8/小さな花が咲く時に

「工藤さーーん」

職員が甘えたような、浮ついたような声をだして近づいてくるときは要注意である。
すでに葉月の手元には付箋紙を張られた資料が置かれており、そこには小さく夜までにお願いね、というメモが、見慣れた沢渡准教授の署名つきで記されてあった。それだけでも葉月のテンションは低空飛行だというのに、八木青年にまで雑用を押し付けられれば、今日中に終わる仕事も終わらない。
警戒しながらも、遠距離恋愛の彼女とデートした翌日のように上機嫌な彼は、葉月のもとへと軽やかに歩いてやってきた。

「見ちゃいましたよー」
「なにを?」

すでに八木の前では猫を被る事を放棄した彼女は、ツッケンドンな物言いで返す。それに怯むことなく、つまるところ慣れきった八木は、にやにやとしながら葉月へ話し掛ける。

「高山先生と」
「……それがどうした?」

自分でも思った以上にどすの利いた声になってしまったことに驚く。
忘れたといっても侮辱された記憶はなかなか葬り去られてはくれないものだと、わけもないところで感心をする。

「いやだなぁ、怒っちゃって」
「怒っていないけど?だから何?」

ここにきてようやく葉月が本当に気分を害していることに気が付いた八木青年は、思わず半歩下がる。どちらかというと能天気でのらりくらりと相手のことを交わす葉月が、こうまでして感情を表に出すことは珍しく、また、その地雷を自ら踏んでしまったことに思い切り後悔をしているらしい。

「えーーー、その、告られてましたよね?」
「そうでしたっけ?記憶にございません」

乱暴にキーボードを叩きつける音がピシリピシリと部屋に響く。そのたびに八木は後退りしたくなる衝動にかられているのが見て取れる。

「学生が、噂していたんだけど」

本当のところは自ら率先して話しまくっていたのだけれど、とりあえず自分の行動を薄めるべく責任転嫁に走る。

「何を?」
「や、だから、高山さんが、工藤さんにって」

語尾が聞き取れないほど小さくなり、葉月は無意識に八木を睨みつける。
八木は、もう半歩後退って視線を逸らす。

「いえ、なんでもないっす」
「そう、だったらお仕事はじめましょうね、八木先生」

滅多につけない敬称つきで呼ぶ事で、さらに葉月は八木を突き放す。まさに脱兎の如くといった具合に、彼は葉月の目の前から消えて行った。代わりに入ってきた人間を確かめることもなく、彼女は仕事を続ける。
沢渡が置いていった仕事は、やはり昔の資料の電子化だった。急ぐわけじゃないけれど、今日中というわけがわからない指定をされ、彼女はルーチンの仕事をできるだけ素早く片付け、その仕事にとりかかっている。
ぴたりと葉月の机の前に止まった影は、何かを発するわけでもなく、静かに佇んだままだ。

「鈴木先生?」

下を向いたまま影へと訊ねる。
資料を追いながら文字を打つ作業は、慣れたとはいえ、注意が必要だ。まして、彼女の門外漢の専門用語が洪水のように溢れている文章ならば。

「沢渡先生?」

こういう風に置き去りに仕事を押し付けるような場合には、最後まで准教授は葉月へと近づかない、だけれども、八木青年を除けば、彼女に用事があるのはこの二人がほとんどであり、どちらかの名前を呼べば、それがこの影の正体だろうと踏んでいたのだ。
だが、その二つの名ともはずれだと影は沈黙する。
仕方がなしに、一旦区切りのついたところで、資料にしるしをつけ、顔を上へあげる。
昨日の呆然とした顔そのままの高山教授がその場に立っていることに気が付いた彼女が、悲鳴をあげなかったことだけは幸いだ。
ただでさえ、学生に見られておいしい肴のように口の端に登ってしまっているのだ。
これ以上のえさの投下はさけたいところだ。

「何か御用でしょうか?」

できるだけ事務的に、感情を排した声で訊ねる。
いまだ黙ったままの彼は、何かを言いよどんだまま、やはり立ち竦んでいる。
同じ部屋で偶然事務仕事をしているポスドクが全神経をこちらへと向けていることがわかる。
常ならば学生よりもは落ち着いており、研究一筋の彼らだが、こういう場面を知らん振りするほど枯れては無いということのようだ。

「何か、御用でしょうか」

ことさらに笑顔を作り、高山へと問い開ける。
ようやく、口を開いた彼は、この場が大学の部屋の一室であり、葉月は今仕事をしている最中だということを忘れ去ってしまうようなことを言い放ってくれた。

「誤解なんです!」
「先生、もう少しお静かに」

どう考えても聞き耳を立てているポスドクの視線を走らせながら、忠告をする。そんなことはお構いなしに高山教授はどこか切羽詰ったような顔をして葉月へと言い募る。

「年も年だしっていうのは、あの、その、自分今まで結婚なんて考えたことなくって、っていや、そもそも女の人と付き合おうなんて思ったことなくて、だからその、自分の年を考えたら結婚を視野にいれたものじゃないとだめかなっていうか、そうじゃなくって、結婚したいかなって、いうか、誰でもいいとかそうじゃなくって、だからその」
「何がおっしゃりたいんですか?」

