アナログな人間はどこまでもアナログで、だけれども時代はそんなことはお構いなしに進んでいく。
他大学の先生とのやりとりも今時はメールで行なうことが多い。もともと不規則であり、会議だ学会だ出張だと研究室に存在しない確率が高い先生方にとっては使い勝手もよいツールであることは確かである。その弊害としては、それはまず日本、いや、世界中のどこへいっても通信できる状態にある、という環境改善からもたらされたもので、つまるところいつでもどこでもメールという手段を用いて、追いかけられてしまう、といった事実である。
鈴木教授にしても例外ではなく、周囲ではいつのまにか様々な学内の連絡事項やら、先生同士のやりとりやら、はたまた論文審査のやりとりまでもがメールで行なわれている現状である。そしてまた、それらをフォローするのもどういうわけだか葉月の仕事なのである。
朝一番にやるべきこととして、教授のメールボックスのチェックがある。
8割以上がスパムメールであり、それらをゴミ箱へ放りこんだのち、学内の連絡事項に目を通す。ほとんどが回す必要性をかんじない事務通達ばかりで、それらもさっさと消去する。次に、他大学からの連絡、学会関係のメールなどにチェックをいれて、必要ならばプリントアウトをし、教授に目を通してもらう。返事が必要な場合は、一見何が書かれているのかわからない文字で認められた文章を葉月がパソコンにおこし、しかるのち送信される。
このメールチェックはお昼過ぎと終業時間前にも行なわれ、そのたびに葉月は同じことを繰り返している。
教授のメールチェックをした後、自分のメールボックスをチェックする。
こちらも事務方からの連絡がほとんどをしめ、取捨選択を行なう。
そんな中に、見覚えの無いアドレスからのメールが一通紛れ込んでおり、葉月はうっかりとそれをゴミ箱へと放りこむ寸前で、差出人が誰なのかに気が付いてしまった。
気が付かなければよかった。
そんな不埒な思いが浮かんではみたものの、とりあえずそのメールをクリックする。
やはり、というか予想通りというか、本文の最初に高山教授の名前がクレジットされている。
「…なんのつもり?」
思わず呟いた独り言は、幸いにも誰の耳にも届くことなく消えていく。
やっぱり届かなかったことにしようか。
ちらちらと浮かぶ消極的な拒否の姿勢を堪えながら、なんとか先を読み進めていく。
本文を読み終えた後の葉月の顔は、第三者が見れば噴出すほどに呆然としており、表情を失ったまま彼女は一片の思考すら回転することを放棄していた。
「デートの誘い?」
再び口に出した独り言に驚き慌てて口を閉じる。
普段は葉月のことなど気にしていない学生たちも、こういうえさを投げ込めばピラニアの如くよってたかってくるのは必須である。お堅い研究室の名前とは裏腹に、相手はまだ学生、当然その手の話には興味も好奇心も満々である。まして、自分と同世代の葉月に対してはである。
故障しかけた思考回路をゆっくりと動かし、今一度文章を読み直す。
あたりまえだが書かれてある文言に変化は無く、いくら朴念仁の葉月が斜めに解釈したところでその文章は、男性が女性を個人的に誘っているとしか思えない文章である。
ドライブにでも行きませんか?
あっさりとこんな文章が紛れ込んでいたメール文を三度読み返す。
どれだけ読み込んでも意味が変わるはずもなく、ドライブに誘われたという事実だけが葉月の頭の中でぐるぐると回っていく。
正直なところこういうときスマートに断る術を彼女は知らない。
普通の公立小学校、中学校、高校、さらには短大と、短大を除けば男女比がほぼ半々だった生活を思い出しても、男性に免疫がないわけではない。まして彼女には鬱陶しい兄と弟という男兄弟が二人も存在するのだ。なのに、こと男女の関係、といった観点からみると、葉月にとって異性としての男性というのは忌避すべきもの以外の何者でもないのだ。
男女問わず友人が多いものの、それ以上踏み込んだ付き合いをしたことがない葉月にとってみれば、今ここに突きつけられた問題は非常にハードルの高いものだ。どれだけ無い知恵を振り絞って思案してみたところで、いいアイデアは浮かばない。おまけに変に真面目なものだから、さらりと嘘をつくということすら考えつかない。どうしていいのかほとほと弱り果てたところに、まったくもっていつもいつも面倒な仕事ばかりを押し付けてくれる鈴木教授が部屋へとやってきた。
普段葉月が仕事をしている部屋は、助教などが押し込められている部屋で、八木青年と、ポストドクターの二名などがその部屋の主である。また、人数の割にはスペースが空いているため、物置などになりかけた本棚を葉月の必死の努力で、何とか見栄えのある蔵書棚に変化させた資料スペースなども存在している。当然、教授や准教授ともなると個人の居室を与えられており、普段この部屋で仕事をすることなどはほとんどないといっていい。やってくるとすれば、それぞれのメンバーに用事があるときであり、葉月、八木助教の順に用事を言い付かることが多い。今回も恐らく葉月へ用事があるのだろうけれど、電子化の仕事を押し付ける時にみせる後ろめたい雰囲気が微塵も感じられない。
これは通常の仕事だろう。
そう踏んだ彼女は、メールのことでフリーズ気味だった脳みそを動かし、最大限笑顔で教授を迎え入れる。
「何か御用でしょうか?」
「うん、用というか、まあ」
なんとなく歯切れの悪い返事に、嫌な予感はしつつも、顔を笑顔のまま保つ。
こそこそと周囲を見渡し、葉月以外に人間が存在しないことを確かめ、鈴木教授がおもむろに切り出す。
「高山君のことなんだが」
ここで、顔色を変えずに堪えきった自分を褒めて欲しい、と、葉月は動揺しまくった心臓を宥めながらわからない、といった風情に小首をかしげてみせる。
「隣の研究室の先生ですよね。どうかされたんですか?」
殊更自分とは何も接点がないのだと、事実葉月にとっては全くもってないのだが、強調する。
「いやね、どうも葉月君と正式にお付き合いしたい、と頼み込んできたんだが」
「はぁ?」
思い切り猫がずりおち、素が出てしまったことにも気がつかないほどの衝撃を受ける。
言うに事欠いて正式にお付き合いだと?
