03

「彼女何か言ってたか?」

初対面からご飯をたかるという、言ってみればかなり図々しいことをしてしまったと、内心反省している俺に、先輩が話し掛けてきた。
バイトから帰ってきても、やっぱりほとんどの連中が研究室にたむろしており、昼間と違ってややのんびりしたムードながらも実験に励んでいる姿を見ることができる。
話しかけてきたのは、以前篠宮教授の娘さんを教えていたという先輩で、ドクターの2年生だ。

「別に、特には何も」

彼女からも先輩の言動について問われていたことを思い出す。
不自然さが目立つ。
僅かな時間しか観察することができなかったけれど、彼女はひどい癇癪もちでもわがまま娘でもなかった。
あの頃の自分と比べると酷く冷めたところがあるが、それも個人差というより性差なのかもしれない。

「そっか・・・。そうだよな」

先輩は納得したように頷く。その表情が僅かに曇っているのはどうしてなのだろう。

「彼女、元気だった?」
「至極元気でしたが」

先輩は一瞬だけ顔を顰め、次にほっとした表情を作り出している。
二人の間に、先輩と教授の娘さんの間に、何か微妙な空気が流れているのをわからないほど鈍感じゃない。
たぶん、それが彼がやめさせられた原因だと、推測することもできる。
だけど、それ以上深く追求してはいけないと思わせる何かが存在している。
彼女を知ってまだ日が浅い俺は口を噤むほかはなかった。

「元気なら、いいんだ」

そういい残すと、先輩は自分のデスクへと戻っていった。
全てを暴いてしまいたくなる衝動が駆け抜ける。
だけど、それを全て白日の下へと晒すことへ躊躇いも覚える。
なにより、一度出会っただけの少女に、これほどまで心が乱される自分を情けなく思う。





「子守お疲れ様ーーーー」

深夜になって、まだぐずぐず実験している俺に、他講座の友人が尋ねてきた。
そんな彼も今だに実験中で、こちらの研究室も電車通学の連中が終電めがけて帰って行ったのを除き、三分の一は実験中だ。

「子守って程小さい子じゃなかったけどな」
「高校生だろ?まだまだガキみたいなもんだろ」

彼女に会う前なら、あっさりと頷いていただろう。
極たまに出会う女子高生を見ても、それが自分達と同じ側に立つ人間だとは思えなかったから。

「まあ、子どもといえば子ども・・・だけど」
「教授の娘だろ?どんなの?似てるわけ?あれに」

矢継ぎ早に質問を口にする彼は、やっぱり教授の娘というところに好奇心を覚えているのだろう。
俺にしても、多少はどんな子だろうって興味を覚えていたのだから。

「似ているってことは、ない」
「じゃあ、高橋教授似?」

彼は、彼が同分野だという彼女の母親の名前を口にする。俺とは違って、彼は幾度となく教授の奥さんである高橋教授の顔を見たことがあるらしい。

「写真を見る限りでは違うと思う」

研究室紹介のサイト上で見た笑顔の教授の姿とは似ても似つかない。

「ふーーーん、じゃあ、篠宮晃とは?」

どこで調べたのかわからないが、彼はちゃっかり長男の顔も知っていたらしい。
同じ職種とはいえ、まるで別分野の彼の顔が既知だということは、わざわざ調べたのだろう。

「いや、まるで似ていない」

そう、彼女は家族の誰とも似ていないのだ。
それが今日彼女に会って驚いた一番の理由だ。
人は良さそうだけれどカバに似ている篠宮教授と、どちらかといえば痩せすぎで、神経質そうな面持ちである高橋教授の間の子どもとは思えない。長男はほどよく今風にした、限りなく高橋教授寄りの神経質そうな顔立ちをしているらしいのに。
なのに、彼女の顔立ちはそのどちらにも似ていない。

「あの二人でかわいい子っていうのは無理がありそうだけど」

そんなことはない、だって彼女は。

「普通の子だったよ、素直そうな」

事実とはある意味正反対の言葉を口にする。
吐いてしまった嘘。
なぜだか他の人には自分が彼女を見てどう思ったのかを知られたくなかった。
内心の葛藤をよそに、彼は俺の言葉に満足そうに頷いた。

「まあ、素直なのが一番だよな。教える側としては。思春期真っ只中の女の子なんてめんどくさいぜーー、ちょっと気に入らないこと言うと、すぐに天岩戸になりやがる」
「そう言う事は、しなさそう。本当にとても素直そうだし」
「それはなにより。まあ、楽な方がいいわな」

最初に彼の方へ振り返った後は、一度も目を合わせることができなかった。
わざとらしく器具を持って、実験しているフリをしてしまった。
どうしてそんなことをしたのかはわからない。
どうして嘘をついてしまったのかも。
いつのまにか彼は自分の部屋へと帰っていき、なんとなくフラスコを片手にしたままぼんやりとしてしまう。



「杉野」
「・・・はい」

先輩がこちらを観察している。
哀れんでいるような心配しているような複雑な表情をしている。

「彼女には気をつけろ」

その彼女が誰を指しているのかは、名を告げなくてもわかる。

「いや、違うな。おまえ自身に気をつけろ」

意味深な言葉だけを残し、先輩は在籍の位置に置いてある自分の名札を、帰宅の所へと移動させた。

「お疲れ様、お先に失礼」

先輩の残した言葉の意味はわからない。
だけど、小さな嘘と相まって心が混乱していく。
たった数時間しか接していない少女に、これほど気持ちをかき乱されるとは思わなかった。
今日は、驚いてしまっただけ、その内慣れると、心の中で呟きながら。
暗示にも似たその呟きは結局かなえられる事はなかったけれど。



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6.8.2006

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