その一言は聞いてはいけない一言のような気がした。
だが、好奇心に勝てない葉月は、トドメの一言のように高山へ先を続けるように突き刺したのだ。

「自分は、葉月さんと結婚したいんです!!!」

わけがわからない高山の言い訳は、最後には大声の葉月への求婚へと変化していった。
いや、ひょっとしたら最初からそうだったのかもしれないが、あの内容でそれを汲み取れというほうが難しい。

「お断りします!」

焦ることなくあっさりと、高山の告白を一蹴した葉月は、渡会准教授の資料へと視線を落とす。

「あの」
「なんですか?」
「……今の、答え、でしょうか」
「答え以外の何だというんですか?」

パチパチと打ち込む音は力強く、やはり葉月の機嫌は悪いままだ。

「少しも考えてもらえませんか?」
「ません」

にべもない葉月の言葉に、視線を向けないでもうな垂れるのがわかる。
さすがに少しは悪いと思ったのか、葉月が逆に提案をする。

「教授の娘でよければ、三階の秘書の方もそうですし、そもそもうちの教授の娘さんも適齢期ですし、そう言った方面へ釣り書でもお送りなすったらどうですか?」
「いえ!」
「他には、えーと、お昼休みになれば他の秘書さんたちにも聞いてみましょうか?条件はそれでいいですよね?」
「違うんです」
「年齢も私ぐらいがいいんですか?それだとちょっと厳しいかもしれませんが」
「葉月さん!!!」

まるでかみ合っていない会話が淡々と続くなか、高山の方が先にそのループを断ち切る。
ぴたりと作業を止め、再び高山教授と視線を合わせる。焦燥感、といったものがどういうものなのかが今までわからなかった葉月だが、今の高山の状態だと説明されれば納得できそうな様相だ。

「私は、葉月さんがいいんです」
「工藤の娘だからですか?残念ながら娘は私しかいませんし」
「だから、工藤葉月さんがいいんです、工藤先生がどうとか関係ありません」
「はあ、そうですか、残念ながら間に合っていますのでお引き取りください」

至極あっさりと言い放った葉月に、ショックを受け固まったままの高山はギクシャクとした動きのまま部屋を後にしてくれた。
ようやく一息をついた彼女は、落ち着いて仕事にかかれる、とばかりに数度肩を回し、キーボードへ両手を置いた。 ようやくここで、高山が葉月に伝えた言葉が脳みそに伝達される。
葉月さんがいい。
確かに高山はそう言った。
その言葉の意味を反芻して、脳みその皺に寄せ、ようやく理解したころには、ディスプレイの影に隠れ顔を真っ赤にした彼女が俯いたまま悶えていた。
生きていてこんな事を男の人に言われるだなんて思いもしなかった。
なおも落ち着かない彼女は、意味も無く資料をめくり、もとにもどすを繰り返す。
言葉を反芻すればするほど、照れていき、どうにもならなくなってくる。
そんな本の中にしか出てこないような言葉を、自ら体験するはめになるだなんて。
共同の冷蔵庫に置いてある、ミネラルウォーターを取り出し、一息に飲む。
冷たい水が喉を通っていき、少しは落ち着きを取り戻す。
あの、高山教授が、よりにもよって自分に、あんなことを言うなんて。
葉月の思考なそこにたどり着いたまま戻ってこれないでいる。
今日中の仕事だとか、鈴木教授の雑用が手につかない。
ふるふると頭を振って、大きく深呼吸をしてディスプレイをみつめると、高山の声がどこかから聞こえて、再び悶絶していた最初の状態へと戻ってしまう。
手を洗って、水の冷たさを確認して、ホールへ行って冷たい飲み物を買い求め、ソレを口に含む。ようやく落ち着いたような気がして、とりあえず仕事は脇へ置いて、高山の言葉を考える。
自分がいいと言った高山。
父のことは関係がないといった、彼。
そのどちらも先日の彼の言ったこととは相反するけれども、今日のあれが嘘だったとも葉月は思えないでいる。
もちろん、まずいと思った彼が作戦を変更した、ということもありうるけれど、それほどの器用さとずるさがあれば、とっくの昔に彼はある種の既婚者になっているだろうし、最初のあんな間違いは犯さないだろう。まして、アプローチなのかなんなのかよくわからない近づき方は不器用そのものではないか。そこまで思い至って、あっという間に一刀両断した自分の判断が、少し冷たすぎたかもしれない、と、後悔し始めた。
そういうところが葉月のよさとも言えるものかもしれないけれど、自分がいくら男嫌いだからといって、無意味に傷つけて回りたいわけではない。できれば穏便に、適当な距離で存在しておいてもらえれば、それでいい。
葉月が嫌いなのは異性としての、いや、恋人としての男であり、同僚や友人としての彼らではないのだから。
そこまで葉月なりに整理されれば、ようやく気持ちは落ち着く。とりあえず冷たかったかも、と思える部分だけ誤っておけばいいや、と、そう自分に言い聞かせ、まだよく冷えたペットボトルを片手に機嫌よく仕事場へと戻っていくことができた。
部屋に取り残されたポスドクの好奇心の視線を一瞥し、笑顔でそれを退け、とりあえず自らの仕事にとりかかる。
残業はしたくないぞっと。
そう呟きながら必死に資料へと視線を走らせた。
その日その仕事が終了したのは定時を少し過ぎたあたりで、葉月は、今朝ようやく落ち着いた先に得られた結論を忘れ去っていた。



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8.9.2008

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