「何から話せばいいのか」
そう呟いた先生がいるのは私の部屋。
血がついた先生と髪をザクザク切り取られた私を見て絶句した母が警察を呼ぼうとするのを必死で止めて、
なんとか私の部屋までたどり着くことができた。
もっとも完全に納得なんてしてないだろうけれど。
先生の心からの謝罪が効いたのか、娘の頑固さに折れたのか、その両方か。
いつもは祐君しか入らない部屋で、彼より背の高い先生が入ると、少し窮屈に感じる。
「あいつは…、さやかは確かに婚約者だったんだ、俺の」
包帯を巻いた腕をもう片方の腕で支えながら私の方を向く。
「それも、祖父同士が決めた、まあ口約束みたいなもんだったんだが」
彼の方はそれを完全に忘れていた、冗談だと思ったらしい。でも彼女の方は違った。
「お前と祐貴と同じ幼馴染ってやつだよ、あいつと俺は」
「幼馴染?」
「そう、祖父同士仲がよくって、で本当は子ども同士を結婚させようって話があったんだが、生憎男しか生まれなかったからな」
それで孫にお鉢が回ってきたらしい。
「だから、お前達を見ると、昔の自分を見ているようで気になって腹が立った」
自嘲気味に呟く。
いつもは人形のように感情のない顔が、くるくると良く動く。
精神的ダメージが大きいせいだろうけど、こっちの方がずっといい。
「まゆみさんって、だれ?」
ずっと気になっていた。
あの人もこの名前をだしただけで顔色が変わったから。
目の前の彼もその名を出した瞬間とてもつらそうな顔をする。
「真弓は…。さやかの妹だよ」
「いもうと、さん。じゃあ幼馴染なの?その人も」
静かに首を縦に振る。
「俺にとっても妹みたいなもんだと思ってた」
「思ってた?」
気持ちを落ち着けるように、ゆっくりと息を吐き出し、先を続ける。
「ずっとさやか達と一緒にいて、俺の方も勘違いしてたんだ、さやかに恋しているって」
今の祐君と私の関係が重なる。
「一番身近な異性で、血のつながりもないからなんのタブーもない」
兄弟のようだけど兄弟じゃない。でも、一番身近にいる存在。そんな関係をどんな言葉で定義していいのか。
「先生は、さやかさんのことは好きじゃなかったの?」
「いや、好きだった。違うな、たぶん今でも好きだ」
「それは異性として?」
無意識なのか私の頭を撫でながら薄く笑う。
「違う。異性としてじゃない。でも」
そう言ったまま目を閉じる。静寂が訪れる。
急にこの人が消えてしまいそうで、彼の腕を掴みその体温を確認する。
少しだけ目を開いて眩しそうにしながらこちらを見る。
「あの時はそう錯覚していたんだ」
それからどんなことがあったかは知らない。お互いが一方通行の思いは決して届くことはなくやがて破滅へと向っていく。
「先生誰を見てるの?」
懐かしそうな顔をしてこちらを見つめる。以前から感じていた。彼の瞳は私を見ているんじゃない。
「ごめん、和奈」
頬に触れる掌は驚くほど冷たい。
「俺は、真弓を好きになってしまった。さやかじゃなくて」
そう自覚した時にはすでに、さやかさんと先生は両家で公認の仲になっていたらしい。
「真弓さんは?彼女は先生のこと」
「わからない。彼女に気持ちは伝えていないから」
「なぜ?」
泣きそうな顔をした。
涙なんかでていなくても、泣いている。
そう思った時、これ以上彼を傷つけたくなくて、咄嗟に両腕で彼を抱きしめていた。
こんなシチュエーションじゃなきゃ、絶対見ることができなかった上からの眺め。
胸の中からくぐもった声が聞こえる。
「彼女は、死んだから」
これ以上話させたくない。そんな思いで腕に力を込める。
だけど彼はそのまま続ける。
「さやかは気が付いていた、気付いていたからこそ真弓を遠ざけようとしていた」
さやかさんの気持ちがわかる。
祐君が他の人を好きになったら、なんて考えただけでもバランスが崩れてしまう。
「元々真弓は身体が弱くて、両親の関心も彼女に向いていたから余計に辛かったと思う」
両親だけじゃなく最愛の人までとられてしまう、そんな恐怖が彼女の神経を少しずつ壊していく。
「先生は、先生はどうしていたの?」
私までそのときの心に捕らわれ、いつのまにか涙声になってしまう。
「何もしなかった。卑怯だが、さやかにも真弓にも正面から対峙することができなかった」
自嘲気味に答える。
優しすぎるこの人はどちらも選べなかった。こころは真弓さんに、情はさやかさんに流れていたから。
「軽蔑するか?」
「ううん」
そっと頭を振る。
「大丈夫。先生は優しい人だから」
吐息が聞こえてきそうな程近くにいる。
少しでも安心することができたなら。真弓さんの代わりでもいい、そんなことを思った。
「そうこうしているうちに、真弓が入院して病状が悪化した」
それから先はあっという間だったらしい。入院して半年も経たないうちに真弓さんはこの世の人ではなくなっていた。
「あいつのうちがバタバタしているのをいいことに俺はさやかから離れ、連絡を絶った」
元々不安定だったさやかさんはライバルである妹さんの死と恋人だった先生の失踪で完全に壊れてしまったらしい。
それから先は先生の居場所を突き止めたさやかさんがまとわりつく、黙って引越しをする、の繰り返し。
「はっきりと拒絶できたら良かったが、そんなことをできる勇気もなかった」
顔を上げそっと私の髪に触れる。
「俺のせいでこんな目にあわせてしまった」
涙目の先生は今まで見たことのないほど優しい目をしていた。
「私、真弓さんに似ているの?」
目を見開いて驚いた顔をする。
この人もさやかさんも私を通して真弓さんを見ていた気がするから。
「雰囲気がな。それにその黒髪が、真弓を思わせる」
さやかさんも私の髪を憎らしげに掴んでいた。
「今の高校でおまえを見たとき、息が止まるかと思った」
「じゃあ今は?今は誰をみているの?」
漆黒の瞳をじっと見つめる。彼の目に映っているのは誰?
「和奈、酒口和奈だ」
そう言ったきり、私を抱き寄せる。
長い長い沈黙。
こうしていることで彼が少しでも落ち着くなら。
どれぐらいそうしていたかわからない。5分だったのか1時間だったのか。
でも、その静寂は家族同然にこの部屋へ訪れる人物によって破られることとなる。