09
「はい、こんばんは」
いつもとは違う低音の声に思わず半歩後退してしまった。
「ごはんを食べにきたみたいで・・・」
言い添える彼女の隣にはどこかで見覚えがある男が立っていた。
あからさまに値踏みをする視線を隠そうともしていない。
慣れているのか彼女は軽くそれらをいなし、何時も通り振舞っている。
何もしていないと言うのいささかの後ろめたさを感じてしまう。
彼女によからぬ感情を僅かでも抱いてしまった、いや、現在も持ちつづけているせいだろうか。
「ごめん、兄さんが突然来るってきかなくて」
彼女の言葉に全てを納得する。
家族の中で彼だけが彼女の置かれている状況を察知したのだろう。
あの不躾な視線は彼女がもう十二分に女として見られていることを理解している。
微かでも邪な思いがよぎった人間は、大なり小なり視線を逸らしてしまいそうだ。
「優しいお兄さんだね」
「そう?シスコンだけど」
「年が離れているせいじゃないかな、自分にも妹がいたら心配性になるね、絶対」
まして、彼女のような容姿なら。
皮肉めいたことを口にはするものの、彼女からは他の家族に対するものとは異なる感情を見出すことができる。
彼女はたぶん誰よりも兄に信頼を置いているのだろう。
チリリと胸の奥が焦げる音がする。
家族を信頼するのがあたりまえのことなのに、彼女にとってそうである存在が自分以外の人間であることへの嫉妬。
いや、即座に頭の中で否定する。
そんなことを思ってはいけない。
彼女に出会ってから、時に乱れ、時に暖かくあり、感情の波に足元をさらわれてしまいそうになる。
こんな気持ちは知らない。
そうして、この気持ちをなんと名づけるのかも。
「君はM1(※)?」
「はい、そうですけど」
食卓には案の定3人で腰掛けることになった。
この4ヶ月間、妹さんが同席した事を除き他の人間がいたことがなかったから、なんとなく違和感を覚える。
「親父に聞いたところ、なかなか優秀らしいね」
「そんなことは・・・」
まるで尋問のような質問は途絶えることはない。
彼女は呆れたような諦めたような笑みをたたえている。
「俺よりも優秀な人間は当たり前ですけど、たくさんいます」
彼女が首にしていった先輩方は、学問の事だけを取れば間違いなく優秀だと言える。
彼女に対して思うところがある田崎先輩も、俺に比べれば優秀な学生だと思う。
「でも、長く続いたのは君がはじめてらしい」
「そうみたいですね、と言ってもまだ4ヶ月ほどですが」
「そう、これからも千津の面倒をみてくれると嬉しい。それほど頭が悪いわけじゃないから、って、兄馬鹿な発言だけど」
「いえ、自分もそう思います。少し遅れているだけですから、まだ十分間に合うと思います」
「そう言えば、千津。この間は聞かなかったけれど、どうして何人もやめさせたんだ?」
ピクリと彼女の眉が反応をする。
だけど、表面上は何事もなかったかのように食事を続けている。
「別に・・・」
「杉野君は知ってる?」
「いえ、特には・・・」
思い当たる出来事は、俺の口から漏れ出るわけにはいかない。
「中学の時からつけてたよな」
「その頃の兄さんは下宿してたから」
「こっちにいたとしても、とてもじゃないけど千津の顔を見れる状態じゃなかったからなぁ」
「悪い人じゃなかったわよ」
「だったらどうして。教え方が下手だったのか?」
「私程度の人間だったら誰が教えても同じだと思う」
「ならどうして」
「イタズラされたから」
あの告白のように、たいしたことじゃないような口ぶりでサラリと答える。
一瞬、その言葉の意味をわかりかね、僅かの後に理解した彼は立ち上がってテーブルを両手で叩きながら激高する。
「どうして言わなかったんだ!」
「冗談よ」
彼の怒りなどおかまいなしに、あっさりとその口から否定する。
感情の持って行き場のなくなった彼は、右手の拳を激しくテーブルに打ち付け、乱暴に座りなおす。
「そういう笑えない冗談はやめなさい」
「事実はもっと最低だから。この程度で怒り狂うのなら聞かない方がいい」
いつのまにか食事を終えていた彼女は空になった食器を手際よく片付けていく。
二度三度と翻弄された彼は、拳を握り締め、彼女の言葉を繰り返している。
「悪いけど、気分が悪いからこれで失礼します。食器はシンクに置いておいて」
「千津、どういう意味だ?」
すでに背中を向け、部屋から出て行こうとする彼女に、彼の言葉が追いかける。
「言葉通り」
素っ気無いほど短い言葉だけを言い捨て、よく知らない者同士である男二人が取り残される。
気持ちを落ち着かせているのか、彼は手を握ったり開いたりしている。
「知っていたのか?」
「…」
「否定はしないのか」
それだけで、彼女の言う最低の出来事を自分が知っていると白状したも同然だ。
誰にも言うまいとした秘密は、自分一人で抱えるには大きすぎた。
「どうして家族の誰にも言ってくれないんだ」
「たぶん心配をかけたくないのだと」
「何のための家族なんだ!!」
再び激高した彼に、では、何のための家族なのかと問いたい衝動にかられる。
全員がほとんどバラバラに暮らし、彼女はこの家に一人取り残されたまま。親ならば気がつくべき彼女の変化にもまるで無頓着。
俄かに気がついた彼にしても、たぶん、彼女が傷付いてから1年近くは過ぎてしまっている。
彼女が話さないのにはそれだけの理由があるのだ。
まして、彼女はずっと以前から疎外感を感じていたのに。
「ごめん、君にあたっても仕方がないことなのに・・・」
「いえ、気にしていませんから」
肘のついた両手を祈りの形で握り締め、手の甲に額を預けている。
顔を隠したまま彼は冷静に問う。
「君は、大丈夫なのか?」
表情は見えない。
この状態では俺に対して不審を抱くのも仕方がない。俺も篠宮教授の教え子なのだから。
「・・・はい」
反射的に肯定の返事ができなかったことに後ろめたさを覚える。
彼女に対して抱いている感情は、彼が危惧しているものとはかけ離れている。
そう言い切れるのに。
罪悪感が胸を焦がす。この秘密は守らなければいけない。