繰り返し心の中で呟いたそれは、どう考えても男女のそれで、ビールを飲み交わしてはいさようなら、というわけにはいかない種類のものだ、ということはいくら鈍感な彼女でも理解することができた。
だが、それをよりにもよって最近不審な行動をしていた高山教授から、自分にもたらされるとなれば別の話で、やっぱり不可解だと思わざるを得ない。
「いや、どうして私?」
「んーー、まあ、一応かわいいし、葉月君」
常ならばここで突っ込みを入れるところだろうけれど、さすがにそんな余裕はない。
「お付き合いってあれですよね、どっか行って遊んでくるってだけじゃだめですよね」
だけ、という部分を強調しながら、あえて訊ねてみる。
「まあ、正式に、と向こうも言っとるし、それだけじゃあないわなぁ」
「はぁ」
「悪い話ではないと思うが、まあ、しいて言えば年の差がありすぎるってところかなぁ」
「年の差っていうか、まあ、おっさんっちゃおっさんですけど。それより高山先生は私の事、工藤の娘だって知っているんですか?」
ようやくここにきて頭の回転が戻ってきた彼女は、あえてその質問を口にする。
彼女は、他大学ではあるけれど、今勤めているこの大学のOBにして准教授だった工藤教授の娘だ。当然この大学出身である高山先生は父親のことを知っているはずだし、そのことは既知の事実として誰も尋ねない程度のものだ。
今時教授の娘と婚姻、といったものにいかほどの価値があるかはわからない。しかし、周囲を見渡せばわりとその組み合わせの男女を目にする事も事実で、有名な学者の父に、有名な学者の夫を持つ女性や、兄弟と配偶者が学者である、といった女性が多いのも本当のところだ。葉月にしても学者の父に、学者の伯父であり、母親の立場に置き換えれば学者の兄に夫である。まして、葉月の職場は積極的にそのような筋の女性を雇い入れ、これまた積極的に男性職員の配偶者にしようという思惑を抱えているのだから、周囲にそのような夫婦がチラホラみえたところで驚く事ではない。
だが、我が身に降りかかるとすればそれはまた別の話だ。
彼女はまだ、結婚などを具体的に考えられる状態ではなく、それどころか男性とお付き合いしてみようと思ったことなどただの一度もないのだから当たり前だ。
「もちろん。知っていていってきたんじゃあないかなぁ、あれ」
「ああ、そうですか。そっちですね」
それほどの価値はない、といっても無価値ではなく、配偶者にするのなら条件は整った方が良い、といった程度に結婚のことを考えている人間がいることも知っている。
ここにきてようやく、高山教授の妙な行動の原理がわかったような気がして、至極納得をした。
「だったらお断りしておいていただけませんか?まだそういう気になれませんからって」
「そういうと思ったけど、本当にいいのかい?年さえ考えなければそこそこだと思うけど」
「私当分結婚する気ありませんし、高山先生のお年なら、そういうことすぐに考えなくてはいけませんでしょ?」
ようやく秘書らしい口調に戻った葉月は、鉄壁の笑顔で鈴木教授の依頼を拒絶する。
「ということで、そのお話はこれぐらいで」
仕事が滞っていることに気が付き、さっさと仕事にとりかかる。さして残念そうな顔をみせずに、鈴木教授はあっさりと部屋を出て行った。
これで、メールの返事もしないで済む。
小さく安堵した彼女は、軽快にキーボードを叩いていき、その日一日の仕事を見事に終業時間までにやり終えた。
>>戻る>>次へ