「理由をお聞かせ願えませんか?」
定時に終了し、すでに頭の中は夕食のメニューでいっぱいの葉月に、唐突に声がかかる。ある意味予期しておかなくてはならない人物からのもので、深く考えることをしない彼女は今朝の教授とのやりとりですっぱりと忘れ去ってしまった人間からかけられたものだった。
「理由、ですか」
かろうじて「なんの?」と言いそうになった口元を抑え、そういえばなにか頼まれたな、と鈴木教授との話を思い出し、時間稼ぎのために相手の言葉を復唱してみる。
「えっと、先生の理由をお聞かせ願えませんか?」
質問に質問で返すのは卑怯だとはわかってはいるけれど、必死に頭の中をかき回している状態では仕方がない。数拍してそういえば遠まわしな、だけれども確実なアプローチを鈴木教授経由で受けた事を思い出し、やはり、質問で返しておいてよかったと自画自賛する。この状態でうっかり口を開いて、あまり失礼な言葉を浴びせ掛けない最良の選択だ。フィルターを通さなければ、「興味ないし」や「え?だっておじちゃんじゃん」などというどこへ出しても恥ずかしい答えしか用意できないことを情なく思っているのだから。
だが、そんな葉月の努力も空しく、あれこれ相手に礼を失しない態度をどうとるかを考えあぐねている彼女へ、冷水を浴びせ掛ける、といっても言い過ぎではない言葉がもたらされる。
「年も年ですし」
すんなりと納得できる答えがもらえるとは思ってはいなかった。
だが、そこは葉月も若い女性。
例えば、かわいいから、とか、よく気が付くから、とか、彼女自身をそれなりに褒め称えた内容のものがもたらされると思っていた。それが例えお為ごかしだとしても、ダイレクトに教授の娘だから、と言われるよりもは気分がよくなるであろうことも事実である。
だがしかし、高山からもたらされた回答は、焦っているから誰でもいい、といったも同然であり、もう少し穿って考えれば、教授の娘というオプションがついてくる葉月はとてもおいしい相手だと隠さずに答えたに等しいとも言える。
正直と言えば正直で、馬鹿といえば馬鹿な答えに、葉月は一瞬息を飲んだ。
ぐるぐると罵詈雑言が頭を巡るなか、数字を一から数えてみたり、意味も無く九九を唱えてみたりしながら落ち着かせる。
「そうですか、でも私は年も若いですから、あせっていませんし、ほかを当たってください。私と同じ条件で、年齢的に先生ぐらい焦っている女性もいますでしょ?」
最後のそれは、彼女自身も少し嫌な言い回しだと自覚している。高山に嫌味を言うために、その該当女性を辱めることはないのだから。
だが、そんなことを慮っていられないほど、葉月の心は怒りに支配されていた。
「いや、あの、そうじゃなくて」
「失礼します」
葉月の言葉に、はっと我に返ったような表情をして、慌てて取り繕う様が滑稽だ。
言葉選びを間違えたとでも思ったのだろう。
もともと口下手であろう高山教授は、葉月の勢いに押され、ただ黙ったまま彼女が反対方向にある階段へと足早に歩を進めていくのを見つめていた。
そんな二人のやり取りを好奇心いっぱいの学生や八木青年が見つめていたとも知らずに。
「ケーキ追加」
「まだ食べるの?」
「甘いものは別腹っていうし」
ボリューム満点のランチを食べ終え、セットで供される飲み物に口をつけながら、葉月はデザートメニューを凝視している。そんな彼女に呆れながらも、やっぱり私もいけるかも、と思ったのかメニュー表に両隣から高校時代の友人二人が首を突っ込む。
それぞれチョコレートケーキ、モンブラン、アイスクリームを追加注文し、積もった話にさらに花が咲いていく。
「っていうか、それって見合いっしょ?」
「んーーー、そうなんの?」
「今時ねぇ、そんな正式にってなにが正式なのっていうかんじだし」
「まあ、ねえ、どっちみち付き合うつもりはないけど」
「相変わらず男嫌い?」
