08
先生が心配をするのも無理はない。
周囲の人間誰もが、今私が置かれている状況に眉をひそめるだろう。
そういう目にあう人間がいるということを知識としては知ってはいても、どこか現実として捉えてはいないのだ、母も父も。
両親共に狭い世界で生きてきて視野が狭い部分があるのは否めない。
職場そのものが特殊な環境であるということも自覚しているのかいないのか。
元々結婚願望が無かった母は、仲間意識の延長線上で当時バツイチだった父とそれなりのお付き合いというものをしていたらしい。
前妻が残していった、もっと詳しく言えば祖母が取り上げた長男である兄を両親の所へおき、独身同然の生活を送っていたのだから、父にしてもお気楽な交際だったのかもしれない。もっとも、前妻が出て行った理由が嫁姑の泥沼が原因だとすれば、結婚に消極的なのも仕方がないのかもしれない。
大きな予算が決まった直後だったらしい。
私がお腹の中にいることが判明したのが。
結婚もしていない二人に、突然振って沸いた妊娠の事実。当時の年齢を考えれば、それから先の出産チャンスが多くは無いということもわかる。
だけど、仕事を中断することによるリスクを考えれば踏ん切りがつかないことも無理はない。
結局、ギリギリまで周囲に秘密にしていた妊娠は、私を早産することで露呈する。
「この子さえ出来なければ」
さすがに1ヶ月の休職を余儀なくされた母の呟き。
こういう出来事はいくら口を噤んでいても、伝わるものだ。まして私のような忌み子には親戚の誰かが耳打ちをするものだ。
「本当にあの子の子なのかね。ちっとも似ていない」という言葉と共に、祖母の言動は逐一まだ子供だった私へ届いていた。
まさか、私の耳に後から届けられるとは思ってもいないだろうが、その言葉は呪縛となり私にも少なからず影響を与えていった。
私生活においても私が生まれたことにより、父親との結婚、おまけにその両親との同居を余儀なくされたというおまけまでついてきた。
キャリアを諦めていない母は育児休暇を取る事など考えてもなく、まして当時の状況が恵まれていたとは言えない。
自由気ままな一人暮らしから、同居するべく一戸建てを購入。さらに生活様式や意識の違う年代との暮らしはストレスとなって母を苦しめた。
特にお嬢様育ちで専業主婦だった祖母とは相容れなかったらしい。
女が働く事を是とせず、祖母から見れば産みっぱなしにも似た所業をしている母への視線は厳しい物だったそうだ。
実のところ今でも二人の間はしっくりいっていない。
離れてしまい、たまに会う関係となれば我慢できなくもないといったところだろうか。ついでに、篠宮の誰にも似ていない私は嫌われていたし、現在も嫌われている。それは前妻似の兄にも言えることだが、ちなみに、母と前妻は雰囲気がとても似ているらしい、唯一の男、長男であるということだけで彼は尊重されている。
純粋な味方がほしかったのか、母は次の年には妹を産む。その妹は小さい頃から父親似だったらしく、当然溺愛された。
しかも、平等に扱えない自分を見せたくない祖母は、実に細かく裏でいびり倒してくれた。周囲に悟らせないし、私がそれを気がつかせても何かの理由で激しく叱られるだけだ。子供の頃から微妙な空気を悟らねばならなかった私は、おかげでこんなにひねくれた性格となってしまった。
先生がきっかけとなり、思い出したくもない事を思い出してしまった。
自己嫌悪に陥る。
「どうしたの?」
正月以来家族、母を除く4人だけれど、が、勢ぞろいしたリビングには居場所がない。
それぞれお気に入りの場所に陣取り、見たくもないテレビ番組を眺めている。
入り口で所在なさそうに立っている私に妹が声をかける。
彼女はやっぱりソファーの上に寝そべっている。
「なんでもない」
兄がこちらへ来いと手招きをしている。
たぶん大人しく座れば彼の気に入っている私の髪で遊び始めるだろう。
自室へ戻るののばつが悪く、仕方がないので言われるまま兄の隣に腰掛ける。
彼は早速髪の毛を掬い上げ、勝手に三つ編みなどをして遊んでいる。
「杉野君はどうだ?今度は気に入ってくれたみたいだけど」
「いい先生だと思う」
4月から習い始めてかれこれ4ヶ月近くたっている。
これほど続いたことは初めてで、しかも救いようのない成績はわずかながらも上昇傾向をみせている。
「杉野って?」
「家庭教師の先生だけど?」
今までの経過をまるで聞かされていなかった兄が、気に入らなそうに質問をする。
「わしのとこの学生で、なかなか優秀なやつなんだけど、千津が気に入ってくれてよかったよかった。今まではどんなのを連れてきても気に入らなかったみたいなのに」
「ちょっと待てよ」
もてあそんでいた髪を離し、ハラリとそれらが首筋へと落ちてくる。
「親父のところって男しかいないだろ?」
「なかなか女の子はなぁ・・・。ああいう汚れる仕事は嫌がるし」
「そうじゃなくて、なんで千津の家庭教師が男なんだよ」
「だって、男しかいないし」
「はぁ?ただでさえ千津が一人きりになることが多くて心配なのに、何であえて若い男と二人きりにするようなまねをするわけ?」
「いやいや、彼らは大学生だし千津はまだまだ子どもじゃないか」
「ばかばかしい。俺らの同級生にとっても千津は範囲内なんだよ、十分。それをむざむざ二人きりにするなんて」
兄が隠したがっていた真実をさらりと暴き立てる。
「でも、いい人そうだったよーー、一度しかあってないけど」
偶然杉野先生を見る機会があった妹が反論をする。
そう、確かに彼はいい人だ。
今までに出会ったことのない程、彼の周りの空気は柔らかい。
「おまえは子どもだから黙ってろって」
「どうせおねーちゃんに比べたらブスですよーーだ」
思い切り舌を出して、拗ねたまま彼女はテレビへと顔を戻していく。
「親父も少しは考えてやれよ」
「そうは言っても、塾は遅くなるし」
「夜に男と二人きりになるほうが遥かに危ない」
「信用してる学生だし」
「頭脳と下半身は一致しないから」
「成績があれだから・・・」
最後の問いには、久しぶりに私の成績を把握した兄も黙るしかなかった。
だけど、夜に男と二人きりということにあくまで拘った兄は、納得をしない。
「千津、家庭教師っていつ?」
「月曜と木曜だけど」
「わかった、その日は俺もここに帰ってくるから、安心しろ」
「安心って、忙しいでしょ?」
そもそも大学までも通勤時間を少しでも短くしたくて一人暮らしをしているはず。
それにまだまだ若手である兄は、ありとあらゆる雑用に忙殺される毎日だと聞いている。
「めし食いに帰ってくるってことでいいだろう?最近ろくなもの食ってないし」
家事など出来るはずもない兄は、時々家へ帰ってきては、私が作った常備菜を持ち出していく。
それ以外は学食かコンビニか、ヘタすると食べないか。
確かに、元々細かった彼の体躯はますます削られている。
彼の提案にさすがに僅かな危機感を覚えたのか父も納得をする。
私はと言えば、守られた秘密の出来事に安堵するばかり。
だけど、兄に先生を見られたくはない。
二人でいる空間を壊して欲しくない。
そう思ったことも事実。