エアコンのモーター音とペンの走る音だけがする。
ここは私の部屋。宿題を片付ける彼と数学の復習をする私。彼は鈴木先生の言葉を受け取り、生真面目に数学を教えてくれている。
「祐君。休憩」
「だめ、まだ1時間しかたってない」
「もうやだよーーー」
「……」
無言でみつめないで下さい、しかも哀れむように。わかりました、やりますやればいいでしょう。
やけ気味に問題集に取り組む。こんなときの彼は誰よりも真面目である。いつもは優しいけどさ。
一息ついたところで早速祐君が私にちょっかいをかける。いつものことなんだけれど。
前にも増してスキンシップの密度が濃くなっているような。
「暑い」
「エアコンきいてる」
「や、気分的に」
「イヤ?」
だからそうやってみつめないでって、彼の笑顔は心臓に悪い。
「今まで無意識にやっていたくせに」
そう毒づいてくる。
確かに無意識に擦り寄ってたし、膝の上なんかに乗っていたけど。今はちょっと違うじゃない!
体勢を立て直そうと、後ろに下がったら腕をつかまれて、そのまま祐君の胸の中へストンと収められてしまう。
無駄に成長した祐君との体格差が悔しい。
「祐君?」
後ろから私を抱きかかえたまま動かない。
「痩せた?」
「は?」
「いや、胸がなんとなく」
言うが早いか、私は肘鉄を食らわせてリビングへ避難する。今日はお母さんがいるからあまり無体なことはしないはず。
でも、祐君の膝の上に乗ってても何も気にしない一家だから期待はできないかもしれないけど。
夏休みの一日一日はこうやって穏やかに過ぎていくはずだった。
うだるような暑さの中、コンビニへ向う。いたいけな娘にこんな中アイスクリームを買って来いだなんて、わが母ながらひどい。
ぶつぶつ言いながらも歩きつづける。アスファルトからの照り返しがきつい。日傘さしててもたいして意味がないような気がする。
日傘をできるだけ太陽に向けて傾け、地面を見ながら歩いていたので気がつかなかった。
突然女性の手が伸びてきて私の日傘をひったくっていった。
驚きのあまり立ち止まって固まっていると、私の日傘を手にこの間の女性が笑顔で佇んでいた。
「あ……」
声にならない。彼女がどうして目の前にいるの?口元だけで笑っているけど、目が全く笑っていない。
「あなたって有名人なのね、少し聞き込みしたらあっという間に住所がわかったわよ」
うっすら笑う彼女の口紅は真っ赤。
病的に白い彼女の肌には不釣合いで、それがとても奇異な印象を与えている。
「何か、用ですか?」
やっと絞りだしたような声は、少しかすれている。
彼女が怖い。
直感的にそう感じ、一歩後ろへ下がる。
ここには祐君も美紀もいない。どうしようもないけど頼りにはなりそうな鈴木先生もいない。
「怖がらなくていいわ、少しお話しましょう」
拒否権なんて与えない、柔らかい物言いで言外にそういい含められた気分。
彼女の言うままにふらふらとついていってしまった。
人気につかない公園のベンチに腰掛ける。さすがにこう暑いと子ども達の姿もない。まして散歩しているような酔狂な人もいない。
「あなた教え子なんですってね」
「はい、そうですけど?」
目的が見えない。あの場所で制服を着ていれば大抵生徒だろう。
「で、雄一郎さんのお気に入り」
ふふって口元に笑みを浮かべる。
何を言っていいかわからないので曖昧に返す。
「どうしてあの人ってこういう顔に弱いのかしらね」
ため息をつきながら、さも弱りましたって顔をする。
先ほどから彼女は立ったままだから、ずっと見下ろされている形になる。
「それって、まゆみさんっていう人?」
その名前が出た途端、彼女の顔色が豹変する。
明らかな憎しみ。
憎悪の表情を浮かべている。
手慣れた手つきでカッターナイフを取り出し頬に当てられた。
思ってもいない行動に、再び体が凍りつく。
「その綺麗な顔、目障りだわ」
「あなたがいるからいつまでたっても彼は戻ってこないのよ」
ナイフを握る手に力をこめる。
「私と先生は…。ただの教師と生徒ですから」
張り付いたような喉を必死に開いて声を出す。
「あなたがどう思おうが関係ないのよ、あの人がどう思っているかが問題」
