喧嘩1

「どうする?」
「んーーーーー」

進路希望の紙の前に、しばし固まってしまう。こういうものを考えるのはもっと先のことだと思っていたから、本当に何も考えていなかったのだ。よく考えれば、三年生に上がる時のクラス編成にも関わるのだから、私がのんきすぎるのかもしれない。
できれば先生になりたいという美紀ちゃんは、とっくに近くの国立大学の教育学部希望と書き込んでいる。祐君も同じ大学の別学部を希望しているらしく、成績もいい二人のことだから、鼻歌交じりに記入したところで問題はないだろう。私はと言えば、大して成績もよくないし、だからといってやりたいこともない、では、情ないことに白紙のままの紙切れとにらめっこするほかはなくなってしまう。
こんなときこそ教師である鈴木先生に相談すれば、とは思うものの、数学の宿題を足されることを考えると思わず躊躇ってしまう。

「とりあえずさ、同じ大学にしとかない?あそこって一応色んな学部があるしさ」
「それは無理」

美紀ちゃんと私の成績では、天と地の差がある。
確かに私は悪くはないけれど、上にも下にもいっぱい人がいる所謂平均的な成績だ。そこから落ちることは簡単で、そこから上へ這い上がる事が難しいポジションである事もよくわかっている。

「数学さえなければ、今より上がるんだけどねぇ、和奈」

全てにおいて足を引っ張っている数学の成績を思い浮かべてため息をつく。色々な事があったとはいえ、こういうことは待ってくれないのだと、美紀ちゃんの能天気な顔を見ながら、自分が情なくなっていった。



「同じところでいいんじゃない?」
「祐君まで同じことを」

何時もの帰り道、祐君にも聞いてみる。
小さい頃からこういう相談事は親でも兄でもなく、祐君にすることが多い。きっと、これから私と祐君がどんな関係になったとしても、こういう習慣は変わることはないんじゃないかって、思っている。

「私の数学の成績知ってる?」
「それは、まあ、知っているけどさ」

一緒にやりなおしをした真っ赤な答案を思い出したのか、祐君が軽く笑っている。鈴木先生のおかげでまともになったとはいえ、少し手を抜くとあっという間に元通りになってしまうのが悲しい。所詮基礎がしっかりしていないのだからいくらデコレーションしたところで無駄なのかもしれない。

「うん、でも、鈴木先生に相談してさ、あれも一応教師だし」

最近はぐっと鈴木先生に対する風当たりが弱くなった祐君は、さらりと鈴木先生の名前を出してくる。少し前なら最初の一文字にすら嫌悪感を浮かべていた人と同じ人だとはとても思えない。
私としても、数少ない信頼できる先生との交流に嫌な顔をされることはストレスなので、できれば鈴木先生があまり祐君をからかわないでいてくれるとこのまま幸せなのに、なんて思っている。

「まあ、まだ時間もあるし、とりあえずそれは進路希望だし、同じところでいいんじゃない?ね」

祐君の穏やかな笑顔につられ、思わず頷く。
結局、最初に泣きつくところは祐君で、最後に泣きつくところも祐君なのだと、自分の成長のしなさぶりを思って、情ないと感じながら。

「……とりあえず、書くだけならいいのかなぁ」

鈴木先生が鼻で笑う様子が容易に想像できて、少し落ち込む。
案の定、私が提出した進路希望用紙は、鈴木先生の根城で苦笑いと共に話題に上げられることとなってしまった。

「おまえな、これ本気か?」
「本気というか、とりあえず、ですけれど」
「取り合えずといわれても、これをもとにもう一度クラス編成しなおすんだから、真面目に考えろ」
「はぁ」

今のところ私の学校は2年生に上がる段階で理系と文系にクラス分けされるのだけれど、それをもう一度希望や適正を考えてマイナーチェンジしながら3年生へと上がるらしい。理系だったけれども、文系に変更する人や、国立志望から私立志望へと変更する場合などがそれにあたるらしく、ほぼ半々に分かれた理系と文系のクラス内で、大雑把に私立文系、国立文系、理系、と分かれる、らしい。そこら辺りの変化は、とても小さいのでたいしたことはないと思っていたのだけれど、やっぱりもうすこし真面目に考えないといけないと、改めて思った。

「一応、一晩考えました」
「なんだ?」

祐君に言われるままに記入はしたものの、私だって何も考えていないわけじゃない。自分の適正を考えれば、美紀ちゃんや祐君が目指す大学が私には高望みで、また、向いていない事も本当はわかってもいる。

