った以上に心を許している。
そんな自分は危険だ。そうも思う。
「千津はやけに信用しているみたいだけど」
「そんなことはないんじゃない?普通だよ」
「じゃあ・・・、いや、なんでもない」
自分が知らなかったことをどうしてあの男が知っているのか。
たぶん兄はそう続けたかったのだろう。
素直すぎる先生では、知っていたことを隠しとおすことはできなかったらしい。
ここで、兄と共有する時間より、先生といる時間の方が長いから、と、そう答えたら兄はどう思うだろうか。
「なにかあったら俺に言え」
「何もないよ」
差し出されたコーヒーに口をつけ、ようやく新聞を机の上へおく。
「おまえはどうしてそんなに他人行儀なんだ?昔はあれほど俺に懐いていたのに」
「他人行儀って、別に、皆忙しいんだから煩わせないようにしてるだけ。それに兄さんに話すほどたいしたことが起こるわけじゃない」
「あれは、たいした事がないって言いたいのか?」
兄の質問には答えず静かに朝食を口へと運ぶ。
「まあいい、また来るから」
背もたれに掛かっていた上着に袖を通し、軽くネクタイを締めなおす。
たぶんそのまま出勤するのだろう。
「俺はおまえの兄だ。それだけは覚えておいてくれ」
言葉どおりなら何をいまさらと、笑い返してしまいたくなる。
なのにあまりに真剣な表情の兄に、冗談だと切り返せなくなる。
自分は一人だと子供じみた発想で哀れんでいた我が身を恥ずかしく思う。
思った以上に私は誰かに守られている。
そのことに気がつかされた。
だけど、もうこの穴は埋まらない。
「先生この間はどうも」
言外に含ませるやり口というのも褒められたものではない。
だけど勘のいいこの人はそれだけで全てを察してくれる。
どうしようもなく甘えている。
兄以外で信用できそうなはじめての人間。ある意味兄以上に素の自分を見せてしまう相手。
これ以上深入りしてはいけない。
そう思うけれど、先生の優しさにつけこむ形となってしまう。
「や、別に。うん。なんでもないから」
案の定、彼は何でもない風を装ってくれる。
「そういえば、先生夏休みは帰省されます?」
不自然に会話を変えても、数瞬戸惑ったのち、あっさりとその流れに乗ってくれる。
「んーーー。金ないからなあ。帰っても何もすることがないし」
「そういえば、先生の田舎はどちらなんです?」
「九州、福岡だけど」
「のわりには先生なまってませんよね」
「まあ、こっちきてだいぶ経つし。周りもそれぞれ違うところから来ているからなぁ」
「ああ、大学に行けばそうですよね。地元ばかりじゃないんだ」
「そうそう、だからおもしろいんだけどね。そういう千津さんは帰省するの?」
いつのまにか名前にさん付けで呼ばれている。
そんな風に呼ぶのは母方の祖父だけだから何か新鮮だ。
「帰省と言われても、そもそも家族全員が揃うのが奇跡みたいなものですからね」
「お盆ぐらいは休みだろう、いくらなんでも」
「いやー、そうとも言えないですよ。それぞれ勤め先が違いますからね、両親はできるだけお盆は休むつもりみたいですけど」
「妹さんはいるんじゃない?高校生だし」
「いても予定がいっぱい入ってますからね。あの子は友達も多いし、それに夏の間は塾に通うそうですから」
「塾?1年生だろ?」
「ええ、私と違って優秀なんですよ、彼女」
「そうするとやっぱり一人?」
「そうなりますね。結局今日も一人ですし」
昨日の今日というわけではないけれど、あれだけ念を押していた兄は今日この家にはいない。
会議が入ったのだと連絡はあった。
やっぱりと思う自分とそれ以外の感情を抱く自分が、何かを期待していたようで嫌いになる。
「じゃあ、一緒に勉強する?」
「今してますけど?」
「そうじゃなくて、集中講義のように。休みの間は授業が進まないから復習するにはいい機会だし」
「でも・・・」
「や、これはサービスみたいなもんだから、気にしないで」
「そんなわけには。先生だってお忙しいでしょうし、他にバイトもしたいんじゃ」
「金はないけど、夏の間だけって言うバイトは拘束時間が長いし、運送会社に身売りすれば一晩でそれなりに稼げるけど、倒れるのがおちだし」
「だったら父に話して正当な報酬を用意しますから」
「それじゃあ押し売りになるだろうが。んーーー、じゃあ、おいしいごはんの御礼ってことでは?」
「あんなただの家庭料理・・・」
「そういうのがありがたいんだよね、一人暮らしには。それに一人で食べるよりもずっとおいしい」
「や、それは私がお礼を言うほうだから・・・」
「一週間ぐらいでどう?家だとあれだから大学の図書館ででも」
「部外者が大丈夫なんですか?」
「大丈夫、人いないし」
この流れはおかしい。
そう思うけれど、邪気のない笑顔、おまけに柔らかそうだけれども一歩も退かない態度で挑まれると強くは言えなくなってしまう。
私の中のどこかに、一人でいたくないと思う部分があったのかもしれない。
押し切られるように先生との集中授業が決定してしまった。
先生があの人と同じ学校だという至極あたりまえのことに気がつくのは、後になってからだった。