何がしかの因縁がある相手と避けられない距離で過ごす密室、というものは決まりが悪いものだ。そんな経験則としては知っていた気まずい出来事を、葉月は今まさに体験している。
「おはようございます」
「おはようございます」
遅刻寸前で目の前のぱっかり扉を開けたエレベーターにこれ幸いと飛び乗った彼女は、朝の挨拶がもたらされ、徐々にその相手が誰だか理解し始めた頃には猛烈に後悔していた。
「……お早いですね」
気まずさに耐えかね、あまり意味の無いことを敢えて口に出す。
「ええ、まあ」
相手から感じ取る感情もまさに戸惑っている、という表現がぴったりで、葉月の後悔を思い切り加速させてくれる。のろのろと進むエレベーターの表示階数を見上げ、ここにきてようやく、昨日自分を落ち着かせるために考え至ったものを思い出す。本来ならば昨日の内にやっておくべきことではあるのだろうけれど、綺麗さっぱり忘れ去っていた彼女は、機嫌よく帰宅し、思う存分母親の料理を堪能し、あまつさえ安眠を貪ってしまったのだから。
「えっと、昨日はすみませんでした」
「それは、何のすみませんでしょうか」
さすがに鮮やかに葉月の曖昧な謝罪の言葉を切り返す。
「言葉が過ぎました」
「言葉、ですか」
行間に、それだけですか、という内容をあからさまに含めながら、落胆した声で高山が相槌をうつ。
「いや、あの。なんというか。私誰とも付き合うつもりはないんですよ、ここだけの話」
葉月の異性としての男性嫌いは、職場ではわざわざカミングアウトしていない。近くに寄れば鳥肌が立つとか、触れられれば気絶をする、といった症状が出るのならば問題だが、彼女のそれは、異性として考えた場合の彼らに対する嫌悪感だけであり、職場で相手を探すつもりのない葉月にとってみれば、与える必要のない情報だと認識している。たまにおせっかいな誰かから世話をしてやる、といった今回のような事例がなくもないけれど、大抵の場合は気の強い葉月が一顧だにせず断ることができているのだから。
よって、この場合特別に高山教授にそれを告白する、というのは、あなたが個人的に嫌いというわけではないですよ、というようなことを遠まわしに伝えたかったのだが、如何せん言葉も内容も足りなかった。
案の定高山は別の方向に捉えたのか、僅かに向上した機嫌とともに、やや上擦った声で葉月に質問を重ねる。
「それは、まだお若いからでしょうか」
「若い?って、ええ、まあ」
それだけではないですが、という二の句を接ぐ間もなく、高山が口を挟む。
「まあ、確かに葉月さんの年では他に色々興味もあるでしょうし、あ、そういえば私自身も学生の頃はどちらかというと部活と研究一筋で、いえ、バイトもしていましたけれどね」
延延と続きそうな学生時代の私、というポエムは、エレベーターが五階に到着するとともに中断された。
「安心しました」
「へ?」
謎の答えを残して、高山と葉月はいつものポイントで左右に別れた。
心持ち高山の表情が嬉しそうだったようなのが気になるところではあるが、葉月はそんな細かい事は気にしないに限る、と、昨日の失礼を補填した安心感から、すっかり仕事モードに切り替わっていった。
相変わらず何もすることがない日曜日、葉月は自室で音楽を聞きながら読書に勤しんでいた。
図書館から借りてきた本の返却期限が本日までだったのを思い出したせいだが、思いのほか面白かったそれにのめりこみ、読み終えた頃には昼ご飯の時間を僅かに過ぎていた。
恐らく、父母どころか、女のところに行っていなければ兄弟までもが、葉月を待ち構えて居間でとぐろを巻いているだろうと、ややうんざりしながら階下へと歩き出す。
案の定、兄と両親が待ってましたといわんばかりの表情で葉月を向かい入れ、どこか外食に行こう、という提案を持ち出してきた。
確かに、休日までも母親にごはんを作ってもらうことは多少心苦しく、外に食べに出てしまえれば楽には違いないけれど、そのメンバーに兄が入っているとなると話は別だ。
葉月と兄弟の立場が逆転してからは、家族そろって外食をした記憶がほとんどない。
もちろん、自宅ではそうせざるを得ない場面に出くわす事も多く、自室にもっていって食べる、というほど反抗的な態度に出られない葉月は、渋々同じテーブルにつくことを我慢している。
だが、外食となれば違う。
どうしてそんな楽しいイベントを、わざわざこいつと一緒に過ごさなければいけないのだと、ニコニコ顔で葉月に近寄ってくる兄を牽制しながら考えあぐねる。
両親は、葉月が兄弟を苦手としていることは認識しているけれど、内心ここまで嫌っていることまで気が付いてはいない。若い娘にありがちな潔癖な嫌悪感が端緒だ、ぐらいにしか思っていないのかもしれない。
あれだけいじめられれば恨みを持っていても仕方がないのに、加害者や傍観者はそれをどこまでの低く見積もろうとするきらいがある。葉月だとて大人なのだから、両親を困らせるようなことはしたくはない、だからこそ今もこうして答えに窮しているのだ。
救いの神のように電話が鳴り、空々しくもダッシュでそれを奪い取る。
ディスプレイの番号をよく確認することもせず、葉月はもしもし、と、その電話に応答した。
「工藤さんのお宅でしょうか」
「はい、そうですけど」
その声に聞き覚えがあるような気がして、でもその名前が喉から出てこないもどかしさを感じる。
「高山ですけど…。葉月さん、ですよね」
だが、その答えはあっけなく、向こうの名乗りによって判明した。だが、どうしてこんなときにこんな人から、というあらたな疑問がざくざくと湧きあがる。
「そうですが、あの、何か?」
確実にバッグで聞いている家族を意識しながら、それと悟られないように事務的過ぎず友好的過ぎない態度に出る。勧誘の電話だの、大学の仕事の電話だの、様々な言い訳を用意しながら、そのどれにも当てはまるような受け答えをしなくてはいけないのだから。
「もしよろしければ、夕食でもどうかな、と思いまして」
「へ?ゆ…」
口に出しそうになり、慌てて噤む。
その単語を出してしまえば後ろから揺すぶられながら白状させられるのがおちだ。
「えーーーーーーと」
なぜ、と問い質せば、一昨日の事が蒸し返されそうで、そういえば昨日にこやかだったのはどうしてなのか、とか、今ここでは必要のない疑問が浮かび上がっては消えてくれない。
「まずお互いをよく知ることからはじめようかと思いまして」
「それは、どういう」
「ええ、葉月さんが結婚とかそういうのに興味がないのはわかりました、けど、知人やもう少し進んで友人としてなら大丈夫じゃないのかな、と、判断したものですから」
「はぁ」
「それともそれすら嫌な程、私は生理的に嫌いなタイプでしょうか」
「え?いえいえいえ、そんなことは」
「でしたら、ごはんでもどうでしょうか」
「え?ええ?、ええ、まあ」
「よかった、迎えに行きますので、都合のよい時間をおっしゃってください」
「へ?えっと、それでしたら」
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