ゆっくりとした動作で私の髪を掬い取る。
「綺麗な髪ねぇ。これもあの人のお気に入りなのかしら」
そう言って、一気に髪の毛を切り取る。
スローモーションのように私の髪の毛がちらばっていく。
祐君が好きな、私も大好きな髪が切られた。彼の泣き顔が思い浮かぶ。
復讐するようにもう一度髪の毛を切ろうとする彼女を振り切り、公園の出口まで走る。
走ることには慣れていない、もっと言えば遅い。
このときばかりはもう少し体力をつけておくべきだったと後悔する。
出口を抜け、近くのコンビニへと向う。そこにいけば人がいるはず。
そんな私の願いもむなしく、あっという間に彼女につかまってしまった。
後ろから三度髪を掴まれザクっていう音と共にまた髪が落ちていく。
嫌だ、助けて。
祐君助けて。
声に出していたのかいないのか、わからない。
顔を目掛けて振ってきたナイフに、避けきれない、そう思って目を瞑ってしまった。
一瞬の静寂の後、聞こえてきたのは私のものではない悲鳴。
驚いて目を開けると、右手にケガをして血を流している先生と彼を傷つけてしまったことで驚愕する彼女の姿があった。
「いいかげんにしろ」
傷口を反対の手で抑え、恐ろしく冷淡な口調で威圧する。
「ごめんなさい、雄一郎さん」
慌てて傷を見ようとナイフを捨てて、彼の手を取ろうとする。
その手を振り払い、胸倉を掴んで言い放つ。
「こいつには手を出すなといったはずだ」
「でも、この子のせいであなたが戻ってこないから!!」
「違う!こいつがいてもいなくてもお前のところには戻らない」
「だって」
「婚約なんて当の昔に解消した、俺はお前なんか今も昔も愛した覚えはない」
「そんな……」
--アイシテイナイ
彼女にとってはもっとも冷酷な言葉が彼の口から飛び出している。
衝撃に耐えかねて、その場に座り込み、号泣し始めた。
今のはちょっと、いくらなんでも、私の咎めるような視線を感じたのか、ため息をつく。
「ごめん、和奈。巻き込んでしまって」
辛そうに私の髪を撫でる。
そういえばこの人は確かに私の髪を触るのが好きだった。
「お前の両親に頼まれて、探していた。迎えにきてもらうから、もう帰れ」
携帯で連絡を入れる。
なおも泣きじゃくる彼女を冷たく突き放す。
やがて、近くにいたのか彼女の父親らしい人が車から降りてきた。
先生の傷をみて青ざめている。
「雄一郎君・・・重ね重ねすまない」
「いえ、僕のせいでもありますから」
「娘は連れて帰る。二度とこられないように、遠くで療養させるつもりだ、だから」
「ご心配なく、訴えるつもりはありませんから」
父親は次に私の頭と、散らばった髪の毛を見て絶句する。
目に涙を浮かべながら深深と頭を下げる。
「すまない、娘がとんだことを」
急に謝られてなかなか返す言葉が浮かんでこない。
「お詫びは改めて」
「あ、いえ。髪の毛だけですし、そんなお気遣いなく」
慌てて返事をする。
「そんなわけには」
なおも食い下がってくる相手に、先生が代わりに答える。
「もう二度と現れないでください。たぶんそれが一番の謝罪です」
思っていたことをそのまま汲み取って答えてくれた。
いくら謝罪のためとはいえ、やってこられては、またあの恐怖を思い出すことになる。
その真意がわかったのか、頷いて、再び謝罪の言葉を述べて帰っていった。
泣きじゃくる彼女を連れて。
嵐のように元凶が去っていって、ほっとしたのか、足が震えてきた。
心なしか手足も冷たくなってくる、真夏だと言うのに。
私の異変を察したのか、背中をポンポンと叩いて安心感を与えてくれる。
泣き出しそうな不安な心を押さえて、先生の傷へと顔を向ける。
「先生、これ」
傷の大きさ自体はたいしたことないみたいだけれど、ざっくり切られた傷口は深そうでまだ血が滲み出ている。
ブルーのワイシャツにも付着してしまった。
「家近いから、手当てしますね」
無言で頷いて後ろからついてくる。
そっと触れた指先が冷たい。
先生に対して恋愛感情はないけれど、ひどく安心する。
こんな気持ちはどこかで感じたことがある。
後で気がついたけど、それは兄さんと一緒にいるときの安心感に似ていた。