11/小さな花が咲く時に

 高山との距離が多少縮まったところで、葉月の生活は変わらない。
決まった時間に起床し、自転車に乗り、職場に赴く。数回に一度高山とエレベーターをともにする、といったアクシデントはあるものの、これといった状況の変化は訪れていない。
二人の関係をおもしろがっていた周囲にしても、さらなるえさの投下が見込まれない中では話題にすることも少なくなっていき、日々どういうわけか体のどこだかに生傷を負ってくる助教八木の噂話にもちきりとなっているありさまだ。もちろん、その傷の理由を葉月は知っているけれども、だからといってその噂話に加わろうとは思っていない。
元来人の噂話や浮いた話などにあまり興味をもたない事の方が多いのだから。

「ねえねえ、聞いてくれません?」
「仕事中なんだけど」

そんな彼女の性質などおかまいなしに、話さないでいられない、といった風情で八木が葉月の周りをうろうろする。
もちろん彼らが存在する場所は葉月が常に仕事をしている居室であり、現在は彼女が書類を整理する音と、八木の悲痛な訴えしか響いていない。

「あのね、携帯番号入れなきゃいいでしょ?っていうか必要なくない?」

遠距離恋愛をしていた彼女がとうとうこちらへ引っ越してきてくれた、という喜びに溢れたトークから二週間。八木は愚痴以外の言葉を吐き出せなくなっていた。
今まで接触する時間が短かったせいで見られなかった人間性、といったものが露呈したせいなのか、恋人とよく衝突を起こしている八木は、ことあるごとにそれを葉月へとこぼしていた。
深く考えずに、といよりもほとんど耳にもいれずに聞き流していたそれは、徐々に深刻なものへとなっていった、らしい。 あくまで興味のない彼女は、あからさまに我が身の不遇を訴える八木が側に近寄ってきてもだからどうした、としか思えないでいる。

「だって、何かあったら必要じゃないですか」
「ただの秘書に何かあったときに連絡されたって困るっちゅーの、教授か准教授を呼び出してちょうだい。それか技官さんでしょ?必要なのは」

そう、目下の一番大きな火種は、恋人が消すたびに新たに登録される葉月の携帯番号なのだそうだ。
その問題自体は以前にもかすかに聞いた覚えがあり、だったら登録しなきゃいいじゃないか、といった感想しかもてないでいた。
緊急時、なにをもってそう呼ぶのかは不明だが、そのような事態に陥った場合、雑用係であるところの葉月にできることは恐らく何もない。
地震や停電などの比較的ポピュラーなトラブルにおいても、彼女の出番はまったくない。慌てるのは機械や装置のメンテナンスを担当している教官であり技官である。また、教え子に何かが合った場合にしても、必要なのは連絡名簿やそのやりとりができる人間であり責任がとれる人間だ、やはりそこにもただの事務員の葉月の出番があるとも思えない。だから幾度となく、自分の番号は必要ないのだから、と、提案はしてみたものの、どういうわけか愛しの恋人の無茶を振り切ってまで携帯に登録しつづけているらしい。
あほじゃないか、と一刀両断しつつ、彼女は冷淡に事務仕事を進める。

「でもでも、ほんとーーーに、なにかあったら僕絶対葉月さんに連絡しちゃうと思うんですよ」
「だから、最初から番号がなきゃ、そうしたくってもできないし、そもそもする必要がないっしょ?ばっかじゃないの?っていうか、本当にそろそろ仕事してちょーだい、うざいから」

いい加減切れかけた葉月は、言葉尻がきついものを隠そうともせず、八木を追い返す。
渋々、といった風に退室していった八木の後姿を一瞥し、ため息をつきつつ肩をほぐす。
やれやれ。
ふと洩らした独り言があまりに年よりじみていたことを笑いながら、いつものペースへと戻っていく。



「あ、葉月さん、紹介します」

高山と同年齢と思われる男性を指し、偶然エレベーターへ乗ろうと廊下を歩いていた葉月が呼び止められた。全く身に覚えの無い葉月は、首を傾げ、それでも一応職業を意識しながら笑顔をキープする。

