02
「うちの娘の家庭教師をしてもらえないか?」
教授にそう声をかけられたのは先週のこと。
あまり成績が芳しくない娘さんは、家庭教師をつけては次々とそれらを首にしているらしい。
だからこそ、修士1年の俺にまで話がくるのだろう。
本来ならもっと適任だと思える人間がいるとは思うけれど、なかなかの好条件を目の前にしては貧乏学生の俺が断れるわけもない。
以前彼女を受け持ったという人間に、聞いてみたい気はするけれど、ほとんどが卒業をしており、また、一人残った先輩も頑なに口を閉ざす。
なるほど、教授の娘の悪口は言いたくはないわな、と納得する。どれほどの我侭娘だろうと、内心引き受けたことに後悔をしたが、一度引き受けたものを授業をする前から逃げ出すわけにはいかないだろう。
最悪な状態を想定して、仕事に挑む。
だからこそ、自己紹介した彼女が、その娘さんだなんて信じられなかった。
渡された地図を頼りに、教授の家へとたどり着く。
郊外にある一軒家は周囲ののんびりした環境と相まって、とても暮らしやすそうな雰囲気を醸し出している。
緊張しながら玄関のベルを鳴らし、シャツの衿を直しながら待つ。
しばらくして現れたのが、一人の少女だったのだけど。
「篠宮先生の娘さん?」
思わず訊ねたのは、彼女の容姿が際立っていたからだ。
「お手伝いさんなんて雇えるような身分じゃないわよ」
皮肉めいた受け答えをする彼女の声は、とても涼やかでどんなに辛らつな言葉でもさわやかに聞こえてしまいそうだ。
「教授に頼まれてきたんだけど」
「杉野先生でしょう?よろしくお願いします」
淡々とそう告げる彼女は、想像していたような我侭娘とは程遠い。
どちらかというと大人びた礼儀正しそうなお嬢さんだと、素直に思う。
だけど、それでは次々とやめていった理由がわからない。
何かをきっかけにひどい癇癪を起こすようなタイプだろうかと、疑りながら部屋へと通される。
「悪いけど、私相当ばかよ?」
「え・・・、と。そんなことはないよ」
「成績を見もしないで気休めは言わない方がいいわよ」
そう言いながら、彼女は白い束を机の上へと置く。
アイスティーをストローで飲みながら、彼女の表情は変わらない。
渡された紙を一枚一枚丁寧にめくるたびに眩暈がおきそうだ。
「無理しなくていいわよ。そんな成績見たことないでしょ」
「え?えっと」
「だからこうやって家庭教師をお願いしているんだから」
そう言われてしまえばそうなのだけど、この少女の淡々とした、年に不似合いな冷静な対応と、この成績は一致しない。
「とりあえず卒業できればいいから」
「ごめん、あの、通知表みたいなのあるかな?」
どこから彼女が躓いたのかを知りたくてお願いをする。
彼女は初めて微かに笑顔を見せ、あらかじめ用意してあったのだろうか、一年生の時の成績表を渡してくれた。
「これは・・・」
「最初から躓いていたわけよね」
あっさりとそう告げる彼女は、自分の成績を恥じている風ではない。
まるでそれが当然ともいうべき態度をとる彼女に、正直どう接してよいのかわからない。
「あの、中学は?」
「普通」
その答えに少し安堵する。少なくとも小学生からやり直さなければいけないということはないらしい。
「まだ2年が始まったばかりだし、遅くは無いとおもうよ」
「そうね、そうだといいと思う」
素直な受け答えに、諸先輩方はどうして手を引いていったのかわからなくなる。
彼女は暗闇にも似た瞳を輝かせ、まじまじとこちらを観察している。
「あなた・・・、今までの人とは違いそう」
「それって・・・」
次々とやめさせられていった原因がわかるのかと思い、僅かに身を乗り出してしまう。
好奇心旺盛すぎる俺に苦笑し、さらりと話を本筋へと戻していく。
「で、何からやればいいのかしら?」
「え、っと。あの・・・」
何も考えていなかった俺は、あたりまえの質問に混乱する。
好奇心とこれは仕事なのだと戒める気持ちがぶつかりあう。混乱した頭の中を沈静化させ、ようやく最良と思える方法を口にすることができた。
「とりあえず最初からやり直そうか。時間は掛かるけれど結局早道になりそうだし」
「先生におまかせします。確かに基礎がしっかりしていないとそれから先何をやってもだめそうだから」
にっこりと微笑む彼女は些細なことでうろたえる俺なんかより遥かに大人びている。
これでどうして、あんな成績を取ってしまうのかがわからない。
まして、彼女は篠宮教授の娘さんだ。
教授の奥さんも大学の先生だし、確か息子さんも他大学で助手をやっているはずだ。もっと言えば、教授のお父さんも教授職についていたはずだ。
割と2世という存在は耳にすることはある世界とは言え、これほど同職についている家族というのも珍しいと思う。
「今日はどうしますか?」
「あ、と、今日は顔合わせ程度というお話なので」
頭の中をあらゆる疑問が渦巻いてはいるものの、まだ知り合ったばかりで詮索することはできないし、ましてこんなにデリケートな問題に深入りしていい立場ではない。