「相変わらずっていうか、まあ、それなりに」
「いいかげん治ったかと思ったけど」
「葉月のそれは治んないよ、だってあの兄弟まだあんなかんじなんでしょ?」
「うん、あんなかんじ」
友人が指すあの兄弟、というのは当然睦月と文月のことであり、葉月にとっては男嫌いの最大の元凶とも呼べる人間だ。
「顔がそこそこっていうのがねぇ、これがまた馬鹿な女も多いってことだと思うけど」
「私もそう思う、さすがにあいつらも避妊だけは気をつけてるみたいだけど。あ、でも、いちどでいいからあなたの子よっていうのに立ち会ってみたいかも」
「洒落になんないって、それ」
その会話はデザートが運ばれて中断された。
恐らく再開されることはないだろう、それが女性同士の会話と言うものだ。
葉月の男嫌いの根本は、兄弟からの執拗ないじめによるものだ、というのはある意味真実である。
幼心に傷付いた心は、今も完全に癒されることはなく、表面的には何事もなかったかのように振舞ってはいられるが、時折その傷がひょっこり現れてはどうしようもない気分に陥ることも多い。
だけれども、葉月のこの男という異性に対する不信そのものは、その兄弟が壊滅的に女にだらしが無い、ということに起因している。
長男は女好きを公言して憚らない性格で、おまけに男女のあれはスポーツだと言い切る根性の持ち主だ。ストライクゾーンも異様に広く、葉月が知る限りでは母親より年上の女性とも関係をもったことがあるらしい。どの交際もまるでスポーツの試合のようにその場限りの事が多い上にそのことを隠そうともしない、また、相手に対してまったく未練がましい態度をとらないのも特徴のようだ。おかげなのかどうなのか、刃傷沙汰はその関係数に比べれば多くはなく、だけれども、見知らぬ女性が葉月に対して罵詈雑言を浴びせ掛けたことは片手では足りない。
次男は、女嫌いの女好き、という一見矛盾した嗜好の持ち主で、なんのことはないそういう対象としての女性は相手にするけれど、基本的には女嫌い、いや、女性そのものを根本的に見下している、といっても過言ではない。その例外は葉月であり、そのしわ寄せも当然葉月にやってくる。このブラコン、と、ありえない中傷を投げつけられ真冬に水をかぶせられたこともある葉月としては、この性根も根性も嗜好も腐りきった次男のことは、どちらかというと長男よりも嫌っている。その比較は害虫二種類を置いて、どちらが好きかを検討するようなものなのだけど。
だからなのか、だからこそなのか、葉月は異性としての男性にどちらかといえば失望したままの状態である、といえる。もちろん父親などは理想の男性像として申し分ないものなのだけど、いかんせん兄弟のインパクトが強すぎた。
このことは葉月と親しい友人ならば大抵は既知の事実であり、そこそこいる男友達もそのことを理解して、そういう雰囲気になることをできるだけ避けている状態だ。葉月の方としても、決して二人きりで会う事はしないようにしており、今でも仲のよいクラスメートの延長線上のような関係が続いている。
このままでいいとは思ってはないけれど、どうしていいのかもわからない。
葉月の心境としてはこれが一番近い。
そんな中で近づいてきた男性が、誰でもいいからあなたでもいいです、というある意味兄に似た嗜好をもったタイプであったことが、葉月の男嫌いに拍車をかけてしまった。
より頑なになった彼女は、やっぱり一生チマチマ仕事してよう、という決意を胸に、女友達とのデートを終了した。
おいしいものを食べて、楽しい会話をして、とりあえず今までの嫌な事はリセットしよう、そう言い聞かせながら、やっぱり本当にすっぱりと、今までのやりとりを記憶の彼方に消し去ってしまった。
それが葉月のいい所であり、悪いところ、なのかもしれない。
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