「今日講師してもらった田中先生です」
「講師?といいますとこの間の」
「ええ、葉月さんには大変お世話になりました」

適当な講師を選んで自分たちの大学で講義を行なってもらうことが多々あるが、それをするためには当然幾多の事務手続きが必要である。
交通費、宿泊費、講演料などなど、それらにはフォーマットはあるものの、個人個人によって詳細は異なるため、それなりに煩雑な手続きとなることも多い。それらの雑用を引き受けるのも秘書の仕事の一つであり、大学にある事務がそれらを代理で行なうことはあまり無い。彼らは提出された書類を受け取り、さらに上へと提出することが仕事なのであり、アドバイスや指導などは行なうものの、基本的には各研究室にそのような雑用は任されていることが実情だ。
葉月の努めている学部では全体で統一の雑用係、秘書などは雇っておらず、各々が己の裁量で秘書を雇ってまかなっている事が多い。そうでなければ、教授などの文官スタッフがそれらの雑用をこなさなくてはならない。
今のところ秘書を雇っていない高山の研究室では、若手のスタッフとその手のことをこなしてはいるが、そういった定型をもってする事務手続きなどについては、葉月やその他の研究室の秘書に訊ねなくてはいけないことも多い。
下心があるのかないのか、そのあたりを葉月は判断をしていないし、する気はないけれど、ここのところそれらを訪ねる対象にはもっぱら葉月が選ばれており、今回の講師をめぐる事務手続きについても、葉月が色々と助言をしていたりもする。
わけのわからない自己紹介に巻き込まれ、恰幅の良いその男性に曖昧な笑顔を浮かべながら、そういえばそういう事務手続きをした覚えがあるな、と、おぼろげに記憶の糸をたどっていく。

「お噂はカネガネ」
「……父が阿呆なことを言いふらしていましたか?」

高山と恐らく同業者であろう男性に言われ、即座にうんざりした面持ちで返した葉月に、田中氏は面食らったような顔をした。微妙に違う分野だけれども、括弧でくくれば同類項だろう、と、勝手に判断をした葉月は、彼と父親が学会などで場を同じくした事があるのであろうと考えたのだろうが、この反応は違うらしい、と、これまた勝手に判断をした。

「では、伯父ですか?間抜なことを言っていたのは?」

さらにわけがわからない、といった顔をした田中と、つられたかのようにどう言っていいのかわからない、といった表情をした高山がお互い顔を見合わせる。
どうやら、どちらの推測も外れてしまったらしい、と、理解した葉月は、だからといって自分のことを噂している第三者の存在を想像しあぐねている。

「えっと、葉月さんのお父上は、この大学の教授をされていたんですよ、今は違う大学ですが」
「ああ、そうだったんですか、それは存じ上げませんで。ってことは亘のことも教えてたってことだよな?」
「ええ、そうなります。工藤教授とは分野がずれていますからね、君も会ったことがないだろうし」
「分野、違うんですか…」
「はあ、全く違いますが」

あくまで門外漢の葉月は、高山達の学問は全て同じに見える。当然葉月の上司の分野も、父親の分野も、全て同じようにしかみえず、その違いは全く理解できないし、理解する気もない。
とりあえずあほなことを言ったのは父でも伯父でもない、ということがわかればいい。

「葉月さん、すみませんが伯父さんも、ひょっとして…」
「へ?ええ、大学の先生していますよ。といっても、母の兄ですが」
「それは、知りませんでした」
「ええ、話していませんから」

笑いを堪えたかのような田中氏は、にやにやと高山へと視線を送りながら、何かを言いたそうにしている。それをやはり視線で制し、わざとらしく咳払いすると、簡単に田中氏についてにプロフィールを紹介してくれた。 別に知りたくもないけれど、といった捻くれてかわいくない感想は奥の奥へとひっこめ、努めて笑顔で聞き入るふりをする。 どうやら、彼は高山教授と同じ年でどこかで准教授をやっている同分野の男性、らしい。 そんな人間がどうして葉月の噂を聞いていたのかはやや気になるところではあるが、それを聞く雰囲気でも、聞いていい雰囲気でもない状況なので、葉月は我慢することにした。

「予想通りというか、予想外というか。おまえが、ねぇ」

田中氏は高山へと意味深な言葉を吐き出し、高山はそれに顔を顰めながら応戦している。
なんとなく二人の世界、といったものを感じ取り、葉月はじりじりと距離をとりながら、さっさと帰宅しようと身構える。

「それじゃあ、急ぎますので」

まったくもって急いではいないのだが、これ以上相応しい言葉を思いつかない葉月は、中途半端でわけがわからない言い訳を口の端にのせ、言い終わるか終わらないかのうちにとっとと身を翻していた。
やっぱり、誰が自分の噂をしていたのかが最後までわからないのは気になるが、まあ、たいしたことはないだろう、と、能天気に判断し、エレベーターのボタンを押す。
わけのわからない一日だった。
そんな単純な感想だけを思い浮かべ、全く何の憂いもなく、エレベーターに乗り込む。
そろそろ汗ばむような陽気になってきたことを思い出し、ややウンザリした表情を作る。
エレベーターが一階へと到着するころには、先ほどのやや不快な出来事などはすっかり過去の事となっていた。



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9.1.2008

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