頭を切り替えて仕事に集中をする。
「調度良さそうな参考書を用意しておくから、本格的な勉強は今度からということで」
「わかりました、先生。レシートごと渡してくださいね」
にっこりと微笑む彼女は本当に大人っぽい。
「で、お帰りになります?それともごはん?」
有り得ない選択肢を提示され、一瞬回転が止まってしまった。
「ごはん?」
「ええ、ごはん」
家庭教師先で夕食を出してもらえるというのは珍しい話ではない。友人などはすし屋の息子さんを教えていて、必ずお寿司が夕食として供されると聞いている。そういう話をうらやましいと思うことはあれど、あたりまえだと思ったことはない。
ましてここは食べ物屋でも食料品店でもないのだから。
「父が、先生は栄養が足りなさそうだから、先生さえよければ何か出して欲しいって言ってたのですが」
単に貧相だと思われているようで、羞恥心が湧いて来る。確かに貧相なので反論のしようがない。
「研究室に戻られるのでしょう?」
今日は顔合わせのみと言う話だったので、夕食は大学の学食でも十分に間に合うと思い、食べてはいない。それにどのみち、こんなに早い時間に実験が終わるわけも無い、家庭教師は実験と実験の合間に行なうというのが、研究室内では普通のことだ。
「簡単なものだけど」
魅惑的な微笑を湛えた少女の提案を断れるわけもなく、あっさりと頷く。
彼女の後について行き、よそ様の台所へと入り込む。
手際よくキッチンに立つ彼女の後姿を眺めながら、勧められた椅子に所在なさそうに座ることとなる。
彼女の立てる音しか聞こえてこないこの家は、とても静かだ。
俺と彼女以外まるで誰もいないような気がしてくる。
「おまたせしました」
そう言って彼女が俺の前に次々と料理を運んでくる。
鶏肉のから揚げに大根のサラダ、ナスとピーマンの炒め物、お味噌汁などなど。学食では味わえなさそうなラインナップに単純に心が踊る。
俺の分のご飯がよそわれ、お茶が隣に置かれる。
彼女も自分の真正面に座り礼儀正しく手を合わせる。
箸を持つのももどかしいぐらいの勢いで、鶏肉を頬張る。
「おいひい・・・」
思わず呟いた言葉は、まるでがっついた欠食児童のようだ。
自分の情けない姿を想像し、急に恥ずかしくなる。
ちまちまと上品にご飯を食べている彼女の方を見ると、彼女はクスリと笑みをこぼしている。
ますます恥ずかしくなり、とりあえずご飯をかきこむ。
ふと、俺と彼女以外の人間がいないことに気がついてしまった。
だいたい、一番最初に出くわしたのが彼女だと言う事がおかしい。本来ならば母親かそれ以外でも誰か保護者的立場の人間がいるはずだろう。
父親は教授室に閉じこもって仕事をしていたから、この場にいることが出来ないにしても、どちらかの祖父母だとかそう言った人間がいないわけがない。
「あの・・・、他の人は?」
彼女は急に何を言い出すのだろうか、といった色を正直に顔に乗せている。
「いないけど」
あっさりとそんな言葉が零れ落ち、今までにない動揺が走る。
「いないって、お父さんは・・・学校だから。お母さんは?」
「大阪」
そうだ、あの人はあっちで教えていた。つまり単身赴任ということか。
「えっと、お兄さんがいたはずだよね」
「いるけど、一人暮らししているからこの家にはいない」
「おじーちゃんとかおばーちゃんとか」
「現役を引退して、ついでに孫育てが終了したのち、田舎で悠悠自適生活」
「おじさんとかおばさんとか」
「父は一人っ子で、母も一人っ子。そもそもそういう血族は存在しない」
「他の兄弟とか・・・」
「妹は寮暮らしよ・・・。身上調査?」
「いや!その・・・」
大人とは言えないけれど、子どもとも言えない彼女と、はっきりって血気盛んな年頃の男を一つ屋根の下で二人きりにするなんて、と、そんな風に思ったことすら彼女にとっては汚らわしいことなのかもしれない。
そこまで考えが至った途端、何もいえなくなる。
「気にしなくていいわよ。私は気にしないから」
まるで見透かされている。
「今までのこと聞いてない?」
「いや、何も」
たぶん、辞めさせられていった先輩方のことだろう。彼らは異様に口が堅いし、今日一日見た限りでは彼女がそう扱いにくい生徒とは思えない。
「じゃあ、私も何も言わない」
それっきり口を噤んだ彼女は、黙々と夕食を片付けていく。
それに倣って、俺もせっせと口へと運ぶ。
気まずい沈黙が流れるけれども、おいしいものはおいしい。知らず知らずの内に頬が緩んでいく。
「こんなのでよければいつでも作るけど?」
「ええ?っていうか、十分だと」
「ありがとう、嫌いなものは言っておいてね」
あっさりとこれからも夕食をごちそうになる約束をしてしまった。
家庭的な夕食にすっかり満足したのち、その家を後にする。
玄関まで送っていった彼女が、僅かに寂しそうな顔をしたのは気のせいだったのか。
これが俺と彼女の最初の出会いだった。