「栄養学的なものなら合うのかな?って」
「やっぱり、多少なりともあるんじゃないか、やりたいこと」
「ううん、すぐにはぱっと思いつけなかったけど、私の中で好きなものっていったらこれぐらいかな、って」
「まあ、そう悲観するほどの成績でもないが、和奈が理系にいって数学に埋もれる姿に比べたら遥かに想像しやすい」
「極端なものと比べなくても……、で、そう考えると近くにちょうどいい私立があるなって気がついて」
「ああ、あそこか?元女子大の?」
「家から近いし」
「あそこなら、お前の成績なら後半年がんばれば、推薦枠がもらえると思うが?」
「……あの数学で?」
「どうせ私立文系クラスに入れば数学なんてあってないようなものだし、おまえのそのレベルでも相対評価である内心点はあがるはずだ。恐らくな」
「んーーーー、希望は希望としてとっておくけど、勉強しないとなぁ、はぁ」
「和奈の進路がそれとして、そうすると来年度は田中とクラスが分かれることになるが?」
「それは、少し、ううん、だいぶ嫌だけど、それでも私が美紀ちゃんと同じクラスにいたってついていけないし、溺れ死にしちゃう、きっと」
「己の適正を考えた、きわめてまっとうな答えだと思う。おまえにしてはよく考えた」
「子ども扱いしないでくださいって、私もいいかげん祐君ばなれしないと」
「いつまでたっても、子どもだよ、おまえは」

軽くおでこを人差し指で弾かれて、相変わらずどさっと降って来る数学のプリントを指し示す。
いつのまにかこうやって教師と生徒として安定した関係を築けている今の状態が、とても心地よい。
先生が煙草の火を点けたのを合図にしたかのように、ようやく私はプリントにとりかかる。
どれだけやっても、やっぱり数学は好きになれないとぼやきながら。



「変更した?」
「うん」
「でも、どうして?」

数学準備室まで迎えに来てくれた祐君との帰り道、さっそく先ほど私が決めた事を話し始める。遅まきながら一人で決めたことが嬉しくて、夢中になって先を続ける。

「どうしてって、やっぱり私には無理」
「そんなの、まだ一年以上もあるんだし、やってみないとわからないじゃないか」
「やってみないとって言われても、私には数学がある限り五教科全てを平均的にできるようになるっていうのは無理だし、それに、だいたい体力がもたないよ、きっと」

全ての教科を満遍なく勉強するには、当然時間が必要で、何かがあればすぐに熱がでるような情ない体質では、それを捻出するのはちょっと難しいかもしれない。だいたい、一度教科書をめくれば全てが吸収されるような頭のもち主ならいざしらず、私といえばいたって平凡な、努力をしなければすぐにでも真ん中から滑落していきそうな学力なのだし。

「昨日まではそんなこと言ってなかったよね?」

優しいけれど、どこかに棘を含んだような物言いに、少しテンションが下がる。

「自分の特性を考えてみると、栄養学系に進みたいなって」
「……。誰の入れ知恵?」
「入れ知恵って、別に、一応自分で考えて決めた事だけど?」
「ふーん、そう。それだと来年は田中さんともクラスが離れるけど、いいんだ?和奈は」
「いいというか、それはもちろん寂しいけど、仕方がないかなって」
「鈴木先生?」
「ん?さっき相談にのってもらいはしたけど」
「そう、鈴木先生の言う事はよく聞くんだね、和奈は。僕の希望よりも」

まるで能面のような顔で吐き出される祐君の言葉に、驚かされる。
だけど、何よりも真っ先に、私は祐君に対して今まで感じたこともなかったような怒りを覚えてしまった。
それと同時に、私が何も考えていない祐君の思い通りになる人形のように扱われたように感じ、とても悲しくなった。

「祐君なんて大嫌い!」

だけど、私の中でぐちゃぐちゃになった思いは、綺麗に言葉にすることなどできずに、私は思わず一番子どもじみた言葉を口にして走り去っていた。
悔しくて悲しくて、でも、とても酷い事を口にしてしまった自分のことも嫌いで、私は一晩中部屋に貝のように閉じこもっていた。
途中で何度も様子を見に来ていたお母さんも、もちろん祐君も寄せ付けることはなく、そのやりとりは明け方近くまで何度となく行なわれた。
祐君が隣へ帰っていったと聞き、私はようやく台所へ行って、何かを食べる気になった。
時間が立てばたつほど、悔しさよりも怒りのほうが大きくて、どうせならもっと言ってやればよかった、と思う気持ちが膨らんでくる。
人間怒るとおなかが空くもので、私は、昨日から食べていなかったせいもあり、驚くほどの量の朝食をお腹に納めてしまった。
その様子を見てお母さんも安心したのか、「喧嘩も程ほどにね」という、ため息混じりの言葉を投げかける。
さっさと身支度を整えて、祐君を置き去りにして家をでる。
こんなことは、私がよくわからない感情に囚われて祐君と距離を置いて以来のことで、こんなにも積極的に祐君とは一緒に歩かない、と決めた事は今までの人生において一度としてなかったことだ。
少しの寂しさと、ソレを上回る怒りを胸に抱えながら、私は早足で学校へと歩いていった。



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KanzakiMiko/12.28.2007